第4話「名前」
第4話「名前」
放課後の廊下は、西日が低く差し込んでいた。
影が長く伸びて、床のワックスをオレンジ色に焼いている。
俺は生徒会室へ向かっていた。
角を曲がると、向こうから白河澪が歩いてきた。
いつものように背筋を伸ばし、書類を胸に抱えている。
「あ……」
白河が足を止めた。
俺も立ち止まる。
「お疲れ様です、白河さん」
挨拶をして、通り過ぎようとした。
ふと、昨日のことが頭をよぎる。
相沢ひなたの名前を出したときの、彼女のあの硬い表情。
「白河さん、じゃなくて——」
つい、言葉が口をついて出た。
そこで止まった。
(……なんで止まったんだ、俺)
何を言おうとしたのか、自分でもわからない。
名字で呼ぶのが、急にひどく距離のあるものに感じただけだ。
「……なんですか」
白河が少しだけ首を傾けた。
いつもは完璧な一本結びの髪が、わずかに揺れる。
「いや、なんでもない」
俺は視線を逸らし、後頭部をかいた。
「そうですか」
白河の視線が、俺の口元で一度止まった。
何かを探るような、静かな視線。
「では、失礼します」
「ああ」
白河はゆっくりと歩き出した。
すれ違う瞬間、彼女の歩調が一瞬だけ乱れた気がした。
階段を下りながら、私は自分の鼓動が早くなっているのに気づいた。
手に持った書類の束が、指の形に少しだけ凹んでいる。
(……じゃなくて、の後に、何が来るつもりだったのかしら)
続きはなかった。
ただの言い間違いかもしれない。
けれど、彼が言葉を飲み込んだあの瞬間、空気が確かに震えた。
『澪さん』
脳内で、一度だけその名前を再生してみる。
自分で自分を呼ぶのとは違う、彼のあの平熱の声で。
(……ありえない)
頬が、急激に熱を帯びる。
男子が女子を名前で呼ぶ。
それは、この世界では深い親愛、あるいは明確な「所有」を意味する。
私は階段の踊り場で立ち止まり、窓に映る自分を見つめた。
外面はまだ、崩れていない。
けれど、胸の奥に刺さった「続きのない言葉」が、棘のようにずっと残っている。
(……崎山さんは、何を思って止めたのかしら)
わからない。
わからないことが多すぎる。
私は熱を冷ますように、冷たい手すりをぎゅっと握りしめた。
教室に戻ると、田辺が一人で机を拭いていた。
彼は俺の顔を見て、布巾を動かす手を止めた。
「変な顔してるな」
「そうか」
俺は席に座り、ノートを広げた。
「……白河さんにか」
田辺がボソッと言った。
「なんでわかる」
「お前がそうなる理由は、それくらいだろ」
(それくらいってなんだ)
「名前で呼ぼうとしたとかじゃないだろうな」
田辺が俺をジロリと見た。
その瞳には、冗談ではない色の警戒が混じっている。
「……言いかけたけど、止めた」
「……死ぬぞ、お前」
(死なないだろ、普通)
「普通に呼ぼうとしただけだ」
俺が言うと、田辺は深く、今日二度目のため息をついた。
「……その『普通』が、あいつらには劇薬なんだよ」
田辺はそれ以上何も言わず、また黙々と机を拭き始めた。
窓の外では、夕日が完全に沈もうとしていた。




