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紫電  作者: KO1
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第三章 クラスナヤ

 飛行船が降りた。

 森の中の、開けた場所だった。木々が左右に迫っていて、空が狭かった。ツキが設定した自動操縦が、ここを着陸地点として選んでいた。最後まで抜かりなかった。

 扉を開けた瞬間、冷気が来た。

 寒かった。月影郷の冬も知っていた。砂漠の夜も知っていた。でもそれとは違う寒さだった。骨の内側まで刺さってくるような、生き物を拒絶するような寒さだった。息が白くなった。地面に雪があった。踏み出した瞬間、足が沈んだ。

 空が低かった。雲が厚く重なっていて、太陽がどこにあるのかわからなかった。木々は黒く細く立ち並んでいて、枝に霜がついていた。風が吹くたびに、かすかな音を立てた。霧が漂っていた。木の間を縫うように、白い霧が動いていた。

 どこかで何かが鳴いていた。

 鳥ではなかった。


「……気味悪いな」


 陽太が呟いた。

「予定どうりだ…」蒼が静かに言った。「クラスナヤへはここから徒歩になる」

 光が扉の縁に手をかけて、外を見ていた。黙っていた。でもその目が、森の奥を静かに追っていた。何かを感じているのか、ただ見ているだけなのか、表情からは読めなかった。


 森に入った。

 足音が雪に吸われた。踏み込むたびに沈む。枝の霜が風に揺れて、細かい氷の粒が頬に当たった。木々の間隔が狭くて、視界が利かなかった。どこまでが道なのか、どこからが森の奥なのか、境界が曖昧だった。

 蒼が先頭を歩いていた。ツキが出力してくれた地図で地形を把握しているのか、迷いなく進んでいた。陽太がその後ろ。結衣が光の隣に並んでいた。光はずっと黙っていたが、足取りは確かだった。

 地面が揺れた。

 微かだった。でも確かに揺れた。雪の下から、何かが来る気配がした。

 木々の奥から、何かが近づいてくる音がした。大きかった。四つ足の音だった。でも普通の動物の音ではなかった。何かが引きずられるような、湿った音が混じっていた。

 姿が見えた。

 オオカミだった。でもオオカミではなかった。体のあちこちから白い触手が滲み出していた。目が濁っていた。口から白い粘液が垂れていた。体の内側にあるものが、外に出ようとしているような、そういう歪んだ形をしていた。


「ワームか…」

 蒼が素早く動いた。

 言葉より先に体が動いていた。光の前に立った。盾になった。両手に蒼氷と白雷を構えた。

 オオカミ型ワームが飛びかかった。蒼が足元の雪を瞬時に凍らせた。前足が滑った。体勢が崩れた。飛びかかる角度がずれた。

 その瞬間だった。

 光が蒼の腕を掴んだ。

 一瞬だけだった。蒼が振り返る前に、光は手を離していた。

 でも流れ込んできた。

 蒼の記憶が。蒼の感情が。言葉にしない、表に出さない、ずっと押し込めてきたものが。陽太への尊敬。結衣への心配。光への——言葉にならない、でも確かにある何かが。

 光が手を離した。何も言わなかった。でも蒼の隣に、少し近づいて立った。

 光の腕輪が光った。

 オオカミ型ワームが怯んだ。動きが止まった。その一瞬に陽太が踏み込んだ。紫電が一閃した。ワームが消えた。

 静寂が戻った。

 蒼が光を見た。光は前を向いていた。何も言わなかった。蒼も何も言わなかった。

 でも蒼の耳が、わずかに赤かった。


「……行くぞ」蒼が前を向いて言った。


 四人は、森の奥へ向かった。



 クラスナヤの入口が見えてきた。

 街だった。かつては街だったはずの場所だった。建物が並んでいた。でも建物の全てに根が絡みついていた。壁を割って、窓を塞いで、屋根を突き破って、黒い根が這っていた。道にも根があった。地面を持ち上げて、アスファルトを砕いて、隙間から根が顔を出していた。空に向かっても根が伸びていた。木のような、でも木ではない何かが、街全体を覆っていた。

 住人がいた。

 動いていた。歩いていた。でも目が虚ろだった。瞳が赤かった。全員の瞳が赤かった。声がなかった。笑いもしない。泣きもしない。ただ動いていた。根に従うように、根の向く方へ、静かに動いていた。

