旅人と妖精⑩
夜。
いつもの部屋。
灯りは落としてある。
妖精は、しばらく黙っていた。
旅人の背中を見る。
何度も触れなかった背中。
何度も逃げなかった背中。
「……ねえ」
小さな声。
旅人が目を開ける。
「触りたい」
静かな告白。
恥じらいも、挑発もない。
ただ、まっすぐ。
旅人は少しだけ息を吐く。
「いい」
それだけ。
妖精が近づく。
指先が、胸元に触れる。
服越し。
確かめるみたいに。
逃げない。
拒まない。
旅人の腕が、ゆっくり持ち上がる。
妖精の背に回る。
抱きしめる。
強くない。
閉じ込めない。
ただ、包む。
妖精の呼吸が止まる。
それから、ほどける。
胸に額を押しつける。
鼓動が聞こえる。
自分の鼓動と重なる。
何も求められない。
何も差し出さなくていい。
ただ、抱かれている。
妖精の目が、静かに閉じる。
こんな抱き方、知らない。
欲しがられない。
急かされない。
それなのに、
こんなに満たされるなんて。
「……あったかい」
小さな声。
旅人は何も言わない。
腕の力を、ほんの少しだけ強める。
妖精は、初めて。
自分から抱きついた。
初めて。
拒まれなかった。
初めて。
売らないで、触れた。
幸せ、という言葉を知らないまま。
胸の奥が、静かに満ちる。
⸻
その夜を見ていた者がいる。
翌朝。
村の噂は早い。
「最近、あの妖精、客を選んでるらしい」
「夜も一人とばかりいる」
「昼も一緒に歩いてるってよ」
低い声。
ご主人様の部屋。
「……なるほど」
机を指で叩く音。
「商品が、自分の意思を持つと困る」
静かな笑い。
「呼べ」
翌朝。
妖精は呼ばれた。
いつもの部屋。
ご主人様は、静かに座っている。
「最近、楽しそうだな」
妖精は答えない。
「客を選ぶな」
低い声。
「昼も歩いているらしいな」
沈黙。
頬に、平手。
強くはない。
でも、音が響く。
「商品は、私物化させない」
妖精の喉が動く。
「……すみません」
「今日から外に立つな」
妖精が顔を上げる。
「え」
「在庫は保管する」
冷たい言葉。
扉が開く。
暗い部屋。
窓は小さい。
外は見えない。
「しばらく頭を冷やせ」
鍵の音。
閉まる。
静寂。
妖精は、立ったまま動かない。
昨日の体温が、まだ残っている。
抱きしめられた夜。
丘の風。
「……」
床に座る。
腕を抱く。
初めて手に入れた“安心”は、
一晩で取り上げられた。
「ごめんなさい……」
床に額をつける。
「何でもしますから」
声が震える。
「外に立たせてください」
沈黙。
椅子が軋む。
「分かった」
低い声。
「代わりに、私の夜を優先しろ」
妖精の喉がひくりと動く。
うなずく。
それしかない。
⸻
それからの夜。
呼ばれる。
断れない。
拒めない。
咥えて、舐める。
口の中に広がる熱。
飲み込まなきゃ、許してもらえない。
顔に思いきり、ぶちまけられる。
身体の奥を無理矢理こじ開け、何度も中に出されて。
終われば、静かに部屋へ戻される。
痛みよりも、
何も感じなくなることの方が怖い。
目を閉じる。
考えない。
“物でいれば楽”。
あの言葉を、もう一度拾い直す。
抱きしめられた夜は、
思い出さないようにする。
思い出すと、
壊れるから。
⸻
やっと。
外に立つことを許される。
昼の光が眩しい。
足が少し震える。
通りの向こうに、
見慣れた背中がある。
旅人。
胸が鳴る。
一歩、踏み出しかけて。
止まる。
視線を逸らす。
客に声をかける。
「どう?」
いつもの声。
いつもの顔。
旅人の横を、通り過ぎる。
触れない。
見ない。
近づかない。
あの夜は、なかったことにする。
そうしないと、
生きられない。




