願い星
飽和地。
聞き慣れない単語。でも、それを紡ぐ声は聞き覚えがあると思った。
竜が人の言葉を扱うのにも驚いたが、それはカロンのことを思えばあり得ないことでもないと納得できる。
ちらりとトールを覗えば、彼もこちらを見ていた。
聞き覚えがある、と小さく口にすれば、僕も、と答えが返ってきた。
そして、改めて竜に向き直る。
「人の身では辛かろうに」
つと瑠璃の瞳がティシェを見、そしてトールを見て留まる。
言葉をそのまま受け取れば、慈愛。だが、その声に憂いや慮りの響きはなく、あるのはただ事実を述べたというだけのそれ。
トールを見つめていた瑠璃の瞳がふいに細められ、次いで軽く瞠った。
「主、よく見やればあの時の――」
竜の双眸が興味深げに瞬けば、のっそりと動き出す。
踏み出した竜の足が地に着く瞬、足音の代わりに星のきらめきが湧き上がった。
数歩でトールとの距離を詰めると、竜はじぃと頭を下げて彼の顔を覗き込む。
その間、竜から感ずる気配に萎縮してしまったように、ティシェは動くことができなかった。呼吸に意識を向けるだけで精一杯で。
それはグローシャもアーリィも同じようだった。
傍らのグローシャからは、いつもよりも浅い呼吸音が聞こえる。
トールの傍らにいるアーリィも、呼吸が浅いのか、上下する背の動きが早かった。
当のトールは縛り付けられたかのように固まって動かない。鳶色の瞳に緊張と畏怖の色が垣間見えた。
呼吸の数が十を過ぎた頃、ようやく竜が動きを見せる。
「やはり、あの時の少年か。それではもしや、そこの主は」
トールに呼吸の息を吹きかけてから、竜は次にティシェを見た。
その瞬、トールが尻もちを着くようにして後ろへ倒れ込んだ。
足下に広がる水が跳ね、しぶきを上げる。
だが、ティシェに彼を気にしている余裕はなかった。
瑠璃の双眸とばちりと合う。
冬の季節に起こる、ものに触れた際にばちと弾ける光のような、そんな痛みに似た見えない衝撃を受け、鼓動が跳ねた。
竜が先程と同じく、じぃとティシェの顔を覗き込む。
どくどくと脈打ちを強く感じる。汗が噴き出しそうだ。
ややし、竜が息を吐く。単なる呼吸。けれども、その強さはグローシャよりも強く、重い。なのに、特有の竜の匂いがない。
竜なのに竜ではないように感じ、薄ら寒気を覚えた。
「やはり、あの時の娘か」
なるほど、と竜は勝手に納得して頭を持ち上げた。
瑠璃の瞳に純粋な驚きをのせて瞬く。
「ふむ。またまみえるとはな」
「……それは、僕が誰かを覚えていて――?」
竜の呟きに、トールの細い声が絡む。
うむ、と竜が一つ首肯した。
「界を渡るのは久方ぶりだったゆえ、よぉく覚えておる。溢れ過ぎていたあの地を消化するのには、界を渡ってしまうのが手っ取り早く、実に丁度良いものであった」
うんうん、と頷く様はどこか人間くさく、親近感からか、委縮していた気持ちが幾分和らぐ。
そして、竜はティシェとトールを交互に見比べると、今度はしたり顔で頷いた。
「まさか、ほんに巡るとはな。驚いた。……ふむ、目印を付けたのがよかったか」
おとぎ話と謳われる竜にしては、想像していたのとは違い、わりと饒舌。それが実直な感想。
だが、何か己の内に燻るそれを感じる。冷たく、凝るような。
丁度良い――。その一言が妙に引っかかった。指先にできたささくれのように、ほんの小さな苛立ちにも似たそれ。
けれども、それを吐き出すことはできず、ティシェは小さく唇を噛んだ。じわりとわずかに鉄の味が広がった。
尻もちをついたままのトールを見る。
位置関係的に、彼の表情まで見ることはできなかった。
その彼の身体が、突として傾ぐ。傍らのアーリィが慌てて彼の身体を受け止めた。
