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私の代わりは、いなかったようです  作者: 九葉(くずは)


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第2話 書状を書いた人

 辺境伯ガイウスが男爵家を訪れたのは、関税交渉の返書を持参するためだった。


 少なくとも、父にはそう伝えてある。応接室に通された来客の茶を用意しながら、セレスタは廊下の向こうで姉のエリゼが侍女と夜会の衣装を選んでいる声を聞いていた。姉の縁談先の侯爵家から近々、正式に身辺の調査が入るらしい。エリゼは上機嫌で、セレスタの淹れた茶を珍しく褒めたほどだ。


 茶器を盆に載せて応接室に向かう。父はまだ書斎にいる。来客の対応を先に済ませるのはいつもセレスタの仕事で、そのことに疑問を持つ人間はこの家にいない。


 応接室の扉を開けると、長身の男が窓際に立っていた。辺境伯の紋章が入った外套を椅子の背にかけ、片手に書類の束を持っている。セレスタが入室すると、視線が手元の書類と、セレスタの手荒れした指先を行き来した。それから顔に戻り、軽く頷く。


「セレスタ・ヴォルニエ殿ですね」


 名前を知っていることに驚いた。父への返書を届けに来た相手が、次女の名前を調べている理由がない。


「はい。父はまもなく参りますので、お待ちいただけますか」


「お父上には後ほどご挨拶します。先にあなたに用がある」


 ガイウスは持っていた書類の束から一通を抜き、卓上に置いた。セレスタが先月書いた関税交渉の書状だった。父の署名欄に男爵の署名が入り、封蝋が割られている。余白にガイウスの書き込みがあった。税率の根拠として挙げた数字の横に小さく「正確」と一語だけ。


「この書状を書いたのは、当主ではありませんね」


 盆の上でセレスタの手が止まった。


「筆跡が違います。署名欄だけ別の手で、本文は一貫して同じ筆致だ。それと、三年分の流通量を季節で分解して論拠を組む手法は、こちらの交易文官でもなかなかやらない」


 ガイウスは書状の二枚目を開き、数字の列を指で辿った。


「男爵がこの精度で書いているなら、直接お会いして議論したかった。だが先日の口頭の返答には、この書状の論理が一切反映されていませんでした。書いた人間と署名した人間が違うのではないかと」


 七年間、何十通もの書状を書いてきた。どの書状も父の名前で届き、返書も父の名前に届く。七年間の形式であり、形式を疑う理由は誰にもなかった。商人のヘルマンは気づいていたかもしれない。だが面と向かって指摘した人間は、この男が初めてだった。


「私が書きました」


 それだけ答える。否定する理由がない。隠す理由もない。ただ、認められたことに動揺する理由もないはずだった。書状の仕事は七年間の日常で、褒められるために書いたことは一度もない。なのに、茶を注ぐ手がかすかに震えたのは、湯気のせいだと思うことにした。


 ガイウスは気づいたかもしれないが、何も言わなかった。茶を受け取り、一口飲み、盃を卓に置く。


「過去の書状も、すべてあなたですか」


「はい。七年分」


 ガイウスは頷いた。七年という数字を、彼は正確に受け止めた顔をしている。驚きではない。確認だ。七年分の仕事量を、この男は書状一通の精度から逆算しているのだろう。帳簿の背表紙の年数と同じだけの重さを、一語で量れる人間がいる。そういう読み方をする人間がいるということ自体が、セレスタには新しかった。


「単刀直入に申し上げます」


 盃を置いた手がそのまま卓上の書類に移る。


「あなたとの婚姻を、契約として提案したい」


 契約、という言葉を使ったことにセレスタは少し遅れて引っかかった。求婚の形式が商談に近い。


「辺境の交易実務には帳簿と交渉の両方ができる人間が必要です。あなたの書状を読んで、その能力は確認しました。ただし、私は無償の労働力を求めているわけではありません」


 外套の内側から折りたたまれた書類が取り出され、卓上に広げられた。婚姻契約書の草案。条項は十四あり、そのうちの第七条にセレスタの視線が止まる。


 「妻の職務には、正当な報酬が発生します」


 家政管理、領地経営への参画、交易文書の起草。それぞれに報酬額が記されている。働いた分は妻個人の財産になると明記され、算定根拠は辺境の交易官の俸給表に準拠していた。感情的な数字ではない。制度として設計されている。


