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君と試す、恋の方程式 〜黒歴史ノートから始まるラブコメ実験〜  作者: 磯辺


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11/11

図書室と一枚のしおり

 放課後の教室には、エアコンの低い音が残っていた。


 帰りのホームルームが終わると、教室は一気に騒がしくなる。


 部活へ行くやつ。


 友達と話しながら帰るやつ。


 カバンを机の横から引き上げる音。


 椅子を引く音。


 その中で、田辺が部活用のバッグを肩に引っかけた。


「佐倉、悪い」


 嫌な予感がした。


 田辺は俺の机に、文庫本を一冊置いた。


 図書室のシールが貼ってある。


「これ返しといて」


「……自分で行け」


「部活遅れる」


「知らん」


「返却、今日までなんだよ」


 田辺はそう言って、本の間から少し出ている返却期限票を見せた。


「なおさら自分で行け」


「帰宅部だろ、お前」


「帰宅部を便利に使うな」


「あとでジュース奢るから」


「いらん」


「頼んだ」


「おい」


 田辺はこっちの返事を聞く前に、部活用のバッグを肩にかけ直して教室を出ていった。


 廊下の向こうで、誰かが田辺の名前を呼んでいる。


 机の上には、本だけが残った。


 断ればよかった、とは思う。


 でも、返却期限は今日までだった。


 それを見てしまった時点で、少し面倒になった。


 田辺が、じゃない。


 そのまま放っておけない自分が。


 俺は本を持って、席を立った。


 廊下へ出ると、部活へ向かう声があちこちから聞こえてきた。


 吹奏楽部の音が、遠くで混ざる。


 体育館の方からはホイッスルも聞こえた。


 田辺も、たぶんその中にいる。


 俺は本を片手に持ち直して、図書室へ向かった。


 図書室は、教室よりずっと静かだった。


 放課後だからか、人も少ない。


 ページをめくる音。


 椅子が床を擦る音。


 時計の針。


 それくらいしか聞こえない。


 入口の横に、小さなポスターが貼ってあった。


> 六月読書企画

> 読んだ本に、次の人へ一言しおりを残そう


 その下に、色違いのしおりが並んでいる。


 白。


 水色。


 薄い黄色。


 細長い紙の端に、小さな本の絵が印刷されていた。


 返却カウンターへ向かう。


 カウンターには、図書委員の女子が座っていた。


 俺が本を置く前に、図書委員が横のしおりを一枚取った。


「六月企画です。よかったら、一枚お願いします」


 白いしおりが差し出される。


「俺、これ読んでないんで」


 俺は手を出さなかった。


「大丈夫です。次に読む人へ一言でも」


 図書委員はにこやかだった。


 断りづらい種類の笑顔だった。


「短くても平気です」


 横の机にはペンが置いてある。


「空白でもいいので」


 空白でいいなら最初から渡さなくていいだろ、と思った。


 思っただけで、声にはならなかった。


 俺は白いしおりを受け取る。


「書く時は、あちらの机どうぞ」


 図書委員が窓際を示した。


 俺はそっちを見る。


 本。


 薄い黄色のしおり。


 黒いペン。


 窓際の机で、誰かがしおりを書いていた。


 近づく。


 椅子の横まで来たところで、その人が顔を上げた。


 小日向まひろだった。


「あ」


 小さな声だった。


 図書室だからだと思う。


「佐倉くんも?」


 小日向の視線が、俺の手の中の白いしおりへ落ちる。


「……小日向も」


 小日向は少しだけ笑った。


「逃げられなかった」


 薄い黄色のしおりを、指先で軽く押さえる。


 まだ途中まで書かれているらしい。


 俺は斜め向かいの席に座った。


 机の上に、本と白いしおりを置く。


 図書室は静かだった。


 紙をこする音。


 時計の音。


 誰かが本を棚へ戻す音。


 それだけが小さく聞こえる。


 小日向が、またペンを動かす。


 時々止まる。


 少し考えて、また動く。


 俺は白いしおりを見る。


 細長い紙。


 何も書かれていない。


 田辺の本だ。


 俺は読んでいない。


 次に読む人へ一言なんて、俺が残すものじゃない。


 ペンを持つ。


 ペン先を紙に置く。


 一文字目が、なかなか出てこない。


 小日向のペンが止まった。


 しおりを裏返す。


 その上に、手を置く。


 俺はまだ何も書けていなかった。


 小日向は何も言わない。


 ただ、しおりを押さえたままこっちを見ている。


 それが妙に落ち着かなかった。


「……もう書いたのか」


「うん」


 小日向は、伏せたしおりを指先で持ち上げた。


「気になる?」


 こちらへ見せるように。


 けれど、見えているのは裏側だけだった。


 返事をしなかった。


 でも、小日向はそれで分かったらしい。


「好きな子の名前」


 呼吸が、一瞬だけ止まりかけた。


 小日向はそれ以上言わなかった。


 からかっているのか。


 本気なのか。


 分からない。


 聞けなかった。


 小日向はしおりを本に挟んだ。


 薄い黄色の端だけが、ページの間から少し見える。


 それから、椅子を小さく引いた。


 何か言いかけて、やめる。


