旅人と妖精③
少年が、客の一人に肩を抱かれた。
軽く笑って、そのまま階段へ向かう。
「どこに行く?」
旅人の声は、ざわめきに紛れた。
周りの男たちはニヤニヤしている。
「上だよ」
誰かが答える。
「見学するか?」
別の男が笑う。
「俺も行こ」
「じゃ、俺も」
二、三人が、楽しげに後に続く。
酒場の二階は、薄暗かった。
階段の上から、くぐもった声が落ちてくる。
笑い声。
軋む音。
何かが倒れる気配。
詳しく見なくても、分かる。
笑い声が続く。
旅人は階段の下で立ち尽くす。
足が動かない。
行けば、止められるのか。
金を払えば、奪えるのか。
奪う?
その言葉に、自分で嫌悪する。
二階から、少年の声が聞こえた。
笑っている。
昼間と同じ、軽い声。
だが、ほんのわずかに震えていた。
拳を握る。
迷っているのは、自分だ。
少年は慣れていると言った。
慣れているから、傷つかないわけじゃない。
階段を一段、上がる。
誰かが振り返る。
「なんだ、お前も混ざるのか?」
混ざる。
その言葉に、胃がひっくり返りそうになる。
「いくらだ」
「俺が払う」
喉まで出かけた言葉を、飲み込んだ。
階段の上から、また笑い声が落ちてくる。
拳を握る。
関係ない。
俺には、関係ない。
あいつは、慣れていると言った。
帰る場所があると言った。
檻でも、ここでも。
自分で選んでいる顔をしていた。
一段上った足を、下ろす。
酒場の灯りが、やけに明るい。
「やめとく」
誰に言うでもなく、呟いた。
男たちは笑う。
「びびったか?」
「買う気もねぇのに上がるなよ」
嘲る声。
旅人は何も言わない。
振り返らず、扉を押す。
夜風が冷たい。
外の空気のほうが、ずっと静かだった。
森よりも、冷たい。
宿へ戻る道を歩きながら、
二階から聞こえた笑い声が、頭から離れない。
“迷ってるの?”
昼間の声が蘇る。
迷っているのは、誰だ。
助ける資格はない。
守れる保証もない。
金も、約束も、未来もない。
それでも。
目を閉じると、
あの作り物の笑顔が浮かぶ。
慣れている、と言った声。
震えていた。
足が止まる。
振り返らない。
戻らない。
今夜は。
今夜は、関係ない。
そう言い聞かせる。
それでも、
胸の奥が、ずっとざわついていた。




