至上の愛らしさ 原田嘉邦
同人ゲーム
群青ノ雪の本編その後の話。
公式ネタバレ垢のSS執筆希望人気投票第1位の原田嘉邦のSSになります。
群青ノ雪 ~原田嘉邦SS~ 21.2.23公開
【至上の愛らしさ】
――早く、大人になりたい。
自立した一端の男になりたい。
夜、眠りにつく前に、俺はそのようなことを願うようになった。
ある夜は悴んだ手足を暖めるように体を丸めて、子猫のように毛布に包まりながら。
またある夜には、湯気が立ち上りそうに熱気のこもった個室のなかで、申し訳程度の氷を口に含みながら、そのようなことを飽くこともなくひたすらに願った。
俺は一日たりとも『あの日』を忘れたことなどなかった。
それはそうでしょう?
貴女に出会ってしまった男は皆、例外なく貴女という魅惑的な華に夢中になるのだから。
外れくじのような悲惨な人生だった。
そのように滑稽な人生を歩んできた俺にとって、貴女との出会いは、なんとも奇跡染みた出来事に違いなかった。
「一等、幸せになってください。貴方は、幸せになるべき人ですから」
どうしてそうも、優しい声音で、穏やかな表情で、温かな手のひらで、俺の心を慰めてくださるのか?
ただただ、貴女の女神のような慈愛の籠った眼差しに、石のようだったこの心は、それは大きく揺すぶられた。
ずっと心細く、兄として無い見栄を張り、体罰に怯え、なんとも苦々しい時間の中を生きていた俺に、貴女が生きる希望を与えてくださった。
貴女の優しくも芯のあるあの声を、今でも時々、幻聴のように思い出すのだ。
長い間埃に塗れていた、自尊心と、愛情。
胸の内に秘めていた人間らしい感情。
全て貴女が、思い出させてくださったのだ。
――あの日は俺にとって、生涯で忘れることの出来ない一等大切な日になった。
多岐川七瀬さん。
その名前を、一体何度、口にしたことか。
早く会いたい。
今の俺を知ってほしい。あの瞳に俺の姿を映してほしい。
貴女の、七瀬さんの瞳に、俺だけを映せたならば、どんなにか――。
「……ん」
ふと、目を覚ます。僅かばかり眠っていたようだ。
凝り固まった背中をうんと伸ばしてから、俺は深く息を吐き、腰かけていた革製の椅子に深く座りなおした。
俺はなにをしていたのだったか?
机に目をやると、開いたままの馴染みの医学書と、やや冷めているらしい湯気のない珈琲があった。
そうか。医務室で仕事をしていたのだと、部屋を見回して思い出す。
そしていつの間に手に取ったのか、日々書き綴っている我が日記を胸に抱いていた。
「……全く、呆れてものが言えないねぇ」
性懲りもなく、俺は尚もこの日記に思いの丈を記す癖が抜けぬのだ。
赤く洋風の装丁をしたこれには、俺の半生の出来事が事細かに記されている。
もはや俺の一部と言っても差し支えないだろう。
俺はその日記を愛しく見つめ、彼女の髪を撫でるかのように優しく頁を捲る。
「俺と言う男は、どうしてこうも恥ずかしげもなく……ふっ、はは」
その日記を一行、二行と読み進める度に、俺は自分自身に可笑しさがこみ上げてくるのだ。
日記のどの頁を見ても、七瀬さんの名前がそこかしこに散りばめられている。
気が付けば、今年で七瀬さんは齢十八に。俺は齢三十になる。
あれから一年の月日が過ぎ去ろうとしていた。
こうして共に過ごした日々が半年、一年と繋がり重なりあってゆく。
その尊さのなんと甘美なことか。
彼女を瞼の裏に映せば、口元が自然と綻ぶこの言いようのない感情。
俺の名を呼び、笑い、怒り、困り、驚き、悲しみ、そして気持ちのままに喜ぶ姿。
