彼の告げる、それ
「あ、ここには考え込むために来たわけじゃなかった」
鳶色の瞳を瞬かせ、トールは背をあずけていた幹から身体を起こした。
側に立てかけていた物を取り、膝上に乗せる。
くるくると巻かれたやわらかな革素材のその鞄は、トールは巻き鞄と呼び、地図を持ち運ぶのに重宝している。
紐を解いて鞄を広げると、懐中電灯の明かりを点けて手元を照らす。この辺りの地域地図を丁寧に引き抜き、また巻き鞄を巻いて立てかけた。
膝上に広げた地図を懐中電灯の明かりで照らしつつ、地図上の道を指でなぞっていく。
「……この先からは、舗装された道も多くなる。歩きやすくはなるだろうけど、日中の移動は厳しくもなるかもなあ」
日中の陽射しは今の時期ですら強いと感じるのに、夏の盛りはこれからだ。
となれば、一日の移動距離も考えなければならない。
うーんと唸って地図を見やる。トールの視線は、別の道程も考慮しようと地図の上を走る。
――と。一つの気配を察して顔を上げ、背後を振り返る。
「ごめん。起こしちゃったかな」
振り返った先では、ティシェが軽く見開いた蒼の瞳を瞬かせていた。
*
「夜の森の一人歩きは感心しないが、何をしていたんだ?」
こんな夜更けに、と口にしつつ、ティシェはトールの隣に腰を下ろす。
身体の向きを変え、トールが隣を空けてくれた。
そこに遠慮なく座らせてもらい、トールが広げていた地図を覗き込む――前に、彼が手に持っているものが気になった。
不審気味に眉を小さく寄せながら、そっとそれを指差す。
「トール、それは……?」
瞬間、トールの顔が強張った。明らかに答えあぐねる顔だ。
ティシェはすぐに、まずかったか、と乏しい表情下で焦る。
触れて欲しくない事柄だったのかもしれない。
咄嗟に、いや、いいんだ、と言おうとティシェが口を開いた時、トールがそっと答えを口にした。
「……懐中電灯」
「かいちゅー……――なんだ?」
聞き馴染みのない単語に、反射的に聞き返す。
「懐中電灯。……噛み砕いて言えば、持ち運びができる小型の照明器具? 簡単に言えば、手持ちランプ……?」
くっと眉を寄せたトールがティシェを見やり、そして「合ってるかな?」と首を傾げた。
ティシェも同じように、くっと眉を寄せる。
「私に確かめられても知らないが……?」
「それも……そうだね」
眉を寄せた顔で互いを見やって、しばらく。
ティシェとトールは、ふっと息が抜けると、表情を緩めて小さく笑い合った。
「風の商人は珍しいものまでも扱うんだな。私はこんな手持ちランプは初めて見た」
トールから受け取った懐中電灯を、ティシェは興味深げに眺めやる。
いろんな角度から眺め、トールに教えてもらった通りに、尻の方のやわらかな部分を押す。
カチッっと聞き慣れぬ音と共に、それはぺかぁとした光を落とした。
足元を照らし、さっと追い払われるようにして影が立ち消えるも、取り残された影が一つ。
くっきりと立体を帯びて残った影に、さすがのティシェもぎょっとして大きく蒼の瞳を見開く。
当の影もびっくりしたのか、紅の瞳を忙しくなくぱちくりと瞬かせていた。
「う、うわぁ……影竜って、影からあぶり出すことできちゃうんだぁ……」
トールが関心に戸惑いを混ぜたような声をもらす。
驚きから立ち直ったカロンは、懐中電灯を思いっきり睨みつけ、じりじりと後ずさり、照らさせている範囲から出た瞬間に夜闇に沈んだ。
そして、その夜闇の中から、警戒を多分に含んだ紅の瞳を向ける。
ティシェがなんとなく手に持つ懐中電灯を動かせば、紅の瞳も追従するように追いかける。じとりとした、なんとも陰湿はらむ視線で。
ティシェとトールは顔を見合わせた。
「すっかり警戒対象だな」
「影からあぶり出されるなんて、影竜にとっては致命的だよねぇ……」
未だ影の中から警戒しているカロンを見やり、ティシェは懐中電灯のスイッチを切った。
戻ってきた夜の色と、訪れた夜の気配に緩く息を吐いたカロンは、そのまま深くまで影に沈んでしまう。
夜風に枝葉が揺れた。
静寂が横たわり、茂みから聴こえる虫の声や、遠くで聴こえる梟の声が鮮明になる。
「それで、これは――?」
静寂を揺らしたのはティシェだった。
手にしたままの懐中電灯を示すように振り、トールへと差し出す。
懐中電灯を受け取ったトールは、神妙な面持ちで手に持つそれを見つめた。
何かを迷う素振りで、幾度か口を開いたり閉じたりを繰り返し、やがて、ふっと息を落としたところで顔を上げる。
星明かりが彼の顔を淡く照らし、鳶色の瞳がティシェを真っ直ぐ見据えた。
ティシェは蒼の瞳を小さく細める。
「……新商品って、雰囲気でもなさそうだな」
「うん、新商品でもない。風の商人では扱ってないし、どこの商会でも扱ってない。そもそも、この世界で造られたものじゃないから」
せかい、と。ティシェは口の中だけで繰り返した。
何かを言いかけ、そこで口をつぐむ。
トールが一度目を伏せるから。言おうか言うまいかと、逡巡するみたいに。
だから、ティシェは静かに続きを待った。
トールがティシェを見る。問うような、推し量るような眼差しだった。
ティシェがトールの手に触れる。ぴくりと動いたその手は冷たかった。あたためるように手を包み込み、トールを見る。
「聞かせて欲しい」
トールはまた目を伏せ、そして、言葉を選ぶように慎重にそれを告げた。
「僕も、この世界の人じゃない――って言ったら、ティシェは驚く?」
ざあっと、夜風が枝葉を揺らした。
ティシェを見やる鳶色の瞳の中に、僅かながらの怯えが垣間見える。
互いに沈黙する二人の間を、さわざわと枝葉を揺らしながら吹き抜けていく。
その中で、ティシェがそっと口を開いた。蒼の瞳はしかとトールを見る。
「一つ、確認をしたい」
トールの鳶色の瞳が揺らぐ。
だが、何かを決めたように蒼の瞳を見返し、彼は頷いた。
「なに?」
「前にトールは言ったな。こっちに連れてこられた、と」
「うん、言った」
「その、こっち、というのは、別の世界という意味か?」
「うん、そうなるね」
「……そうか」
そうか、ともう一度だけ繰り返し、ティシェは視線を落とした。
告げられた言葉を反芻し、受け留め、大切に裡に抱える。
そして、ぽつりと言葉を落とす。
「ありがと、な。話してくれて」
「え、なんでお礼?」
ティシェが顔を上げれば、困惑を多分に含んだ鳶色の瞳が自分を見返していた。
「話してくれたことが、嬉しかった。トールの深い部分に触れられたような気がして」
やわく笑む彼女に、トールは声を詰まらせる。
星明かりできらめいて見える彼女の蒼の瞳が、ゆるりと細められる。
なんとかして絞り出した声は、情けないくらいにか細かった。
「……なに、それ。わりと勇気いったのに、なんかどきつくんだけど」
拗ねたような顔で、トールはティシェから顔を逸らす。
星明かりに照らし出された頬が、ほんのりと色付いていた。




