第8話「ことみの質問」
第8話「ことみの質問」
玄関のドアを開けると、家の空気がいつもより重く感じた。
靴を脱ごうとした俺の前に、ことみが立っていた。
制服のまま、じっと俺の顔を見上げている。
「……お兄ちゃん、学校から何か届いた?」
ことみの声は少し震えていた。
俺はカバンの中の、あの茶封筒を思い出す。
少し間を置いた。
「届いた」
短く答えると、ことみは視線を床に落とした。
握りしめた拳が、スカートの布地をきつく絞っている。
「……そっか」
それだけ言うと、ことみはリビングへと戻っていった。
廊下の奥から、たか子が包丁を動かすトントンという規則正しい音が聞こえてくる。
夕食のテーブルは、驚くほど豪華だった。
焼き魚に、煮物、和え物。それに肉じゃがまである。
普段の倍近い品数が、湯気を立てて並んでいた。
「……いただきます」
俺は箸を手に取る。
たか子は台所に立ったまま、背中を向けてコンロを磨いていた。
こちらを一度も見ない。
ただ、静かに手を動かし続けている。
「……美味しい」
ことみがボソリと言った。
俺も口に運ぶ。
いつも通りの、温かくて、少し濃いめの味付けだ。
誰も、学校から届いた書類の話はしなかった。
テレビのニュースキャスターが、どこかの国の経済状況を淡々と読み上げている。
その音だけが、食卓の沈黙を埋めていた。
(……みんな、知ってたんだな)
俺がこの年になれば、あの封筒が届くことを。
この世界の男子が、いずれは通らなければならない「登録」の存在を。
食後の片付けを終えたとき、ことみが俺の服の裾を小さく引いた。
たか子はすでに奥の部屋に引っ込んでいる。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
ことみは、潤んだ瞳で俺を見つめた。
そして、祈るような、あるいは縋るような声で言った。
「ちゃんと帰ってきてね」
その一言が、胸の奥にすとんと落ちた。
一章から、ことみが何度も、何度も繰り返していた言葉。
ただの「行ってらっしゃい」の代わりだと思っていた、あの挨拶。
(あ、そういうことか)
それは、登録された男性が、いつか「保護」という名目でどこかへ連れて行かれたり、過酷な「検体提供」の果てに心を摩耗させていくことへの、彼女なりの切実な恐怖だったんだ。
「……帰ってくる」
俺はことみの頭に、ぽんと手を置いた。
ありふれた、どこにでもある兄と妹の動作。
でも、この世界では、その「普通」を維持することさえコストがかかる。
「毎日、普通に帰ってくるよ。明日も、明後日も」
ことみは鼻をすすり、小さく頷いた。
俺はカバンの中からあの封筒を取り出し、机の引き出しの奥へと押し込んだ。
まだ、何も終わっていない。
けれど、この家にある温かい料理の匂いだけは、守らなければならないと思った。




