第7話「澪の質問」
第7話「澪の質問」
放課後の生徒会室。
パチン、とホッチキスを打つ乾いた音が、静かな部屋に等間隔で響く。
窓からは燃えるような夕日が差し込み、長机の上に二人の影を長く伸ばしていた。
「……ゆうさんは」
隣でペンを走らせていた澪さんが、ふと手を止めた。
視線は手元の資料に向けられたままだが、その指先がわずかに震えている。
(ゆうさん、か。呼んでくれた)
まだ耳に馴染まない響き。
でも、その一言に込められた、彼女なりの踏み込みを僕は感じていた。
「なに」
「……なぜ、私をそのように扱うのですか」
澪さんが、磁石に引かれるようにゆっくりと顔を向けた。
その瞳は、何かを切望しているようでもあり、同時に壊れ物を恐れるようでもあった。
「そのようにって、どう」
「……白河の名や、あなたが距離を置くべき立場にある女性としてではなく。ただの、私として」
(ああ、そっちか)
この世界の男たちが、白河家の人間に対して向けるのは「服従」か「恐怖」だ。
そうでなければ、特権階級である彼女に取り入ろうとする、魂の透けた「媚び」だけ。
「皆様、私の背後にある『白河』という名前しか見ておられません。あるいは、決して汚してはならない置物のように……。私自身を、名指しで呼んでくださる方など、今まで一人もいなかったのに」
(この人、ずっと一人だったんだな)
「白河家」という巨大な影の陰で、彼女自身は一度も光を当てられてこなかったのだろう。
僕に向けられるその視線は、あまりに無防備で、幼かった。
「……揺るがないのですね。周囲の視線も、私の立場も、あなたの前では意味をなさない」
「意味をなさないんじゃなくて、俺がそうしたいだけですよ。相手が誰だろうと、自分が接したいように接する。それだけです」
僕は正直に答えた。
前世の感覚があるからだけじゃない。
この歪な世界に無理に合わせるより、自分の心地よいやり方を通す方が、僕にとっては自然だった。
「……ふふっ」
一瞬、耳を疑った。
鈴を転がすような、涼やかで、それでいてひどく不器用な音。
「……っ」
澪さんが、慌てて両手で口元を覆った。
でも、その隙間からこぼれる瞳は、かつてないほど柔らかく細められている。
(笑った)
「……おかしいですね。そうしたいだけ、だなんて」
俯いた彼女の肩が、小さく揺れている。
それは、完璧な淑女として訓練された「外行きの微笑」ではない。
堰を切ったように溢れ出した、ただの女の子の笑顔だった。
(初めて見た)
「でも、救われます。その身勝手さに。……ゆうさんにそう見られることが、これほど心地よいとは思いませんでした」
澪さんは手を離し、頬を赤く染めながら、僕をじっと見つめ返した。
その顔は、夕日のどんな光よりも鮮やかで。
(笑うと、こんな顔なんだな)
いつもの凛とした彼女もいいけれど、今の笑顔の方が、ずっと僕の知っている「普通」に近かった。
「……明日のおかず、また多めに入れてもらうから。約束だぞ、澪さん」
「はい。……有難く、頂戴いたします」
澪さんはそう言って、今度は隠さずに、また小さく微笑んだ。
作業が終わり、連れ立って校舎を出る。
正門には、いつものように黒塗りの車が獲物を待つように停まっていた。
「それでは、また明日」
澪さんは一度だけ僕を振り返り、名残惜しそうに指先を動かした。
車に乗り込む彼女の背中は、昨日までとはどこか違って見える。
白河という重荷を、ほんの一瞬だけ、降ろせたような。
(車、相変わらず怖いけどな)
僕は自転車に跨り、ペダルを強く漕ぎ出した。
背後で、重厚なドアが閉まる音が響く。
でも、不思議と空気は冷たくなかった。
(まあ、笑ってたしな。よかった)
頬を撫でる夕風が、少しだけ温かく感じられた。
誰に決められるでもなく、自分の生きたいように生きる。
(普通にするのも、案外悪くないな)
僕は、茜色に染まる街路を、一気に駆け抜けていった。




