第6話「ひなたの観察」
第6話「ひなたの観察」
昼休みの教室は、いつも独特の熱気に包まれている。
女子が八割を占めるこの空間。
視線の先にあるのは、希少な男子生徒だ。
私のクラスには、三人の男子がいる。
いつも疲れ果てている田辺くん。
存在感を消している松本くん。
そして、最近妙に目立っている崎山くん。
私は購買のパンを齧りながら、窓際をぼんやりと眺めていた。
「ねえ、ひなた」
隣の席の村瀬が、声を潜めて私の肩を叩く。
指差す先には、中庭を歩く二人の姿があった。
崎山くん。
その少し後ろを歩く、生徒会書記の白河さん。
「最近、あの二人よく一緒にいない?」
「そうだね。生徒会の手伝いをしてるって聞いたけど」
村瀬が面白そうに目を細める。
窓越しに見える二人の距離。
この学校では、男子と女子が並んで歩くこと自体が稀だ。
ましてや、あの白河さんが。
「白河さんって、崎山くんと話すとき少し違う気がする」
村瀬が指先で顎を触りながら、分析するように言った。
ひなた「どう違うの」
「なんか……ちょっとだけ、やわらかい?」
村瀬の言葉に、私はもう一度二人を見た。
白河さんは凛としている。
歩く姿勢も、制服の着こなしも、隙がない。
でも、崎山くんに何かを言われた瞬間。
彼女の肩が、ふわりと揺れた。
向けられた顔が、ほんの一瞬だけ、年相応の少女のように綻ぶ。
(あ、笑った)
それは、校内放送で見るような、完璧に作られた笑顔ではない。
もっと頼りなくて、温かそうな、本当の顔。
「あんな顔、他の人の前では見せないのにね」
村瀬が感心したようにため息をついた。
クラスの他の女子たちも、二人の様子を遠巻きに伺っている。
憧れと、驚きと、それから信じられないものを見るような困惑。
「崎山くんって、何者なんだろうね」
村瀬がポツリと言った。
村瀬が他のグループへ遊びに行った後。
私は、口の中に残ったパンを飲み込んだ。
(崎山くん、か)
私は、少し前の放課後を思い出す。
図書室の前で、彼とばったり会った時のこと。
『あ、お疲れ。ひなたさん』
彼はそう言って、当たり前のように挨拶してきた。
驚いたのは、私の方だった。
(崎山くんって、普通に話せる)
それがどれだけ珍しいことか。
最近、嫌というほど分かってきた。
この世界の男子は、二つのタイプに分かれる。
一つは、女子の視線に怯え、常に「管理」されることを恐れて殻に閉じこもるタイプ。
田辺くんがそうだ。
いつも死んだような目をして、女子と目を合わせないように生きている。
もう一つは、自分の希少価値を理解し、女子を突き放すようなタイプ。
あるいは、極端に奉仕されて傲慢になるタイプ。
でも、崎山くんはそのどちらでもなかった。
彼は、私を「女子」というくくりで見ない。
「クラスメイトのひなた」として、ごく普通に言葉を投げてくる。
(……それが、おかしいんだよね)
私は窓の外、もう見えなくなった二人の影を追った。
私たちの「普通」は、彼にとっては「普通」じゃない。
そして彼にとっての「普通」は、この私たちを激しく揺さぶってしまう。
(白河さんが変わったのも、きっとそのせい)
あの凛としたお嬢様が、誰かに「普通」に扱われる。
「白河家の顔」ではなく、ただの「澪さん」として話しかけられる。
それは、彼女にとってどれほどの衝撃だっただろう。
(私だって、少しドキドキしたし)
彼と話す時、私は自分が「機嫌を伺う側の女」であることを忘れてしまう。
ただの私でいられる。
それは、恐ろしいほどの心地よさだ。
(白河さん、あんなに耳まで赤くして)
村瀬が言っていた「やわらかい」という言葉。
それは、頑丈に守られていた彼女の鎧が、崎山くんの「普通」によって溶かされている証拠だった。
(崎山くんは、自覚がないんだろうな)
