第4話「それでも普通にする②」
第4話「それでも普通にする②」
(白河家が何であれ)
ドアを開けると、いつもの席に彼女はいた。
田辺に聞かされた不穏な単語が脳裏をよぎるが、歩調は変えない。
結局のところ、僕にできるのは目の前の相手をそのまま見ることだけだ。
(澪さんは、澪さんだ)
自分の席に座る。
隣の彼女は、今日も静かに椅子に腰掛けていた。
昨日の校門で見せた、あの感情を殺した「人形」のような気配はどこにもない。
さらさらと、書類の上を走るペンの音が心地よく響いていた。
「白河さんは、生徒会の仕事は好きですか」
資料の束を揃えながら、極めて自然なトーンで投げてみた。
その瞬間、静かな部屋に流れていたリズムが、目に見えて乱れた。
「……好き、ですか」
白河さんがこちらへ顔を向ける。
それは、まるで飛んできたボールに咄嗟に反応してしまったような、無防備な顔だった。
「嫌いなら、無理しなくていいと思って。代わりは他にもいるだろ」
パチン、とホチキスを打つ。
彼女はその音に指先を震わせ、逃げるように自分の手元へ視線を落とした。
「嫌いではないです。ただ――」
そこで言葉が切れる。
彼女は自分の白い指先を強く握りしめ、何かを懸命に探していた。
(また「ただ」で止まる)
沈黙が部屋を満たしていく。
彼女の沈黙は重い。
言いかけては飲み込む。
その繰り返しが、彼女のこれまでの歩みを示しているようだった。
「ただ……役割ですから」
しばらくして返ってきたのは、熱を帯びない、どこか遠い声だった。
「役割?」
「はい。白河の人間として務める。それが私の……」
また、言葉が霧に消える。
「それ以外に道はない」とでも言いたげな、切実な余韻が残った。
(役割、ね)
僕は作業の手を止め、彼女の横顔をじっと見つめた。
僕の視線に気づいた彼女は、弾かれたように再び居住まいを正す。
「崎山さんは、嫌いなのですか。このお手伝い」
「いや。別に」
僕は小さく息を吐いて、肩の力を抜いた。
「こうして白河さんと雑談するのは、そんなに悪くない」
白河さんの瞳が、驚きに揺れた。
白い頬が、夕日に染まるよりも早く、鮮やかな朱に染まっていく。
「……そ、そうですか。雑談、ですか」
「ああ。普通だろ」
(普通にしてるだけなんだが)
白河さんは再びペンを握ったが、今度はその手が止まらない。
猛烈な勢いで書類を読み飛ばし、明らかに動揺を隠そうとしている。
時折、めくる必要のないページをめくっては、慌てて戻していた。
(また、最後まで言わなかったな)
一時間後、ようやく全ての作業に目処がついた。
「白河さん。これ」
僕はカバンから、小さな包みを取り出した。
母に頼んで少し多めに詰めてもらった、約束の唐揚げだ。
「……っ、崎山さん、それは」
「一個だけだけどな。保冷剤も入ってる」
机に置くと、彼女はそれを壊れ物を扱うように、両手でそっと包み込んだ。
「……ありがとうございます。家で、大切に頂きます」
「冷めてるけどな」
「冷めていても……きっと、温かいと思います」
白河さんが、僕にだけ見えるような、小さな、本当に小さな微笑みを零した。
あの「白河家の顔」としての取り繕った微笑みじゃない。
少し不器用で、ひどく純粋な、一人の少女の顔。
(笑うんだな、やっぱり)
僕は椅子を引いて立ち上がった。
「じゃあ、また明日。屋上で」
「……はい。お待ちしております」
背後で、彼女が立ち上がり、僕が部屋を出るまでお辞儀をする気配がした。
廊下を歩けば、窓から差し込む夕光が影を長く伸ばしていた。
階段を下りる足音が、静かな校舎に響く。
(役割、か)
彼女の言葉が、耳の奥に残っている。
「普通」という贅沢が許されない場所で、彼女は戦っているのかもしれない。
(あんなに美味しそうに『温かい』なんて言うのに)
昇降口で靴を履き替える。
外には、昨日と同じ黒塗りの車が、彼女を連れ戻すために待ち構えていた。
(田辺が心配するのも、分からなくはないけどな)
僕は自転車に跨り、夕闇に溶け出す街へ走り出した。
明日も、いつも通りに声をかけよう。
その積み重ねの先に、彼女の「ただ――」の続きがあるはずだ。




