踏み込めない距離
竜舎の一角。グローシャに割り当てられた仕切り部屋の中で、今日もティシェは目を覚ました。
高く造られた天井、その明かり取りの窓から朝陽が束になって落ち、舎内に舞う埃が瞬く。
丸まっていた掛布から抜け出して両腕を上に伸ばせば、解れた節々に抜けた声がもれでた。
その声にグローシャも目を覚ます。
丸まる体勢からゆっくりと顔が持ち上がり、とろんとした橙の瞳がしぱしぱと眠たげに瞬いた。
「おはよう、グローシャ」
くすりと小さく笑うティシェに、グローシャもピルゥと声を返す。
グローシャはのそりと身を起こして、くいーと身体を伸ばした。その際にぱらぱらと彼女の身体から何かが落ちた。ティシェはその一つを拾う。
「まずはブラシからだな」
その言葉にグローシャの橙の瞳がるんっと輝いた。
そして彼女は、待ってましたとばかりにピルッと元気に鳴くのだった。
*
ティシェが長い柄を持ち、ブラシでグローシャの身体を擦れば、ぱらぱらと古くなった鱗が剥がれ落ちていく。
彼女の身体に手を滑らせると、剥がれ落ちた下から新たに鱗が生え始めているのが感じ取れた。
「大丈夫そうでよかった」
グローシャの快復は順調そうだ。
ティシェはブラシの柄を突き立て、ふうと一息つく。
竜のブラシがけはなかなかに重労働だ。
改めて手に持つブラシを眺める。このブラシ、本来は竜の身体にブラシかける用途ものではない。
そもそもが竜にブラシがけをすることはない。
「デッキブラシがちょうどいいとはな」
思わず小さく苦笑した。
ブラシの素材といい、その硬さといい、グローシャのお気に召したらしいこのデッキブラシは、倉庫の奥に未使用のものがあったとボワから借りたものだ。
古い鱗が剥がれ落ち、それを煩わしそうにしていたグローシャを見兼ね、何か掻き落とせるものはないかと探して行き着いたのがデッキブラシだった。
そしてこのデッキブラシ、お気に召したのはグローシャだけではなかった。
「次、いい?」
カロンが足下の影からひょこりと顔を出し、期待に満ちた紅の瞳でティシェを見上げる。
お気に召したのはカロンもだった。
身を振るわせて剥がれた鱗を振り落としたグローシャは、カロンに場所を譲るために下がる。
キャロと高く鳴いたカロンが、影から身体を顕現させて空いた場所に寝転がった。
ティシェがデッキブラシで鱗を擦ってやれば、鱗が剥がれ落ちることはもちろんないが、楽しげにカロカロと声を転がす。
彼はブラシで擦られる感触が気持ちいいというよりも、擦られる感覚が面白いらしい。ティシェの頬が自然と緩む。
しばらくそうしていると、宿舎に続く扉が開いた。
肩にラッフィルを乗せたトールが顔を覗かせ、顔を上げたティシェと目が合うと、ふっと小さく笑う。
「今日も賑やかだね」
竜舎内に足を踏み入れ、そのまま真っ直ぐアーリィの仕切り部屋へ向かっていく。
そして、今日もぽふんっと音がした。
ティシェは持っていたデッキブラシを壁に立てかけると、隣の仕切り部屋へと急ぎ足で向かう。
隣を覗き込めば、身を丸めていたアーリィに飛び込んだトールの後ろ姿が見える。
いや、飛び込んだというよりも、倒れ込んだと表現した方がいい体勢だ。
迷惑げに顔を上げたアーリィの角に、ラッフィルがふわりと留まった。
「……トール、本当に良くなってきているのか?」
ティシェが問うてしまうのも、顔を上げたトールの顔色が悪く見えるせいだ。
竜舎内に照明の類がなく、ほんのりと薄暗いせいだけではない気がする。
アーリィの羽毛に埋もれるトールが片手を上げてひらりと振った。
「怪我は良くなってきてるよ」
怪我は。
その言い方に引っかかりを感じるも、次いでトールの顔に浮かんだ表情に、ティシェは何も訊ねることができなくなる。
トールがにこりと笑ったからだ。
小さく口を引き結んだティシェに、トールは少しだけ気まずそうに目を逸らして困ったように笑う。
「ちょっと夜、目を覚ましちゃうことが多いだけだよ」
それはつまり、寝不足だということなのでは、とティシェは言おうとしたが、彼女が口を開く前にトールが立ち上がってしまう。
「これは僕の問題だから。……じゃあ、アーリィと外を回ってくるね」
僕の問題――そう言われてしまった今のティシェには、外へと向かうトールの背を見送ることしかできない。
ラッフィルはトールを追って飛び立ち、その肩に留まる。
アーリィはトールの背と、取り残されてしまったように立ち尽くすティシェを交互に見やり、やがて小さく息を落として彼のあとを追った。
しばし無言で立ち尽くすティシェに、グローシャがその頬に頬を、カロンが足に身をそれぞれ擦り寄せてくる。