あんなに無自覚に、誰よりも厳しい規律の中にいる女の子を解かしている。
それは、どんな熱烈なアプローチよりも残酷で、甘い。
掃除の時間。
男子三人は、男子更衣室の周辺だけを掃除すればいいことになっている。
女子たちは交代でその付近を通り過ぎ、彼らの姿を盗み見ようとする。
「崎山、お前……」
更衣室の前で、田辺くんが震える声で崎山くんに話しかけていた。
私はバケツを持って、わざとゆっくりとその横を通り過ぎる。
「……白河さんと、名前で呼び合ってるって本当か?」
田辺くんの声は、恐怖に近い驚きに満ちていた。
崎山くんは、モップを動かしながら、心底どうでもよさそうに答える。
「ああ。さっき許可もらった」
「き、許可って。お前、分かってるのか? 白河家だぞ?」
(名前で、呼んでるんだ)
私の心臓が、少しだけ跳ねた。
この世界で、下の名前で呼び合うのは特別な関係の証だ。
ましてや、相手は白河さん。
「名前で呼ぶくらい、普通だろ。友達だし」
「……普通じゃない! 絶対におかしい!」
田辺くんが頭を抱えてしゃがみ込んだ。
崎山くんは、相変わらず淡々と床を磨いている。
(友達、か)
その言葉が、私の胸にすとんと落ちた。
崎山くんにとって、それはただの言葉。
でも、白河さんにとっては、きっと一生に一度の、魔法のような響きだったに違いない。
(白河さん、今どんな顔してるのかな)
彼女は今、生徒会室で一人、自分の名前を反芻しているのかもしれない。
「澪」と呼ばれた時の、あの熱を。
「ひなた、何ぼーっとしてんの?」
クラスの子に声をかけられ、私は慌てて雑巾を絞った。
「あ、ごめん。ちょっと考え事」
私は、崎山くんの横顔を盗み見た。
彼は、自分がどんな大事件を起こしたのかも知らず、ただ「普通」に掃除を終えようとしている。
(崎山くん。君は、自分がどれだけ危険か分かってないでしょ)
でも、その無自覚な強さに。
そして、彼が白河さんに与えた「普通」という特別に。
私は、ほんの少しだけ、胸が熱くなるのを感じていた。
(クラスも、これから大変なことになりそう)
村瀬たちが二人の関係をどう噂するか。
白河家がどう動くか。
想像するだけで恐ろしいけれど。
(でも、ちょっとだけ楽しみかも)
私は、白河さんがまた「やわらかく」笑う瞬間を、もう一度見たいと思ってしまった。
それは、この異常な世界で、唯一見つけた「本当のこと」のような気がしたから。
(私も、今度名前で呼んでみようかな)
無理だと分かっていても、そんな考えが頭をよぎる。
私は小さく笑って、冷たい水の中に手を浸した。
放課後。
昇降口で、白河さんが車を待っていた。
いつもなら、周囲の生徒を寄せ付けないオーラがあるのに。
今日の彼女は、どこかソワソワとして、何度も自分の左胸を押さえていた。
崎山くんが、自転車で彼女の横を通り抜ける。
「じゃあな、澪さん」
「……っ、はい。また明日、崎山さん」
彼女の声は、震えていた。
顔を覆うように、彼女は慌てて下を向いた。
でも、その隙間から見える耳は、真っ赤に熟した果実のようだった。
(やっぱり、あんな顔、見たことない)
私は、少し離れた場所からその光景を見守っていた。
崎山くんの自転車が、夕日の中に消えていく。
白河さんは、彼が消えた後もしばらく、その場に立ち尽くしていた。
(世界が変わるって、こういうことなんだ)
ただ、一人の男子が、一人の女子に「普通」を届ける。
それだけで、鉄壁の令嬢の心は、こんなにも鮮やかに壊れて、変わっていく。
(私の価値観などは変えることができるんだ)
私は、少しだけ軽くなった足取りで、駅へと続く坂道を下り始めた。
明日の朝。
崎山くんが白河さんにどんな「普通」をぶつけるのか。
それを見るのが、今の私の、密かな楽しみになっていた。