 少しだけ、カバンの方へ視線を落とした。


「……少し、席外すね」


 俺は黙ったまま、小さくうなずいた。


 それ以上は聞かなかった。


 小日向は本を机に残したまま、図書室の出口の方へ歩いていく。


 足音はすぐに小さくなる。


 机の上には、小日向の本が残った。


 薄い黄色のしおりが、間に挟まっている。


 好きな子の名前。


 その言葉だけが、妙に残った。


 見る必要はない。


 見る理由もない。


 そもそも、見たら終わりだ。


 俺は白いしおりを見る。


 まだ何も書けていない。


 ペン先は紙の上で止まったまま。


 時計の針の音が、さっきより少しだけ大きく聞こえた。


 小日向の本には触らない。


 触らない。


 そう決めたはずなのに、視線だけが何度もそっちへ行く。


 薄い黄色の端。


 ページの隙間。


 見えない一行。


 俺は一度、手を引いた。


 それから、もう一度、机へ戻す。


 指先が本の端に触れる。


 少しだけ開く。


 しおりの文字が見えた。


> 好きな子の名前

> おもち


 止まった。


 おもち。


 好きな子。


 おもち。


 頭の中で、その三文字だけが変な位置に引っかかる。


 その時、背後で足音が止まった。


「見た?」


 声は小さかった。


 俺は本を閉じるのが、少し遅れた。


「……見てない」


 小日向は机の横に立っていた。


 本と、俺の手元を見る。


「見たね」


 返せなかった。


 小日向は少しだけ笑った。


 でも、その笑いが出るまでに、ほんの少し間があった。


「好きな子だよ」


 俺は黙っていた。


 小日向は本を手に取る。


「うちの子猫」


 返事ができなかった。


 できなかったというより、どこに返事をすればいいのか分からなかった。


 小日向はしおりの端を指で押さえる。


「正式名は、もけもけカルパス三世」


 俺は小日向を見る。


 小日向は、何でもない顔をしている。


 何でもない顔をしているように見せている。


「……原型」


 ようやく、それだけ出た。


「可愛いでしょ」


 小日向は少しだけ自慢げに言った。


 図書室の静けさの中で、その短いやり取りだけが妙に残った。


 俺は白いしおりに目を戻す。


 何も書いていない。


 さっきまで空白だった紙が、余計に白く見えた。


 ペンを持ち直す。


 今度は、一文字目が出た。


 俺は一行だけ書いた。


 書いた瞬間、手が止まる。


 すぐにしおりを伏せた。


 小日向の視線が、伏せた白い紙に落ちる。


「書けた?」


「……まあ」


「見てもいい?」


「だめ」


 即答だった。


 小日向は少しだけ笑った。


 でも、覗き込まない。


 取ろうともしない。


 ただ、伏せられた白い紙を見ている。


 しばらくして、小日向は机の上に残っていた白いしおりを、もう一枚取った。


「まだ書くのか」


「これは、別」


 小日向はしおりを、俺から見えない角度へ置く。


 ペン先が動く。


 紙をこする音だけが、小さく響いた。


 俺は見ないようにした。


 しばらくして、小日向のペンが止まる。


 しおりを裏返す。


「佐倉くん」


「……何」


「それ、ちゃんと挟んでね」


 小日向は俺の伏せた白いしおりを見ていた。


「……分かってる」


 俺は田辺の本を開いた。


 どのページでもよかった。


 真ん中あたりに、白いしおりを挟む。


 閉じる。


 ただ、それだけだった。


 小日向も、自分の本を閉じた。


「じゃあ、私、もう少しだけ残るね」


「……そうか」


「うん。また明日」


「ああ」


 俺は田辺の本を返却カウンターへ持っていった。


 図書委員に本を渡す。


 今度こそ、返却だけだった。


 図書室を出る時、入口のポスターがまた目に入った。


> 読んだ本に、次の人へ一言しおりを残そう


 俺は本を読んでいない。


 なのに、言葉だけが先に残ってしまった。


 廊下へ出る。


 部活へ向かう声が遠くから聞こえる。


 教室とは違う、放課後の音だった。


 図書室の扉が、後ろで静かに閉まる。


 小日向は、図書室の扉が閉まる音を聞いていた。


 それから、ゆっくり息を吐く。


 机の上に置いた白いしおりを見る。


 さっき書いた、もう一枚。


 誰にも見せないための一枚。


 小日向はそれを指先で持ち上げた。


 カバンを開ける。


 ジッパーの音が、小さく鳴った。


 カバンの中には、黒い表紙のノートがあった。


 角には、銀色の星シールが貼ってある。


 小日向の指が、ほんの少しだけ止まる。


 黒い表紙を開く。


 ページの端が、指先に少し引っかかった。


 小日向は、途中のページを開いた。


 白いしおりを、ページの間へそっと挟む。


 それから、そのページに指先を置く。


 閉じる前に、そこに残したことを確かめるみたいに。


 小日向はノートを閉じた。


「実験結果」


 図書室には、小日向の声だけが小さく落ちた。


 少しだけ間を置いて、小日向は続ける。


「見えない一行は――思ったより、気になります」


 小日向はカバンを閉じる。


 ジッパーの音だけが、やけにはっきり残った。

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