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私の代わりは、いなかったようです  作者: 九葉(くずは)


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第1話 雑費

 朝の帳簿を開くと、昨日の支出が三件、未記入のまま残っていた。


 使用人が走り書きした伝票と、商人への仮払い証書と、姉の仮縫い代の請求書。どれもセレスタが不在の半日に溜まったもので、帰宅した時には父の書斎の机に重ねて置かれていた。重ねた人間は中身を見ていない。見ていたら、仮縫い代の金額に気づいたはずだ。


 夜会用の新しいドレス。銀糸の刺繍に裏地の絹、仕立て屋の急ぎ料まで含めて、セレスタの季節の衣服代の四倍になる。


 帳簿の分類欄に「交際費(長女)」と書き、金額を転記した。筆の先が一瞬だけ止まったのは、インクが乾いていたからだ。それ以外の理由はない。


 関税交渉の書状は昨夜のうちに書き上げてある。


 辺境からの穀物流通に関わる通行税率の調整で、こちらの提示額と先方の要求の乖離を埋める論拠を、過去五年分の流通量の推移と季節ごとの価格変動から組み立てた。徹夜になったのは計算のためではなく、父の口調に合わせた文体の調整に手間がかかったからだ。書き手の正確さと、署名者の粗さを一通の中で両立させなければならない。


 父が署名する欄だけを空白にして、封をせずに書斎へ置いた。以前は下書きの余白に修正の指示が赤字で入ることもあった。三年ほど前から、赤字はなくなった。修正する必要がなくなったのか、読まずに署名するようになったのか。どちらでも結果は同じだ。書状は父の名前で届き、返書も父の名前に届く。


 書斎の棚には七年分の帳簿が並んでいる。背表紙のインクの色が年ごとにわずかに違うのは、セレスタが毎年、新しいインクを自費で調達しているからだ。父はインクの銘柄を知らない。


 昼過ぎに来客があった。


 穀物商のヘルマンが関税交渉の進捗を確認しに来たのだが、応接室に通されたとき、父はまだ書斎から出ていない。セレスタが茶を出し、季節の挨拶を交わした。先方が持参した交渉資料の要点を読み上げ、数字の根拠を一つ確認する。ヘルマンは慣れた様子で帳簿の話をセレスタに振り、二人で来期の見通しを少しだけ詰めた。


 帰り際、ヘルマンが小さな包みをセレスタに差し出す。


「次女殿に。いつも丁寧に帳簿を見ていただいている礼です」


 辺境の蜂蜜菓子だった。受け取って礼を言おうとしたところで、廊下の奥から父の声が割り込んだ。


「ヘルマン殿、遠路ご苦労だったな。書状の件は上の娘が手配したから、近日中に届くだろう」


 ヘルマンの目がわずかにセレスタを見た。一瞬、何か言いかけて、やめた顔をしている。セレスタは目礼だけ返し、包みを持って応接室を出た。


 書斎に戻ると、蜂蜜菓子を引き出しにしまった。姉の好物ではないから取られることはない。弟に分けてもいいが、明日にする。今日はまだ仮払い証書の処理が残っている。


「お前は社交もできんし、器量もよくない。だが家にいる分には、まあ使い道はある」


 夕食の席で父がそう言ったのは、弟の進路の話の流れだった。リュカが騎士学校への推薦を受けたいと言い、費用の話になり、父が「長女の縁談と重なる」と渋った。それなら、と視線がセレスタを通り過ぎる。


「セレスタは家のことをやっていればいい。外に出しても恥をかくだけだ」


 姉のエリゼが「お父様、そんな言い方は」と一応たしなめたが、言葉に力がない。エリゼ自身、妹が夜会に出てこないことを不便だと思ったことはないだろう。裏方は裏方のまま、夜会の準備だけしてくれればいい。食卓には七年かけて染みついた空気がある。


「家族なのだから、支え合うのは当然だろう」


 父が付け足した。セレスタは頷いた。


 支え合う。その言葉の重さが片側にだけかかっていることを、この食卓の誰も量りにかけない。セレスタはスープ皿を下げるために立ち上がった。誰も「ありがとう」とは言わない。七年前は弟がまだ言っていた。今は言わない。食卓を片付ける人間は風景の一部であり、風景に礼を言う習慣はこの家にはない。


 食後、リュカが台所に茶を取りに来た。セレスタは流し台で食器を片付けている。使用人が二人いるが、夕食後は先に下がらせていた。帳簿の時間を確保するために、残りの片付けは自分でやった方が速い。


「ねえ、セレスタ姉さん」


 リュカは姉を「姉さん」、セレスタを「セレスタ姉さん」と呼ぶ。呼び方にも序列がある。


「姉さんみたいに華やかなら、家の役に立てるのにね」


 水の中の皿をもう一枚、持ち上げた。


「そうね」


 リュカに悪意はない。十五歳の弟が家族の空気の中で育てば、そういうものだと思うのは自然なことだ。華やかな姉は社交で家の顔を作り、地味な妹は家にいる。弟の世界では、それだけの話にすぎない。


 セレスタが弟の教育費の計算を先月も夜遅くまでやっていたことを、リュカは知らない。知らないのは、セレスタが教えなかったからだ。教えたところで何が変わるのかを、もう計算する気にもなれなかった。


 茶を持って弟が出ていく。流し台の水面が静かになった。


 夜、帳簿を閉じようとして、廊下から姉の化粧台の引き出しが開いたままになっているのが見えた。


 見えただけなら閉めて通り過ぎた。だが引き出しの中に質札がある。セレスタの部屋にあったはずの小箱が消えていることには、三日前から気づいていた。母が遺した髪飾り。銀細工に青い石がひとつ嵌まった、華美ではないが丁寧な造りのものだった。


 質札の金額を読む。姉のドレスの仮縫い代に足りない額だが、手付けにはなる。母が生きていた頃、この髪飾りをセレスタの髪に留めながら「帳簿が読める子は賢い子よ」と言っていたことを、今は帳簿の数字と同じ正確さで覚えている。


 誰が持ち出したのか。姉か、父の指示か。どちらにしても、セレスタに断りはなかった。家の棚にある物は家の物で、家の物は必要な人間が使う。それが七年間のこの家の秩序だった。声を上げなかったのは、上げても届く場所がないからだ。


 書斎に戻り、帳簿を開き直した。窓の外はもう暗い。この時間に灯りがついているのは、この家でセレスタの部屋だけだろう。


 今日の日付の行に、金額を書き入れる。分類欄には少し迷って、「雑費」と記した。母の形見は交際費でも衣装費でもない。この家の帳簿には、ほかに分類する場所がなかった。


 筆を置いた。インクが乾くのを待つ間、帳簿の数字を上からもう一度眺める。交際費、仕入れ、仮払い、交際費、雑費。どの行も同じ太さの、同じ筆跡で書かれている。七年間、この帳簿を書いたのはセレスタだけだ。


 母の形見の値段を、私は自分の字で帳簿に残した。

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