少女は青年との旅をまだ
頬に灯る熱を自覚しつつ、トールは深く息を吐いて気持ちを落ち着ける。
吹き抜ける夜風が頬を撫でた。
夏の時期といえど、森は暑さを和らげ空気を冷やす。その冷やされた空気が心地良かった。
その人心地に気持ちが落ち着いてくると、とある疑問が浮かんできた。
「――ねぇ、ティシェ」
ん、なんだ。とティシェがトールを見やる。
トールは瞬く蒼の瞳を見つめた。
「驚かないん、だね?」
「何をだ?」
「僕が別の世界から来たって話に」
風が吹く。目にかかった前髪が視界に入り、トールは「そういえば」と思い出したように呟き、さらに言葉を続けた。
「初めて会った時にも、ティシェは僕の髪色にも驚かなかったね」
指先で自身の黒の前髪を摘む。
「僕はあとから知ったけど、黒の髪色って、この国……というか、この大陸では珍しい色らしいよね」
「そうだな、全くいないわけでもないが、珍しい色だとは思う。この国、この大陸で見る黒の髪色の者は、旅人か移民か、はたまたその血を引く者だと言われている」
ふーんと相槌をうち、トールは摘んでいた髪を放す。
伸びた前髪は、すでに目を完全に隠す程になっていて、そろそろ切らなきゃなと彼は思っているところだ。
と。そこへ、横からティシェの手が伸びる。
その手が、そっとトールの前髪を持ち上げ、鳶色の瞳を見つめた。
トールは身体を強張らせ、ティシェも彼の瞳に緊張が滲んだのを見て、はっとして伸ばした手を放した。
はらりと前髪が落ち、トールの瞳を隠す。
今なにか、彼の瞳の奥になにかの熱を見た気がした。
ティシェは落ち着かない心地に襲われ、思わず下を見て、言葉を探して小さく視線を逃がした。
どうしてか、頬に熱が集まっている気がした。
「わ、私の」
頬に灯る熱を誤魔化すため、咄嗟に声を出す。
「私の育ての親は、黒の髪を持っていたから。だから、私の中でトールのその髪色については、珍しいと感じるものではなかったんだ」
「……それは、初耳だな」
少しばかり驚きを滲ませた彼の声音に、聞き慣れない言葉を拾ってティシェは顔を上げた。
「はつみみ……とは、初めて耳にしたということか?」
「うん、そうだけど。これも聞きなじみない言葉だった……?」
「まあ、私はなかったな」
「……そうなんだ。だとすると、ティシェが意味を察してくれることが増えたよね」
ん、とティシェが小首を傾げる。
「最近は訊いてくることも少なくなってきてたし、訊いてくれても、今みたいに確認のためだったりとかで」
「ああ、それか。トールとの付き合いもそれなりになってきたしな。一緒にいる時間が多ければ、自然とわかってくる」
真っすぐに見て、真っすぐな言葉を紡いだティシェに、トールは鳶色の瞳を瞬かせ、彼女を見つめ返した。
やがてトールは目を逸らし、「そっか、一緒にいるもんね」と呟いた。
そんな彼の頬にほんのりと朱が差すのを、星明りの下で見たティシェは、どうしてかまた頬に熱が集まった気がして、同じく目を逸らした。
隣り合って座っているのが、今更ながらに落ち着かなくなる。
触れ合いそうなほどに近い肩へ意識が向いてしまい、今すぐに離れたいような、けれども、もう少しだけこのままでいたいような。
そんな矛盾した気持ちを抱くのだった。
トールが再び、懐中電灯で照らした地図へ視線を落とす。
何事かを思案しているらしいその横顔を、ティシェは隣で覗き見ながら、まだ答えてもらえていなかった問いを投げた。
「それで、何をしていたんだ?」
トールは顔を上げ、ああ、答えてなかったね、と地図をティシェの方へと差し向けた。