ティシェも慌てて駆け寄れば、アーリィがトールの身体を託してくる。天色の瞳には頼る色が滲んでいた。
自身の腕の中にトールが倒れ込んできたことで、ティシェもアーリィが頼ってきた理由を知る。
身体を熱を持っている。ティシェの顔に焦りの色が浮かぶ。
「――やはり異界が出身なれば、こちらの界への耐性はないか。ゆえ、あてられやすいのであろうが」
ティシェは竜を見上げる。
瑠璃の瞳がこちらを観察するように見下ろしていた。
「なくすには惜しいな」
その眼差しにぞくりとする。瑠璃の奥に興味の色を見た気がした。
まるで玩具を手放すのを惜しむみたいな。
何を気に入ったのか。気に入れられたのか。
和らいでいた委縮する気持ちが、ぶわりと押し広がった。
人間くさくとも、目の前の存在はやはり人ではない。異なる常識で動く存在だ。
腕に力を込め、抱えるトールを守るように抱き寄せる。
すると、腕の中でトールが呻いた。はっとして腕の力を緩め、彼の顔を覗き込む。
頭痛がひどいのか、身体が辛いのか。苦しげに歪む顔に、ティシェの胸がきゅうと痛くなる。
「……早く、ここから出なければ」
もはや、星願の竜などどうでもよかった。
それよりも今は、トールの方が余程大切で重い。
「――娘、それは願いか」
突然、ティシェの頭上から声が降る。
投げられた言葉の意味を掴みあぐねて竜を見上げると、瑠璃の瞳がティシェを真っ直ぐ見下ろしていた。
傍らでアーリィがグルルと唸る。
意志を見せなかった彼女が、意志をのせて行動に移った。それは明確に警戒対象とし、そして敵意を向けたのだ。
竜はアーリィを一瞥もしない。まるで興味を持つ必要も、意識を向ける必要もないとばかりに。
グローシャは厳しい目を向けるだけに留めつつも、ティシェの側からは動かない。
それでも、竜はやはり気にも留めない。
「ふむ。吾に願うのだな」
「……ぁ……?」
は、と音にならず、呼気だけがもれた。
ティシェには解らなかったから。いつ自分が願ったのか、いつ請うたのか。
竜は気にすることなく頭を持ち上げると、周辺を見渡した。
「界を渡るには不十分だが、外へ届ける分には、ここの飽和状態は丁度良い消化分となろうな」
ひとりごとのように呟き、ふむ、とまた大きく頷いて、ティシェを見下ろす。
「その願い、吾が叶えよう」
どうして、そのような展開になるのか。そのように話が転がるのか。
ティシェには解らなかった。
理解が追いつかないまま、それでも物事は目の前で過ぎていく。
竜の瑠璃の瞳の中で金が散った。それはまるで、夜空に流るる星々のようで。
不思議なその瞳に、綺麗だなと思いつつも、ティシェは綺麗すぎて恐いと思った。思わず目を逸らす。
だがすぐに、目を逸らす必要はなかったのだと気付く。
竜からきらめきが溢れ出た。否、漏れ出たという表現の方が近いのかもしれない。
それは星の瞬きにも似た、強烈で鮮やかなきらめきと――光。
周囲を呑み込む圧倒的な光量に、ティシェは咄嗟にトールを抱き寄せる。
光に呑み込れたのか、側にいたグローシャもアーリィもその存在を感じられない。影のカロンは無事だろうか。
「――また何処ぞでまみえよう」
響き渡る声に顔を上げる。眩しさに目を細めた。
竜はきらめきをまとい、今にも光に消えてしまいそうだった。
――かの竜が行ってしまう。腕の中の存在に突き動かされるように、衝動的に声を張り上げた。
「待って欲しいっ! 私はあなたに、問いたいことが――っ!」
「なれば、星を追え。吾は次の地へ向かわねばならない」
どこに、と反射で返す前に、光が爆発した。
◇ ◆ ◇




