表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「男子が2割の世界で普通にしてたら、どうやら大問題らしい」   作者: ゆう
5章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/48

第5話「名前②」

第5話「名前②」


(白河家、か)

移動教室へ向かう人波の中で、昨日の田辺の言葉を反芻する。

管理、委員会、中枢。

この国の歪なパワーバランスを象徴するような言葉ばかりだ。

(でも、そんなの知ったことじゃない)

僕に見えているのは、国家の要職に就く白河家ではない。

唐揚げを「温かい」と言って笑った、一人の少女の顔だ。

(あの笑顔、また見たいしな)

階段の踊り場で、向こうから歩いてくる彼女を見つけた。

周囲の女子たちが距離を置き、静まり返った廊下を、彼女は一人で歩いている。

その孤高な姿が、今日は昨日までより少しだけ窮屈そうに見えた。

「白河さん」

声をかけると、彼女はハッとしたように顔を上げた。

僕の姿を認めた瞬間、その瞳に僅かな光が灯る。

「あ……崎山さん。お疲れ様です」

いつもの、丁寧すぎる挨拶。

僕は足を止め、彼女の隣に並んだ。

「ちょっといいか」

「はい。何かありましたか?」

昨日の出来事を思い出しているのか、彼女の表情に緊張が走る。

僕は少しだけ間を置いて、昨日から喉に引っかかっていたことを口にした。

「白河さん……じゃなくて、って前に言いかけてただろ」

彼女の身体が、目に見えて強張った。

抱えていた資料を、壊れ物を守るように強く抱きしめる。

「……崎山さん。それは……」

「澪さん、って呼んでもいいですか」

一瞬、廊下の喧騒が消えた。

窓から差し込む午後の光の中で、埃がゆっくりと踊っている。

遠い体育館から響く笛の音が、耳の奥に突き刺さるような静寂。

(あ、言いすぎたか?)

彼女は石像のように固まり、僕を凝視していた。

その瞳の奥で、驚愕と、戸惑いと、それから名前のつけられない感情が激しく渦巻いている。

長い沈黙の末、彼女は震える唇をようやく動かした。

「……構い、ません」

今にも消えてしまいそうな、掠れた承諾。

(あ、よかった)

もっと厳しく撥ね除けられるかと思っていたが、どうやら杞憂だったらしい。

僕は安堵して、その名前を呼んでみた。

「じゃあ、澪さん」

その瞬間、彼女は弾かれたように俯いた。

項のあたりから耳の先までが、一気に鮮やかな朱に染まっていく。

その赤さは、夕焼けよりもずっと鮮烈だった。

(怒ってはないっぽい、けど)

「……はい、崎山さん」

彼女の声は、どこか宙に浮いているように心許ない。

いつも冷静な彼女が、今は自分の靴先を必死に見つめて、呼吸を整えようとしていた。

(耳、真っ赤だな)


「……あの、崎山さん」

俯いたままの彼女が、おずおずと僕の袖を指先でつまんだ。

「何」

「その、名前。……もう一度、呼んでいただけますか」

今度は、聞き逃しそうなほど小さな声。

僕は不思議に思いながらも、もう一度、意識してその名を呼んだ。

「澪さん」

「……っ」

彼女は小さく肩を震わせ、今度は両手で自分の頬をぎゅっと押さえた。

隠しきれない熱が、指の間から溢れている。

(そんなに珍しいことなのか?)

この世界の男子は、女子と一定の距離を保つのが「美徳」であり「安全」だ。

名前で呼ぶなんて、親密さをこれ見よがしに誇示するような、まさに「大問題」な行為なのだろう。

「崎山さんは、本当に……」

顔を伏せた彼女が、何かを小さく呟いた。

でも、その言葉の終わりは、廊下を通り抜ける風にかき消されてしまった。

「どうかしたか」

「……いいえ。何でもありません。次の授業に行かなければ」

彼女は逃げるように、小走りで廊下の先へ向かっていった。

その後ろ姿はいつもよりずっと小さく、それでいてどこか軽やかだ。

(まあ、そのうち慣れるだろ)

僕は彼女の背中を見送りながら、自分の教室へと歩き出した。

すれ違いざま、田辺が絶望的なものを見るような目で僕を凝視していたが、僕は気づかないふりをした。

(「普通」にするって決めたんだしな)

階段を下りる僕の足取りは、心なしかいつもより軽かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