相対
洞窟の奥へ、ずんずんと歩を進めてしばらく。
「……気持ち、悪いな」
ティシェは堪えきれなくなり、腹の辺りを手で押えながら、グローシャへと寄りかかった。
橙の瞳が背を振り返る。幾分か彼女が足を緩めてくれたのか、歩きで伝わる振動が和らいだ。
ピルゥと気遣う声に、力なく片手を小さく振る。
「……だい、じょうぶ。ちょっと、気分が悪いだけ」
ふぅと息を深く吐いて腹の違和感をやり過ごしたのち、身をゆっくりと起こした。
ともすれば、意識を腹に向けた途端、気持ち悪さに襲われそうな不快感は残ったまま。
それに先程から感じ始めている、奥へと進むごとに増すそれは、言葉にしにくいながらも確かにそうだなと頷けるものだった。
「トールの言っていたことが、わかる気がするな」
空気が重い――。
グローシャの体内を巡る灯も、もうずっと明滅を繰り返して落ち着きがない様子だ。奥に進むにつれ、その明滅の感覚が短くなり、激しく瞬く。
変化はまた突然だった。
突として閉塞感がなくなり、代わりのように空気が広がったことから、そこに空間が広がっていることを察する。
変わらず灯りがなければ足下さえ見通せない暗闇に覆われ、その広さは判然としない。
だが、空気の流れは感ずるため、どこか外へと通じている道があるのか、はたまた隙間があるのか。
グローシャの首筋を軽く叩くと、応じた彼女が体内を巡る灯を珠をとして体外へ放出した。
ふわりと幾つもの灯の珠が浮かび上がり、小さく周辺を照らし出す。その範囲から、空間の広さを垣間見る。
こつん、との音があちらこちらで幾重にも重なり、余韻を残してすぅと溶けていくと、ぽぅおあ、と次々に頭上に優しい灯りが灯っていく。
だが、予想に反するその光景に、ティシェは思わず蒼の瞳を見開く。
洞窟内の天井部から顔を出しているであろう灯煌石。そこへ向け、グローシャに灯の珠を放ってもらったのだが。
「これほどとは……」
束の間気分の悪さも忘れ、思わず声をもらしてしまうほどに、この空間は灯煌石であふれていたらしい。
先程の比ではないほどの灯煌石が埋まっていた。天井部だけでなく、岩壁に至るまで。
その光景にグローシャも、ピルゥゥ、と感嘆はらむ声をもらす。
灯煌石の灯りが穏やかに揺れる。
瞬きにも似たその揺れは、満点の星空にも見え、まるでティシェとグローシャの上に星明かりが降り注ぐかのようだった。
その星明かりがこの場に満ちる。
まず目に入ったのは、きらきらと星明かりを弾く水面だった。
グローシャの背から降りると、身体の揺れに敏感に反応したのか、気持ち悪さが戻ってくる。
思わず踏んだたたらに、足下に広がる水が跳ねる。
心なしかおぼつかない足取りで進めば、すぐに湖畔に行き着いた。
空間の大半を占めるその泉は、地底まで見通せる程に澄んでいて、そして目を見張るのがその底だ。
気持ち悪さを堪えながら、そろりと水底を覗き込む。
灯煌石は水底にまで及び、泉の深さに底がうかがえない。
「……なるほどな。これが水晶の泉と謂われる所以か」
果てがないように感ずるそれに、ティシェは薄ら寒気を覚えた。あまりに綺麗すぎたから。
湖面に星明かりを背にした、顔色の悪い己の顔が映る。
顔を上げるのも億劫に感じさせる空気の重さ。圧、とでも言うような、圧せられる見えない何かはなんだろうか。
「……っ」
やってきた再度の気持ち悪さの波に、顔を思わず歪める。
そんな時だった。
――こつん、と。頭に硬い、けれども小さい何かが落ちてきた。
それはころころとティシェの横に転がる。
のろのろと視線で追って、はたと気付く。
ゆっくりと顔を上げれば、上から降り落ちる星――否、灯煌石が崩れ落ち、きらめきが降り落ちていた。
その光景は綺麗だと思うと同時に、どこか恐さをはらむのはどうしてか。
地には、かつん、と音を立てて転がり、泉には水しぶきを立てて落ち、くるくると渦を描いて沈んでいく。
ティシェは側に落ちる欠片を手に取った。
「脆くなっているのか……?」
「――古いものが押し出されたように見えるけどね」