触れるあたたかさに、ティシェは目を伏せて淡く笑った。
絶対的な味方が傍に在る。そのことが心強かった。
ティシェとトールには、他人に立ち入れられたくはない部分がある。
けれども、二人は互いにそこへ踏み込める関係でもある。
だってティシェとトールは、そーいう仲で、踏み込めるし、踏み込ませてもらえる関係だから。
なのに、先程のティシェはそこへ踏み込めなかった。ティシェが勝手に抱く自責がそうさせた。
「……なあ、グローシャ。私はどうしたらいいと思う?」
置き去りにされた子供のような声。
顔を上げてグローシャの橙の瞳をみつめる。
グローシャはしばし蒼の瞳を見返し、ただ静かに、自身の頬をティシェの頬にまた擦り寄せた。
「――ティシェさぁーん」
と。一つの声が割って入り、足下にいたカロンが影に潜る。
グローシャを見やれば、彼女は露骨に嫌そうな顔をしていた。
ティシェは思わず苦笑を浮かべ、声の方を振り返る。
竜舎と宿舎を繋ぐ扉。その戸口に声の主、シロワが立っていた。
「うわぁ、いつもの反応」
竜達の反応にシロワも苦笑を浮かべていた。
彼女の手には盆があり、その盆には丁寧に折られた包装紙が一つ乗っている。
「グローシャさん、お薬の時間です」
竜舎の中へと入ってきたシロワが、すまし顔でグローシャへ盆を差し出す。
グローシャはすんと鼻を鳴らすと、思いっきり顔を盆から背けた。
「これ、そんなに嫌な匂いとかするんですかね?」
シロワが盆に顔を寄せて匂いを嗅ぐ。だが、匂いは感じ取れなかったようで首を小さく傾げた。
シロワの蜂蜜色の瞳が、ティシェはどうかと問うそれで向けられる。
ティシェも小さく首を横に振った。
竜のために調合された薬は、人の嗅覚では感じ取れない匂いを発しているらしい。
「先生はこの匂いが身体に染み付いてしまっているらしくて、軍竜も先生が近くに来ると逃げるんですよ」
シロワはいたずらを楽しむ子供のように楽しげに教えてくれた。
『先生』というのは駐屯所に駐在する獣医師のことで、軍竜を専門としている。
あの夜、警戒を見せるグローシャに臆することなく薬を放り込んだ獣医師だ。
あの時のグローシャの異常なまでの警戒心は、身体に染み付いてしまったらしい匂いからきていたようで、あとからそれを知ったティシェはひどく安堵したものだ。
だからこうして、ティシェやトール以外の人間とも居合わせられている。
「さて、グローシャ」
ティシェが声をかければ、そろりそろりとこの場を離れようとしていたグローシャが、びくりと身体を跳ねさせて足を止めた。
「お前のための薬だ。飲まなければだめだろう」
グローシャはしばし挑むような目つきでティシェを見ていたが、やがて観念したようにくわりと口を開ける。
ティシェは受け取った包装紙をゆっくりと解くと、包まれていた粉末をグローシャの口に振り落とした。
グローシャはものすごく苦そうに素早くそれを嚥下し、すぐさま仕切り部屋の水飲み場へと駆けて行く。
「苦いということは、良く効く薬ということだろう」
小さく苦笑を滲ませていると、口周りを水で濡らしたグローシャが振り向いた。顎から水が滴る。
橙色の瞳が恨めしそうにティシェを睨んでいるが、実際にグローシャの快復は良好だ。
「薬の中に、星が由来の泉も混ぜてあるって先生がおっしゃってましたよ」
隣で苦笑を浮かべるシロワが小さく言った。
「グローシャさんの薬にも、ティシェさんやトールさんの薬にも」
耳打ちするようにそっと告げたシロワを見やると、彼女は「貴重ですから、内緒ですよ」と人差し指を口元に当てていたずらっぽく笑う。
星が由来――それだけでティシェには伝わった。
星願の竜が由来の、あの泉のことだ。
なるほど、と包帯を巻く必要もなくなった己の手を見下ろし、開いたり閉じたりと動かしてみる。
動作に問題はなく、多少の皮むけが気になるくらいで見た目も大きな問題はない。めくれた皮の下からは、薄ら桃色の皮膚が覗いている。
あの星願の竜由来の泉が用いられているのならば、納得の治り具合とその早さだ。
グローシャのふんっと荒い息が聞こえて視線を上げる。
彼女はティシェ達に背を向け、身を丸めていた。尾先だけがぴしぱしと床を叩く。
「不貞寝か」
「不貞寝ですね」
ティシェはふっと小さく笑い、シロワはふはっと大きく笑った。
「星が由来のそれ以外にも、先生特製栄養剤も入っているらしいですからね。――ところで」
笑いを引っ込めたシロワが、結った茶の髪を揺らしながら、くるりとティシェを振り向く。
「ティシェさん、何かお悩み事でもあるんです? よければ、このシロワさんが相談に乗りますよ」
ティシェの顔を覗き込む蜂蜜色の瞳が、好奇心できらめいていた。




