第9話「澪と制度」
第9話「澪と制度」
放課後の生徒会室は、静まり返っていた。
窓から差し込む西日が、長机の上に長い影を落としている。
カチ、カチと、壁の時計が乾いた音を立てていた。
俺は、鞄の底にある茶封筒の感触を思い出していた。
今朝、下駄箱に突っ込まれていたあの厚紙。
適性検査だの、将来の優遇措置だの、細かい文字が並んでいた。
(……面倒だな)
正直、あまり読みたくない。
机を挟んで座る白河澪は、いつも通り完璧な姿勢で書類に目を通している。
その横顔を見ていると、ふと思った。
「白河さん」
「……はい。何でしょうか、崎山さん」
白河が顔を上げる。
黒髪の一本結びが、かすかに揺れた。
相変わらず、隙のない立ち居振る舞いだ。
「白河さんは、登録制度についてどう思いますか」
俺は、手元のプリントを軽く指差した。
白河の手が、ピタリと止まった。
持っていたペンが、わずかに震える。
彼女は視線を書類に落としたまま、一呼吸置いた。
「……正しいと思います」
白河の声は、平坦だった。
「そうですか」
「はい。社会的に、極めて必要な制度です。男性を保護し、管理することは、この国の義務ですから。合理的な判断かと」
(……管理、か)
淀みない答えだ。
学校の教科書をそのまま読み上げたような、綺麗な回答。
白河はペンを握り直し、また次の書類に目を向けた。
間があった。
西日のオレンジが、少しだけ濃くなる。
「でも」
白河が、唐突に言葉を零した。
ペン先が紙の一点で止まり、小さなインクの染みを作っていく。
(でも?)
「……白河さん?」
俺が聞き返すと、彼女は口を真一文字に結んだ。
白河の視線が、宙を泳ぐ。
窓の外のグラウンド。部活に励む女子たちの声が遠くで響く。
彼女の喉が、微かに動いた。
続きは、出てこなかった。
「……なんでもないです。失礼しました」
白河が、絞り出すように言った。
彼女は視線を強引に書類へと戻した。
ペンを動かす手が、ひどく固い。
(「でも」の後に何があったんだ)
俺は白河の横顔をじっと見た。
彼女の視線は、もう俺の方を向くことはなかった。
ただ、書類を握りしめる左手の指先が、白くなるほど力が入っている。
「……そうですか」
俺はそれ以上、何も言わなかった。
(深追いしても、ろくなことにならなそうだしな)
俺は再び、自分の作業に戻った。
電卓を叩く無機質な音が、部屋に響き始める。
白河は、ずっと同じ場所をなぞるようにペンを動かしていた。
数分後。
「失礼します」
白河が唐突に立ち上がった。
「書類の整理、残りは私がやっておきます。崎山さんは、もうお帰りください」
彼女は俺の目を見なかった。
声のトーンはいつも通りなのに、どこか余裕がないように聞こえる。
「あ、はい。じゃあお言葉に甘えて」
俺はカバンを手に取った。
(普通に帰れってことだよな)
「お疲れ様です、白河さん」
「……ええ。お疲れ様でした」
白河は背中を向けたまま、窓の鍵を閉め始めた。
ガチャ、という金属音が、静かな室内に必要以上に大きく響く。
俺は生徒会室を後にした。
廊下に出ると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
(あんなに固くなること、ないのにな)
俺は階段を下りながら、白河のあの「でも」を反芻した。
あの完璧な外面の裏側に、彼女自身も持て余している何かが、確実に存在している。
それを言葉にできないまま、彼女はこの世界を「正解」として生きている。
(……普通に、大変そうだな)
俺は昇降口で上履きを脱ぎ、外へ出た。
沈みかけた太陽が、街を赤く染めている。
後ろを振り返ると、二階の窓から白河がこちらを見ていた気がした。
足を止めると、カーテンが揺れて彼女の姿は消えた。
俺は首を傾げ、駅へと歩き出した。
カバンの中の茶封筒が、歩くたびにカサリと音を立てた。