ほら、音がする。との言葉に、ティシェは耳に意識を向ける。
ぱき、ぱき。小さく響き聴こえたその音は、反響して出所はわからない。けれども、確かに聴こえる音。
目を凝らして天井部を見やれば、少しずつ押し出され、降り落ちる灯煌石が見えた。
「確かに押し出されている」
「異常だよね。鉱物ができるのなんて、途方もない時間が必要なのに。この辺り、活性化してるみたいで不気味、だ……っ」
途切れた声。どこか辛そうな声。
そこまで思って、ティシェはぱちりと蒼の瞳を瞬かせた。
返ってきたこの声は――この場にいないはずの声。
ティシェは弾かれたように振り返る。
「おまっ……どうして……っ」
振り返った先。アーリィに寄りかかって立つトールの姿があった。
その顔色は離れていてもわかるくらいには悪い。
思わず立ち上がる。襲う気持ち悪さは、息を吐き出して無視をする。
が、トールのもとへ駆け寄ろうとして足を踏み出すも、やはり襲う気持ち悪さには抗えなく、踏み出すだけに留まった。
グローシャがやってきて、自分の方へとティシェの身体を寄りかからせる。
されるがままになりながら、ティシェはトールを軽く睨む。
「なぜ、追ってきた」
「なぜって、言われてもね」
トールは目を眇め、アーリィと顔を見合わせる。
そして、またティシェを見やった瞳に滲むのは苛立ち。
体調の不調によってしかめられたそれなのか、あるいは余裕のなさからか。
「真っ暗闇の中で戻る方が危ないじゃん」
その言葉にはっとする。
そうだ。荷は全て外に置いてきた。すぐに戻るつもりだったし、光源はグローシャが一緒ならば必要ないと思って。
ティシェの視線が落ちる。
気が回っていなかった。大事にさせてくれと言ったばかりだったのに。
それでも、あの場は己を優先したかった。
だから、謝を口にすることもできず、口を引き結んだ。
大事にするのは難しい。
ティシェはトールを見やった。
アーリィに寄りかかる彼は、頭を押さえ、顔はしかめられて険しい。頭痛がひどくなっているのか。
ティシェはかぶりを振る。
大事にしたいだとか、難しいだとか、そんなものはあとで考えるべきことだ。
今は、できることを。自分も体調が悪いとはいえ、動ける程度ではある。
ふうと息を吐き、グローシャに礼の意味を込めて一撫でする。
寄りかかっていたのをそっと離れると、グローシャが小さく唸った。
それを大丈夫の一つで返し、トールへ声をかけた。
「引き返そう」
ティシェを見たトールが、いいのかと視線だけで問いかける。
いいんだ、と頷き一つで答えた――時だった。二人同時に、はっと瞳を見開いた。
がばりと振り向く。
その隣では、竜達が警戒体勢を取る。なのに、他竜と相対した時のような、警戒する声も警告する声も発さない。
異様な反応だと思った。だが、かの相手ならば、それも妥当な反応だとも思った。
星が落ちるきらめきの中。はじめからそこに佇んでいたように、そこにかの存在は在った。
「――星願の、竜」
思わずこぼれた声はどちらのものか。
かの竜――星願の竜の夜空にも似た瑠璃の瞳が、ついとこちらへ向けられた。
きらめきを弾く銀の鱗が身体を覆い、頭には二本の角を抱く。胸元を覆う体毛もまた銀であり、細そうな毛はやわらかさそうにも見える。
がっしりとした四肢に、前足には被膜がちらりと覗く。
尾はすらりと細長く、けれども所々に隆起した鱗は鋭くて硬そうだ。
体躯はグローシャやアーリィと比べると、ふたまわりは大きいのではないだろうか。間近で見たのならば、見上げなければならないように思えた。
そこにただ竜が存在しているだけだというのに、場の空気は張り詰め、呼吸の仕方がわからなくなってしまいそうだ。
竜の瑠璃の瞳がティシェを、そしてトールをゆっくりと見る。
たったそれだけで、緊張なのか、畏怖なのか、汗が噴き出す心地に襲われる。
ティシェもトールも、グローシャやアーリィでさえも、身じろぐことが出来ない張り詰めた中で、かの竜が静かに口を開いた。
「なにゆえ、かような飽和地に人の子がいる」




