旅人と妖精⑥ 何もしなくていい
酒が、思ったより回っている。
視界がわずかに揺れる。
妖精が近い。
距離が、さっきより曖昧だ。
これ以上飲めば、判断が鈍る。
逃げ道に酒を使うのは、違う。
旅人はグラスを置いた。
「……行くぞ」
妖精が瞬きをする。
「上?」
「ああ」
立ち上がる。
足取りは、まだしっかりしている。
酔っているせいじゃない。
自分で選んだ。
それを確認するみたいに、階段を上る。
軋む音。
昨日、聞いた音。
今日は、自分の足音が混じる。
部屋に入る。
扉が閉まる。
静寂。
妖精が振り返る。
慣れた手つきで、上着に触れる。
「脱ぐ?」
旅人は視線を逸らす。
さっきの衝動が、また胸をかすめる。
白い肌。
薄い布。
喉が乾く。
「……待て」
妖精の手が止まる。
「何?」
「何もしなくていい」
「どういうこと?」
沈黙。
「じゃあ何で買ったの?」
答えが、出ない。
言葉にしようとすると、どれも違う。
欲しいから?
違う。
救いたいから?
傲慢だ。
ただ、選びたかった。
それだけだ。
でもそれは、あまりにも身勝手だ。
妖精が一歩下がる。
「……帰る」
胸が、強く鳴る。
「待て」
反射的に、手首を掴む。
細い。
温かい。
「離して」
「金は払うんだから、いいだろう」
仕事の理屈。
そのほうが楽だ。
終わる。
五千円で。
でも。
「……怖い」
妖精がこぼす。
「怖い?」
「こんなの、怖いよ」
妖精は手を振りほどく。
扉が開く。
足音。
階段を下りる音。
速い。
旅人は動けない。
追えば、間に合う。
それでも、動かない。
扉が閉まる。
静寂。
机の上に、五千円。
手を見る。
さっきまで、掴んでいた。
温かかった。
ベッドの端に腰を下ろす。
階下から笑い声。
この部屋だけが、静かだ。
――怖かったのは、どちらだ。
ーー
翌日。
妖精は別の男の腕に絡んでいる。
男は遠慮がない。
腰を引き寄せる。
胸元に手が伸びる。
笑いながら、唇を奪おうとする。
「ちょっと、急ぎすぎ」
妖精は笑う。
本気で嫌がってはいない。
むしろ、機嫌を取るように肩に触れる。
嬉しそうだ。
慣れている。
身体が強ばることもない。
笑って、受け流す。
仕事だ。
それで成立している。
旅人の喉がひりつく。
昨日、触れなかった。
キスもしなかった。
丁寧に距離を取った。
それなのに、昨日は震えていた。
今は、笑っている。
男の手が乱暴に顎を上げる。
妖精は目を細める。
空っぽの笑顔。
階段へ向かう足音。
旅人の足が、わずかに動く。
止まる。
もう一歩、踏み出せばいい。
でも動かない。
視線を落とす。
笑い声が遠ざかる。
扉が閉まる。
旅人はグラスを置く。
音が、やけに大きい。
夜風が冷たい。
背中に灯りが残る。
振り返らない。
つもりだった。
「もう上でヤってる」
「俺らも行こうぜ」
その声が耳に刺さる。
足が止まる。
胸の奥が、強く鳴る。
気づいたときには、階段へ向かっていた。




