旅人と妖精⑫ 俺は、お前を見ている
夜明け前。
村の外れ。
旅人は荷をまとめている。
通りはまだ静かだ。
灯りも落ちている。
足音。
振り向く。
妖精が立っている。
夜の顔でも、昼の顔でもない。
ただの顔。
「出ていくの?」
小さな声。
旅人はうなずく。
「この村は、俺には合わない」
沈黙。
風が吹く。
妖精の髪が揺れる。
旅人は一歩、近づく。
「……お前も、一緒に行かないか」
声は静かだ。
強くもない。
命令でもない。
ただ、問い。
妖精の目が揺れる。
「僕を?」
「お前を」
間を置く。
「買うんじゃない」
続ける。
「連れていきたい」
朝の光が、少しずつ差す。
妖精の喉が動く。
「……行けない」
妖精は、うつむいたまま言う。
風が、二人の間を抜ける。
旅人はうなずく。
「そうか」
それだけ。
責めない。
引き止めない。
沈黙。
旅人が背を向ける。
歩き出す。
一歩。
また一歩。
その背中を見つめる。
行けない。
でも。
行ってほしくない。
胸が、潰れそうになる。
「待って」
声が出る。
自分でも驚くほど、必死な声。
旅人が止まる。
振り向く前に。
妖精は駆け出す。
背中に抱きつく。
強く。
しがみつくみたいに。
「抱いてくれない? 最後に」
旅人の呼吸が乱れる。
答えない。
その一瞬。
妖精が襟を掴む。
引き寄せる。
自分から。
口づける。
震えているのに、逃げない。
触れた瞬間、
旅人の腕が動く。
遅れて、強く。
引き寄せる。
今まで触れなかった距離が、消える。
夜明け前の空気は冷たい。
なのに、熱い。
息が混ざる。
言葉はない。
ーー
朝。
旅人はもういない。
妖精は一人で立っている。
身体に残る温度。
違う。
いつもの夜とは、まるで違う。
値段も、順番も、急かす声もなかった。
抱かれたのに、
消耗していない。
⸻
夜。
また客に触れられる。
急かす声。
値段の話。
身体は慣れている。
笑える。
でも。
空っぽにならない。
どこかに残っている。
急かされなかった腕。
値段のない呼吸。
「俺は、お前を見ている」
思い出す。
乱暴に顎を上げられても、
胸の奥が、静かだ。
痛い。
それでも。
崩れない。
売り上げが少ないと、
「お仕置きが必要なようだな?」
蹴られる。
息が詰まる。
「ごめんなさい」
条件反射みたいに口が動く。
その夜も、客の下へ。
急かす声。
重い体。
終われば金になる。
それだけの夜。
⸻
客は満足して眠っている。
大きな寝息。
前なら、そのまま朝を待った。
でも。
胸の奥に、あの声が残っている。
――俺は、お前を見ている。
そっと、腕を外す。
起こさないように。
床に足をつける。
痛い。
それでも立つ。
扉を開ける。
夜気が冷たい。
走る。
止まらない。
林まで、まっすぐ。
あの日、旅人を見送った場所。
息が切れる。
それでも、止まらない。
今度は、見送らない。
林の奥。
夜明けの空。
息を整える。
一歩、前に出る。
あの人は、もういない。
でも。
今度は、追う。
――走る。