「……なぜ、最初からこれを入れているのですか」


「入れない理由がないからです」


 ガイウスの答えは短く、何も足さなかった。その沈黙に問い詰める空気はなく、書いてある通りだという静けさだけがある。


 セレスタは契約書の条項を上から順に読んだ。帳簿を七年読んできた目には、数字と条件の整合が取れていることは確認できる。第八条は妻の判断権限、第九条は収支報告の義務、第十条は職務に対する辞退の権利。どの条項にも、一方が他方を無償で消費する構造がなかった。


 七年間、自分の仕事に値段がつくことを考えたことがなかった。値段がないと思っていたのではなく、つけてくれる相手がいなかっただけだ。父にとって帳簿は「家にいる娘がやること」であり、交渉の書状は「署名する前の下書き」であり、そのどちらにも対価は発生しない。家族だから。


 この契約書はその前提がない。仕事に対して報酬があり、報酬は妻の財産になる。当然のことが書いてあるだけなのに、当然のことが初めて文字になっている不思議さがある。


 第七条の文字をもう一度読む。「正当な報酬」という四文字が、帳簿の「雑費」欄とは違う重さで紙の上に載っている。


 廊下に父の足音がした。


 書斎から出てきた男爵が応接室に入り、ガイウスに挨拶をする。セレスタが茶を出していることには疑問を持たない。辺境伯が次女に婚姻を申し込んでいると分かったのは、卓上の契約書を見てからだ。


 父は一瞬驚き、次に値踏みをし、それから持参金の話を始めた。辺境伯家との縁は男爵家にとって悪くない。問題は費用だった。姉の縁談の身辺調査費用が先に控えている。


「置いてやった恩を忘れるなよ。持参金はこれだけで十分だろう」


 父が提示した金額を、セレスタは帳簿の数字として処理した。姉の夜会ドレス一着分にも満たない。七年間この家の帳簿を回してきた次女への値づけが、これだった。置いてやった恩という言い方は、養育費を払ったのだから感謝しろという意味だ。


 応接室の空気が変わる。ガイウスの指がわずかに動いている。何か言おうとして、セレスタの方を見た。だがセレスタが先に口を開いた。


「構いません。その金額で結構です」


 父は満足そうに頷く。ガイウスは口を閉じ、セレスタを見た。視線の中に質問がある。構わないのか、と。この持参金の額がどういう意味を持つか、帳簿を読める人間には分かるのだろう。


「ただし、一条だけ追加させてください」


 セレスタは契約書の余白に向かって筆を取った。第十五条。帳簿をつけ慣れた手が、迷いのない字で一行を書き加える。


 ——実家への無償の援助は、行わない。


 書き終えて筆を置いた。父はその条項を読み、わずかに眉を動かしたが、深くは考えなかった。これまでセレスタがどれだけの実務を無償で担ってきたかを知らない人間には、この一条の重さは読めない。援助がなくなって困るのは誰なのかを、父はまだ数えていない。


「好きにしろ。嫁いだ後まで家のことを気にする必要はない」


 父はそう言い切った。自分が何を手放しているのかを、この人は帳簿の数字を読むようには理解していない。だからこそ、その言葉は軽い。


 ガイウスが契約書を整え直し、署名欄をセレスタの前に差し出す。筆はすでに手元にある。七年間、帳簿の数字を書き続けてきた、同じ筆だ。


 セレスタは筆を執った。七年間、帳簿に数字を書いてきたのと同じ筆跡で、今度は自分の名前を書く。父の代筆としてでも、家の雑費の記録としてでもなく。


 署名のインクが乾くまで、誰も何も言わなかった。ガイウスが契約書の自分の署名欄にも名前を入れ、書類を揃えて封筒に収める。事務的な動作の中に、急かす気配はない。


 父が立ち上がり、「では、支度の件は追って知らせる」と言って応接室を出ていった。姉の衣装選びの声が廊下から聞こえる。この家はもう、セレスタの署名のことを忘れかけている。


 セレスタは帳簿の分類欄に「雑費」と書いた昨夜のことを思い出していた。母の形見の値段を記したあの行のことを。


 恩の帳尻は、これで合う。

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