第1話 生徒会室の灯り
生徒会室の灯り
窓の外は、ねっとりとした藍色に溶け始めていた。
放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
遠くで運動部の掛け声が聞こえるが、校舎内を歩く生徒はまばらだ。
俺は忘れ物を取りに教室へ戻る途中、一階の廊下を歩いていた。
視界の端、重厚な木製の扉から細い光が漏れている。
生徒会室。
その扉が、音もなく開いた。
「あ……」
中から出てきたのは、白河澪だった。
黒髪を一筋の乱れもなく一本に結び、制服のシワ一つない。
俺たちの距離は、およそ三メートル。
白河は手に持った書類を胸に抱え、足を止めた。
俺も足を止める。
(まだ仕事してたのか)
白河の瞳が、わずかに揺れた。
彼女は何かを言いかけ、薄い唇を小さく開く。
沈黙が流れる。
廊下の隅で、埃が光の粒のように舞っていた。
白河は唇を噛み、一度だけ深く頷くようにして会釈をした。
そのまま、彼女は反対側の階段へと消えていく。
廊下には、彼女が纏っていた石鹸のような香りと、静寂だけが残された。
翌日の昼休み。
教室は、独特の熱気に包まれていた。
女子たちの高い笑い声と、購買で買ってきたパンの匂い。
その中にあって、男子の座る一角だけは、エアポケットのように静かだ。
俺は自分の席で、パックの麦茶を飲んでいた。
隣では田辺が、無表情に焼きそばパンを咀嚼している。
不意に、教室の入り口付近が静かになった。
波が引くように、会話のトーンが落ちていく。
「崎山さん。少しよろしいですか」
凛とした声が、教室の空気を震わせた。
顔を上げると、そこには白河澪が立っていた。
彼女の背筋は、定規を当てたように伸びている。
だが、その視線は俺の目元からわずかに逸れ、肩のあたりを彷徨っていた。
「はい」
俺は椅子を引いて立ち上がった。
周囲の女子たちの視線が、針のように刺さるのがわかる。
「生徒会から、確認したいことがありまして」
「どうぞ」
白河は手に持ったバインダーを、両手で強く握りしめた。
指先が、白くなるほどに。
「先日、崎山さんが提出された『美化委員アンケート』ですが」
「何か不備がありましたか?」
彼女はバインダーを開き、一枚のプリントを俺に見せた。
「いえ。不備というわけでは……ただ、この項目の記述が、非常に具体的でしたので」
白河の視線が、プリントと俺の間を往復する。
「清掃用具の耐用年数と、補充頻度の相関関係について……。これは、どなたかのアドバイスですか?」
「いえ。去年の記録を見て、適当に計算しただけです」
「……左様ですか」
白河は一度、瞬きをした。
長い睫毛が、蝶の羽のように震える。
「この内容で受理します。ただ、少しだけ……表現を調整させていただくかもしれません」
「お任せします。受理されるなら、それで」
俺がそう答えると、白河はふっと息を吐いた。
緊張が解けたというよりは、何かを確かめたような吐息。
「ご協力、感謝します」
「いえ」
白河は、一歩だけ後ろに下がった。
「では、失礼いたします」
彼女は踵を返し、足早に教室を出ていった。
その歩調は、いつもより少しだけ乱れているように見えた。
白河の姿が見えなくなると、教室の空気が一気に弛緩した。
それと同時に、刺すような視線の密度が増す。
俺は再び椅子に腰を下ろし、ぬるくなった麦茶を啜った。
「おい、崎山」
田辺が、食べ終えたパンの袋を丁寧に畳みながら声をかけてきた。
「なんだ」
「生徒会に目をつけられたな」
田辺の視線は、自分の机の一点を見つめたままだ。
「用件があっただけだろ。事務的な話だ」
「……」
田辺が黙った。
彼は畳んだ袋をゴミ箱へ放り投げ、ようやく俺の顔を見た。
「お前、あいつが男子の席まで直接来るのが、どれだけ異常か分かってて言ってるのか?」
「生徒会の仕事だろ。効率を考えれば普通じゃないか」
(前世なら、ごく当たり前の光景だ)
田辺は深いため息をつき、項垂れた。
「……お前はそういうとこがな」
「どういうとこだよ」
「自覚がないのが一番タチが悪いって言ってるんだ」
田辺はそう吐き捨てると、机に突っ伏して寝る体制に入った。
俺は窓の外を眺める。
校庭では、女子たちが元気にサッカーボールを追いかけていた。
ただ、書類の確認に来ただけだ。
効率的に、淡々と、必要なことを確認した。
(それ以上の意味なんて、ないはずだろ)
自分に言い聞かせるように、俺は最後の一口の麦茶を飲み干した。
空になったパックが、指先で小さく音を立てた。




