同僚と妖精⑪
その瞬間。
腕を、強く引かれた。
体がよろめく。
「……何してんの?」
低い声。
振り向く。
同僚がいた。
軽さのない顔。
目が、笑っていない。
先輩が居直る。
「コイツがヤらせてくれるっつーからさ。お前もヤる?」
同僚の手が、妖精の手首を掴んだまま離れない。
「やめとけ」
短い。
怒鳴らない。
でも、圧がある。
妖精の胸が、強く鳴る。
見られた。
止められた。
守られたのか。
否定されたのか。
分からない。
ただ。
掴まれた手首が、熱い。
「聖人きどりかよ」
先輩が吐き捨てる。
舌打ちして、出て行った。
静寂が落ちる。
同僚の手は、まだ妖精の手首を掴んだまま。
「……どうして」
避けられていたはずなのに。
距離を取られていたはずなのに。
なぜ、ここにいる。
「自分を粗末にするな」
低い声。
怒鳴らない。
でも、震えている。
「俺には……」
喉が詰まる。
「俺にできることなんて、これくらいしかないから」
視線を上げられない。
これが価値だ。
ずっと、そうだった。
「そんなことない」
即答だった。
迷いもない。
「俺の母親のためにか」
妖精の肩が揺れる。
否定できない。
「聞いてたんだろ」
責める声じゃない。
苦い声。
「だからって、なんでそれになる」
「他に、何がある」
妖精の声が震える。
「金だろ。必要なのは」
同僚の手に力が入る。
「自分で何とかする」
「前借り断られてた」
「だからって、お前が体売る理由にはならねぇ」
強い声。
初めての怒気。
妖精の胸が痛む。
「俺は妖精だ」
笑おうとして、失敗する。
「人間に抱かれるのは、慣れてる」
同僚の目が揺れる。
「本当か?」
低い声。
近い。
触れたまま、距離が縮まる。
「本当に、平気なのか?」
どうして。
どうしてそんな顔をする。
胸が痛むような顔。
怒っているわけでもない。
軽蔑でもない。
まるで――傷ついているみたいだ。
「平気だ」
言い切る。
言葉とは裏腹に、頬に熱いものがつたった。
「ずっとそうやって生きてきた……」
慣れている。
そういうものだ。
「平気なはずなのに」
声が、掠れる。
「何で」
指で涙を拭う。
止まらない。
こんなことで泣くはずがない。
今までは。
「……」
同僚は何も言わない。
ただ、近い。
触れたまま、離れない。
逃げない。
「何で、お前が」
涙で視界が滲む。
「そんな顔するんだよ……」
怒っているわけでもない。
軽蔑でもない。
まるで、代わりに傷ついているみたいな顔。
理解できない。
今まで、そんな目で見られたことがない。
「俺は妖精だ」
震える声。
「そういうものだ」
「違う」
即答だった。
低い。
揺れない声。
「お前は、お前だ」
その言葉が、胸に刺さる。
ずっと、“妖精”として扱われてきた。
綺麗で。
便利で。
消費される存在。
でも。
“お前は、お前だ”。
その一言で、
胸の奥の何かが、崩れた。
どうして。
どうしてそんなことを言う。
そんな目で見る。
平気だったはずなのに。
平気なはずなのに。
こんなに、苦しい。
何も言わずに、腕が回る。
強くはない。
逃げ道を塞ぐわけでもない。
ただ、包む。
今度は衝動じゃない。
震えているのは、妖精の方だ。
「……辛かったな」
低い声。
耳元で、静かに落ちる。
妖精の喉が震える。
声にならない。
嗚咽が、胸の奥から漏れる。
止めようとしても、止まらない。
こんなふうに抱きしめられたことはない。
欲しがられるためでもなく。
代価でもなく。
慰めでもなく。
ただ、辛かったな、と言われて。
涙が溢れる。
肩に額を押しつける。
逃げる力が、ない。
温かい。
苦しい。
でも、離れたくない。
指先が、服を掴む。
同僚の腕が、少しだけ強くなる。
妖精の嗚咽だけが、小さく響いた。
ーー
翌日、アイツはいつも通りだった。
仲間とふざけて、笑って、何もなかったように。
ただ、
「行こうぜ」
何となく、前より距離が近くなった気がする。
「うん」
昨日のことは、誰も知らない。
たぶん、これからも。
それでも――
手首に残った温度だけが、嘘をつかなかった。




