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私の代わりは、いなかったようです  作者: 九葉(くずは)


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第8話 私の値段

 辺境の春は遅い。王都ではとうに花が咲いている頃だが、ここではようやく窓の外の枝に若葉が出始めたところだ。


 セレスタは自分の執務室で報酬台帳を開いていた。自分の執務室。この言葉にまだ少しだけ慣れない。男爵家の書斎は父のもので、セレスタはそこを間借りして帳簿をつけていた。今は違う。この部屋はセレスタの執務室であり、机も椅子も棚も、帳簿をつけるためのインクも、すべてセレスタの職務に対して用意されたものだ。窓際には自分で選んだ小さな鉢植えがある。


 台帳の数字を確認する。冬の交易期の決算が終わり、春の分の見通しを立てる時期に入っている。数字の一つ一つに手触りがある。自分が采配した取引の結果が、自分の名前で記録されている。


 扉が開いて、ガイウスが入ってきた。手に書類を持っている。


「今期の君の報酬の相談だ」


 ガイウスは書類を机の上に置いた。報酬の算定書だ。冬期の交易実績に基づいた計算が、いつもどおり正確に並んでいる。セレスタはそれを受け取り、数字を一つずつ確認してから、筆を取った。


 二か所に赤字を入れる。一つは過大評価されている手当の修正。もう一つは、計上されていなかった経費の追加。増やすための修正ではない。正確にするための修正だ。ガイウスはそれを見て、「では、そのように」と言った。報酬を自分で減らす妻を、ガイウスは止めない。正確さが彼女の仕事だと知っているからだ。


 七年間、帳簿に「雑費」と書いていた手で、今は自分の報酬の数字に赤を入れている。雑費ではない。正当な報酬だ。この違いが、ここにいる理由のひとつになっている。男爵家の帳簿には、セレスタの仕事の分類欄がなかった。ここでは、仕事の一つ一つに名前と値段がつく。


 午後、執務室の棚を整理していたとき、引き出しの奥から小さな包みが出てきた。先月、町の市場で買ったものだ。


 包みを開ける。銀細工の髪飾り。青い石がひとつ嵌まった、華美ではないが丁寧な造りのもの。母が遺した形見と同じ意匠だ。同じ職人の系譜の品ではないから、細部は違う。だが青い石の嵌め方と、銀の線の流れが似ている。


 市場でこの髪飾りを見つけたとき、セレスタは少し迷った。自分のために装飾品を買ったことがない。男爵家にいた七年間、衣服費は姉の分に回され、装飾品は持っていても質に入れられた。自分のために何かを選ぶという行為そのものが、経験の外にある。


 迷って、買った。自分の給金で。給金という言葉が自然に出てくることが、まだ少しだけ新しい。以前は「給金」という概念が自分に結びつくとは思っていなかった。初めて、自分のために何かをほしいと思って選んだ買い物だ。ガイウスに見せたとき、彼は「いい買い物だ」とだけ言った。それ以上は何も足さない。それで十分だった。


 髪飾りを手に取り、髪に留める。鏡は執務室にはないが、指先で触れれば位置は分かる。母の形見は質に入れられて戻ってこなかった。だが同じ意匠のものを、自分の手で、自分のために買い直した。奪われたものが元に戻ったわけではない。自分で選び直した。この違いは小さく見えて、大きい。


 夕刻、ガイウスが執務室に戻ってきた。今度は報酬の書類ではなく、茶を二つ持っている。一つをセレスタの机に置き、自分は窓際の椅子に座った。


「一つ、話しておきたいことがある」


 ガイウスは茶碗を両手で包みながら、窓の外を見ていた。


「契約書に報酬の条項を入れたのは、母のためだ」


 セレスタは手を止めた。


「母も辺境伯家に嫁いだ。父の代だ。母は家政のすべてを担い、帳簿もつけ、来客の対応もした。対価は一度も支払われなかった。父は母の仕事を『妻の務め』と呼んだ。母はそれを受け入れ、受け入れたまま、身体を壊して早くに亡くなった。庭で倒れた日も、帳簿を手放さなかった」


 ガイウスの声は平坦だ。感情を消しているわけではない。事実として語っている。帳簿の数字を読み上げるように、正確に。窓の外を見る目が、遠い記憶を追っている。


「だから契約書に書いた。妻の職務には報酬が発生すると。母にできなかったことを、制度として残しておきたかった。制度にしておけば、次の代にも残る」


 セレスタはガイウスを見た。この人が書類でしか気持ちを伝えられないのは、不器用だからだと思っていた。違う。書類に書いておかなければ、母のように消えてしまうことを知っている。報酬条項も、職務の明記も、すべて母への弔いだ。書類は、この人にとって花束と同じものだった。


「あなたのお母様と、私は似ていますか」


「似ていない。君は自分で条項を書き足した。母にはそれができなかった」


 ガイウスは茶碗から目を上げ、セレスタの髪に留まった青い石に一瞬だけ視線を止めてから、顔を見た。その視線に、同情はない。正確な評価がある。


 その夜、辺境伯家に男爵家の惨状を伝える書状が届いた。商人たちの取引停止が続き、使用人の一部が辞め、姉の再縁談の目処も立たないという内容だった。


 セレスタはそれを読み、机の上に置いた。遠い国の天気予報のように聞こえる。あの家の困窮は、セレスタの責任ではない。無償で支えていたものが、無償でなくなった。それだけのことだ。哀れみはある。だが戻る理由にはならない。構造が変わっていない場所に戻れば、同じことが繰り返されるだけだ。


 私の代わりは、いなかったそうです。


 その報せを受けても、胸に波は立たない。手元の報酬台帳に目を戻す。七年分の無償を、ここではもう誰も当然とは呼ばない。当然と呼ばれていたことが、今では遠い季節の記憶だ。


 翌朝、執務室の窓を開けた。春の風が入ってくる。辺境の遅い春が、ようやくこの部屋にも届いた。報酬台帳は閉じてある。今日の仕事はこれから始まる。


 ガイウスが扉の前に立っていた。いつもの書類は持っていない。ただ立っている。


「セレスタ」


 名前を呼ばれた。契約の相手方としてではなく、報酬の支払い先としてでもなく、ただ名前として。


 セレスタは顔を上げた。この人の隣にいることは、契約書の条項が出発点だった。報酬があるから働き、働いているからここにいる。それは事実だ。だが今、この瞬間にここにいるのは、条項の力ではない。自分の意思だ。


「ここにいることを、私が選びました」


 ガイウスは何も言わなかった。代わりに、小さく頷く。書類でしか気持ちを伝えられない人が、書類なしで受け取った言葉だ。窓の外では、遅い春の光が辺境の丘を照らしている。


 春の窓から届く風が、新しい髪飾りを揺らした。

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