「水晶の泉までの道程を考えてたんだ。懐中電灯の明かりはアーリィも嫌うから、皆から離れたところで考えようと思って」
トール自身もティシェへと身を寄せ、二人して地図を眺める。
彼が指先で示した現在位置から、すぅーと地図上を滑らせていく。
「夏の時期を考慮して、暑さの和らぐ森から向かおうと思う」
「だが、このまま進めば山にあたるぞ」
ティシェはトールの動かす指先の、さらに先へ目を向け、彼女もそこを指先で示した。
「そうなんだけど、地図には描かれてない洞窟がある」
ティシェが顔を上げれば、思ったよりも近くにあった彼の顔に一瞬息を詰まらせたが、その顔がにやりと笑う。
鳶色の瞳を好奇心できらめかせた、そんな子供っぽい笑顔だった。
「そういうのって、わくわくしない? 未開の地みたいでさ」
「未開の地だったのならば、トールはその洞窟の話は知らないはずだと思うが」
「それは……そーだけど」
ティシェが思ったことを素直に返せば、トールは口をへの字にし、拗ねたように目を逸らした。
懐中電灯の明かりが下から煌々と照らし、トールの表情の変化もよく見える。
――かわいいな。ぽっ、と灯ったそんな想いに、ティシェの顔に淡い笑みが浮かんだ。
「悪い。正直過ぎた」
自分の言葉に反応してくれた彼がおかしくて、楽しくて、言葉にしがたい、あたたかでやわらかな気持ちが胸内に沸く。
だからだろうか、少しだけからかいたくなった。
赴くままに手を伸ばし、普段よりも近くにあるトールの頬に触れる。
彼の身体が強張ったのが、触れた手越しに伝わった。
緊張気味に揺れる鳶色の瞳が、そっとティシェを窺い見る。
気を良くしたティシェは、ほんの少しだけ笑みを深めた。
「すまなかった」
やわらかな声音に、トールの頬が仄かに朱に染まる。
口を引き結び、むぐむぐとしたあと。
「なんか! いろいろと、近いっ!」
一つ叫び、彼はすっくと立ち上がった。
遠巻きながら、カロンが何事だろうかと影から顔を出す。
トールは側に立てかけていた巻き鞄を取ると、そそくさと地図をしまってしまう。
懐中電灯の明かりを落としてそれもしまうと、ティシェに背を向けた。
木の根から地へと飛び降り、けれども、そこで一度ティシェを振り返る。
「さあ、戻るよ。さっさと寝ないと朝になっちゃう」
「そうだな、朝になってしまう」
くすくすと肩を揺らして笑うティシェに、トールはむっと口をまた引き結んで、今度こそ背を向けて行ってしまう。
その反応が楽しく、同時にやはり可愛くも思えてしまって、ティシェは一つの気持ちを自覚した。
困ったな、と。少しだけ諦めをはらんだ表情を浮かべ、虫の唄声が聴こえる夜の森に、ぽとりと言葉をこぼす。
「……ああ、終わらせたくないなあ」
――トールとの旅を。
その言葉は飲み込んだ。
楽しい旅を終わらせたくないと惜しむ気持ちと、もっと別の熱を持った気持ち。
その気持ちは、たぶん、もうずっと前からティシェの中に在って、燻っていたものだ。
ふう、と息を一つ落とすと、既に夜闇に見えなくなってしまったトールを追いかけるため、ティシェも木の根から地へと飛び降りた。
夜風が枝葉を揺らす。それはまるで、早くお休みなさいと訴えているようで。
眠気に誘われてしまったのか、ティシェはあくびを噛み殺す。
「はやく、いこう」
促す声に視線を足元に落とせば、影の中から紅の双眸がティシェを見上げていた。
それに頷き返し、ティシェはトールのあとを追うために足を踏み出す。
少し森を進んだ先で、トールがティシェを待ってくれていて、彼女は嬉しさを胸内に抱きながら、彼へと駆け出した。
これは、一緒に旅をする仲間との終わりを予感させた夜のひとこま――旅の一頁である。