その彼女の愛しい一瞬、一瞬を、決して忘れてしまわないように、事細かに文字に記す原田嘉邦と言う僕。
……なんと健気で滑稽な男なのか。
七瀬さんと初めて手をつないだこと。初めて口づけをしたこと。
七瀬さんと初めて遠出をしたこと。初めて愛の言葉を返してくださったこと。
俺が大切だと微笑んでくださったこと。生涯、俺の傍にいると口にしてくださったこと。
多くの初めてが、日々書き認められてゆく。それはなんと幸せなことなのだろう。
今やこの日記は、俺の最初で、そして最後の恋の話が描かれている。
当初は殺伐とした恨み言の羅列ばかりだったはずが、今では柄にもなく一人の女性への愛を詩っているのだから、人生というものは面白い。
彼女と自分を知らぬ人物がこれを読めば、恐らく俺の片想いだと信じて疑わぬことだろう。
結局俺は、七瀬さんをこの手に捕まえた今でさえ、相も変わらず彼女という華に恋い焦がれている蜂に相違ない。
そう。蜂なのだ。決して美しい蝶などではない。
下僕のように彼女の周りを忙しなく駆け回る働き蜂。
一見するとなんとも健気で滑稽なことだろう。
けれど、その蜂は意地が悪くあまりにも身勝手なのだ。
甘い蜜という蜜を独り占めにして、そして愛しい華が他の蜂に奪われぬように針を刺して毒を注ぐ。
俺にしか舐められない毒気を帯びた甘い甘い華へと変えてゆく。
……ほうら。嫌な男でしょう?
生涯この毒針は貴女の柔い肌に刺したままだろう。痛みさえも甘い疼きに変えてやる。
七瀬さん、俺はね――俺の毒気すらも愛してくださる貴女を、一等好ましく想っているのですよ。
もしも。
もしも、この愛をこの世の言葉でより強く表せるのならば、どのような言葉となるのだろう?
俺の七瀬さんへの想いは、どのような――。
「嘉邦さん、ご飯出来ましたよ。お勉強は一度止めてお夕飯にしませんか?」
「……」
医務室の扉から突如として現れた割烹着姿の七瀬さんに、不意を突かれて言葉を失った。
俺は一体どのくらい長ったらしい時間、物思いに耽っていたのだろうか?
「先生?ふふ、どうかしましたか?なんだか呆けた顔してますよ?」
「え、えぇ、はは。いけませんね、常に頭がいっぱいなもので」
「ん?なにがです?」
「……いいえ、なんでも」
「も~!教えてくれないんですか?やだ~!」
「ふ、ははは。七瀬さん、そう可愛らしい顔をするのは止してください、食事前に」
「へ?」
俺は愛しい彼女を壁際へと囲い込み、その無防備な耳元にそっと唇を這わせる。
「このまま貴女にいけないことをして、食事を冷ましてしまいそうになる」
「~~ば、馬鹿ぁ~~!!!!そ、それは、駄目、駄目です!!」
「ふふ、あははは、飽きないですねえ、貴女も」
「嘉邦さんの、意地悪~~っ!!」
ああ。なんと可愛いお方なのだろう。
共に生きて行けることが、なによりも幸せでならない。
遠い明日、遠い未来。
いつの日にか、貴女がどこかの庭に咲く、美しく香しい椿の華になったとして。
俺はきっと名もなき働き蜂となって、可憐な貴女を見つけるのだ。
そうして日々、貴女の優美な花弁を揺らし、甘く欲情的な蜜を余すことなくいただくのだろう。
どうかいつまでも、俺だけにその甘い蜜をください。
俺の情欲塗れのこの唇も、耳障りな音をさせるこの羽根も、そして身勝手なこの毒針も。
俺という男の何もかもを、貴女だけに差し上げましょう。
出来るのならば、いつの日にか、貴女の花弁に飲み込まれてしまいたいものだ。
いつの日にか、ね。
ゆっくりですが、他キャラも書いていきます。