第5話「名前②」
第5話「名前②」
(白河家、か)
移動教室へ向かう人波の中で、昨日の田辺の言葉を反芻する。
管理、委員会、中枢。
この国の歪なパワーバランスを象徴するような言葉ばかりだ。
(でも、そんなの知ったことじゃない)
僕に見えているのは、国家の要職に就く白河家ではない。
唐揚げを「温かい」と言って笑った、一人の少女の顔だ。
(あの笑顔、また見たいしな)
階段の踊り場で、向こうから歩いてくる彼女を見つけた。
周囲の女子たちが距離を置き、静まり返った廊下を、彼女は一人で歩いている。
その孤高な姿が、今日は昨日までより少しだけ窮屈そうに見えた。
「白河さん」
声をかけると、彼女はハッとしたように顔を上げた。
僕の姿を認めた瞬間、その瞳に僅かな光が灯る。
「あ……崎山さん。お疲れ様です」
いつもの、丁寧すぎる挨拶。
僕は足を止め、彼女の隣に並んだ。
「ちょっといいか」
「はい。何かありましたか?」
昨日の出来事を思い出しているのか、彼女の表情に緊張が走る。
僕は少しだけ間を置いて、昨日から喉に引っかかっていたことを口にした。
「白河さん……じゃなくて、って前に言いかけてただろ」
彼女の身体が、目に見えて強張った。
抱えていた資料を、壊れ物を守るように強く抱きしめる。
「……崎山さん。それは……」
「澪さん、って呼んでもいいですか」
一瞬、廊下の喧騒が消えた。
窓から差し込む午後の光の中で、埃がゆっくりと踊っている。
遠い体育館から響く笛の音が、耳の奥に突き刺さるような静寂。
(あ、言いすぎたか?)
彼女は石像のように固まり、僕を凝視していた。
その瞳の奥で、驚愕と、戸惑いと、それから名前のつけられない感情が激しく渦巻いている。
長い沈黙の末、彼女は震える唇をようやく動かした。
「……構い、ません」
今にも消えてしまいそうな、掠れた承諾。
(あ、よかった)
もっと厳しく撥ね除けられるかと思っていたが、どうやら杞憂だったらしい。
僕は安堵して、その名前を呼んでみた。
「じゃあ、澪さん」
その瞬間、彼女は弾かれたように俯いた。
項のあたりから耳の先までが、一気に鮮やかな朱に染まっていく。
その赤さは、夕焼けよりもずっと鮮烈だった。
(怒ってはないっぽい、けど)
「……はい、崎山さん」
彼女の声は、どこか宙に浮いているように心許ない。
いつも冷静な彼女が、今は自分の靴先を必死に見つめて、呼吸を整えようとしていた。
(耳、真っ赤だな)
「……あの、崎山さん」
俯いたままの彼女が、おずおずと僕の袖を指先でつまんだ。
「何」
「その、名前。……もう一度、呼んでいただけますか」
今度は、聞き逃しそうなほど小さな声。
僕は不思議に思いながらも、もう一度、意識してその名を呼んだ。
「澪さん」
「……っ」
彼女は小さく肩を震わせ、今度は両手で自分の頬をぎゅっと押さえた。
隠しきれない熱が、指の間から溢れている。
(そんなに珍しいことなのか?)
この世界の男子は、女子と一定の距離を保つのが「美徳」であり「安全」だ。
名前で呼ぶなんて、親密さをこれ見よがしに誇示するような、まさに「大問題」な行為なのだろう。
「崎山さんは、本当に……」
顔を伏せた彼女が、何かを小さく呟いた。
でも、その言葉の終わりは、廊下を通り抜ける風にかき消されてしまった。
「どうかしたか」
「……いいえ。何でもありません。次の授業に行かなければ」
彼女は逃げるように、小走りで廊下の先へ向かっていった。
その後ろ姿はいつもよりずっと小さく、それでいてどこか軽やかだ。
(まあ、そのうち慣れるだろ)
僕は彼女の背中を見送りながら、自分の教室へと歩き出した。
すれ違いざま、田辺が絶望的なものを見るような目で僕を凝視していたが、僕は気づかないふりをした。
(「普通」にするって決めたんだしな)
階段を下りる僕の足取りは、心なしかいつもより軽かった。




