元飼い主と妖精
最初の主人は、金持ちだった。
大きな家に住み、客も多く、いつも誰かが出入りしていた。
妖精は、そこで酒を運び、客の相手をし、夜になれば主人の部屋に呼ばれた。
特別扱いされたことはない。
優しくされた記憶も、ほとんどない。
それでも。
寒い夜に毛布を投げてよこしたこと。
体調を崩したとき、医者を呼んだこと。
名前を呼んだこと。
それだけで、十分だった。
妖精にとっては。
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事業に失敗した主人は、あっという間にすべてを失った。
屋敷も、使用人も、財産も。
最後に残ったのが、自分だった。
「悪いな」
主人はそう言った。
「もう養えない」
それだけだった。
怒りもなかった。
恨みも湧かなかった。
仕方ないと、理解してしまった。
理解してしまうくらいには、好きだった。
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新しい主人の家は狭く、冷たかった。
客の数は増え、休みも減った。
金のためだけに使われる日々。
それでも妖精は、毎月少しずつ金を抜き取り、封筒に入れる。
夜中、誰にも見つからないよう、町外れの古い家へ行く。
壊れかけたポストに、そっと金を入れる。
ノックはしない。
会いもしない。
ただ、金を入れて帰る。
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ある夜、帰ろうとしたとき。
背後で声がした。
「……お前、だったのか」
振り向く。
痩せた主人が立っていた。
服はくたびれ、顔色も悪い。
以前の面影はほとんどない。
「なんで……」
言葉が出ない。
主人はポストを指さした。
「ずっと、誰かが入れてると思ってた」
沈黙。
「……お前、今どこで」
「……仕事してる」
それ以上は言えない。
主人は苦い顔で笑った。
「悪かったな」
その言葉に、胸が痛んだ。
違う。
謝ってほしかったわけじゃない。
覚えていてほしかっただけだ。
少しだけ。
それだけでよかった。
「……お元気で」
妖精は頭を下げ、背を向ける。
呼び止められることもなく、歩き出す。
もう戻れないことは分かっている。
それでも。
初めて好きになった人だった。
その気持ちだけが、ずっと消えなかった。
夜の風が、少しだけ冷たかった。




