旅人と妖精⑧
夜。
いつも通り、二階の部屋。
男が妖精を引き寄せる。
「ほら、笑えよ」
妖精は笑う。
口元だけ。
目が追いつかない。
唇が触れる。
身体を預ける。
いつもの手順。
いつもの距離。
でも。
男の手が腰を掴んだ瞬間、
ほんのわずかに、身体が強ばる。
「……何だよ」
男の声が低くなる。
「昨日と違うじゃねえか」
妖精は首を振る。
「違わないよ」
「いいから、ちゃんとしろ」
男の手が荒くなる。
焦る。
笑う。
息が合わない。
身体が噛み合わない。
「おい、冷めるわ」
舌打ち。
男は立ち上がる。
「金返せよ」
妖精の喉がひくりと動く。
「……ごめん」
「謝って済むか」
扉が乱暴に閉まる。
静寂。
妖精は、しばらく動かない。
自分の手を見る。
震えている。
翌朝。
「昨日、揉めたらしいな」
低い声。
ご主人様。
妖精は視線を落とす。
「最近、数字落ちてるぞ」
机に袋が投げられる。
軽い。
「商品は、安定してないと困る」
その言葉が刺さる。
「……すみません」
沈黙。
椅子が軋む。
足音が近づく。
顎を持ち上げられる。
「感情が出るなら、価値は下がる」
指が頬をなぞる。
「分かってるよな?」
妖精は、うなずく。
声は出ない。
目を閉じる。
「次は失敗するな」
突き放すように言われる。
床に落ちた袋。
中身が転がる。
拾う。
手が震えている。
夜。
客の声を避けるように、妖精は立っている。
旅人が来る。
目が合う。
逸らさない。
近づく。
「お兄さん、僕を買ってよ」
声は小さい。
熱もない。
挑発もない。
ただ、疲れている。
旅人が息を止める。
「誰も買ってくれなくなっちゃった……」
静かな告白。
「昨日から」
指が、旅人の服を掴む。
「ここなら、失敗しても……」
言葉が途切れる。
「どこにも、行く場所ない」
それが本音。
恋じゃない。
欲でもない。
ただ、
寄りかかった。
崩れない壁に。
旅人は、何も言わずに金を渡す。
五千円。
妖精は、受け取る。
いつもの動作。
でも、目は旅人から離れない。
部屋に入る。
扉が閉まる。
静寂。
妖精は、ゆっくり上着に手をかける。
「……脱ぐ?」
旅人は首を振る。
「そのままでいい」
妖精が止まる。
少し戸惑う。
「何もしない」
低い声。
「ただ、寝る」
妖精は、理解できない顔をする。
冗談かと探る。
でも旅人は、ベッドの端に座り、靴を脱ぐ。
横になる。
距離を空けたまま。
「……本当に?」
「ああ」
沈黙。
妖精はしばらく立っている。
それから、ゆっくりと隣に横になる。
背中を向ける。
体が、固い。
呼吸が浅い。
部屋は静かだ。
誰も笑わない。
誰も触らない。
時間だけが流れる。
しばらくして。
妖精の呼吸が、少しずつ深くなる。
緊張が、ほどける。
指先の力が抜ける。
旅人は動かない。
触れない。
ただ、そこにいる。
夜が長い。
でも、怖くない。
妖精は、初めて。
“待たなくていい夜”を過ごす。