 ワームがいた。

 地面を這っていた。建物の壁を伝っていた。住人の足元をすり抜けていた。数が多かった。黄龍の時とも、砂漠の時とも違う密度だった。

 三人が立ち止まった。

 前方から、後方から、左右から、ワームが集まり始めていた。包囲だった。静かな包囲だった。音もなく、声もなく、ただじわじわと距離が縮まっていた。



 地面が揺れた。

 でも違った。今度は違う揺れ方だった。ワームの動きとは違う。別の何かが地面の下から来ていた。

 地面が割れた。

 別のワームが湧き出してきた。でもそれは敵ではなかった。敵のワームに向かっていった。絡みついた。足止めをした。包囲していたワームの動きが乱れた。

 空から炎が来た。

 鷹のように急降下しながら、一条の炎が空を裂いた。着地と同時に、周囲のワームが燃え上がった。爆炎が広がった。

 人影が立ち上がった。


「お待たせしました!」


 朱雀だった。

 埃を払いながら立ち上がって、三人を見渡した。金色の瞳が、一人一人を確認するように動いた。結衣を見つけた瞬間、表情が変わった。


「結衣さんお久しぶりです!」


 蒼が一言だけ言った。


「……いたのか」


 朱雀が傷ついた顔をした。陽太が「まあまあ」と言いかけて、黙った。こういう時に何を言っても蒼には届かないことを、もうよく知っていた。


「新しい仲間たちも連れてきました」朱雀が地面のワームを見た。「俺の言うことを聞く奴らです。役に立ちますよ」


 陽太が朱雀を見た。ミラージュからここまで、一人でワームを集めながら来たのだろう。振り返らずに別れたあの背中が、今ここにいた。


「……助かる」陽太が言った。

 朱雀が「当然です」と言って、また炎を散らした。


 街…いや、廃墟の中心に巨大な木…らしき物があった、廃墟の道は一直線に木らしき物に伸びていいた。


「いくぞ!」陽太が気合を入れた。



 青龍が現れた。

 いつの間にか目の前にいた。感情のない金色の瞳だった。黄龍で姿を見たのが最期だたはず…完全分析型。全てを読む。全てを予測する。その目に油断はなかった。

「蒼さんでしたよね、一つお手合わせを…」


 蒼が構えを取った瞬間、青龍が動いた。

 先回りだった。蒼が踏み込もうとした場所に、青龍の刃がすでにあった。蒼が軌道を変えた。変えた先にも青龍がいた。回避した。回避の先も読まれていた。


「無駄だ」青龍が言った。「全て読める。お前の動きに、俺の予測が届かない領域はない」


 蒼が動きを止めた。

 目を閉じた。

 頭の中に声があった。慧の声だった。「風は逆らわず、水は形を変える。力は受けるものじゃなく、流すもの……」

 構えを変えた。

 タイミングが消えた。踏み込みに予備動作がなかった。呼吸に規則性がなかった。どこから来るかが、読めなかった。


「……なぜ読めない」青龍が眉をひそめた。

「感情のない者同士だ」青龍が続けた。「なぜ抵抗する。わかり合えるはずだ。感情がなければ、最適解は一つになる。なぜその最適解を選ばない」


 蒼が少し間を置いた。

 光の顔が頭にあった。触れた手が。読み取られた感情が。押し込めてきたつもりだったのに、ちゃんとそこにあったものが。


「……楽しいじゃないか」


 青龍の動きが止まった。


「……何?」

「戦いが」蒼が静かに言った。「お前と競り合うことが。読まれて、流して、また読まれて。それが、楽しい」

「……感情がないはずだ。お前は」

「俺もそう思っていた」蒼が答えた。「でも……あるんだろう。ずっとそこにあったんだろう」


 青龍が初めて、分析できない何かに直面した。感情を持たないはずの相手が、感情を語っていた。それがどういう意味を持つのか、青龍の完全分析が答えを出せなかった。

 蒼の中で、何かが解放された。

 感情を排除することで蓋をしていたものが、今初めて外に出た。光に触れられた時に読み取られた、ずっとそこにあったもの。陽太への尊敬。結衣への心配。光への——それ。全部が、今解放された。


「皆、少し離れて……蒼雷絶界…」蒼の表情が変わる。


 蒼を中心に空間が変化している。

 冷気が広がった。今までの氷界とは違った。桁が違った。空気が凍った。息が止まりそうなほど冷えた。地面が白くなった。壁が白くなった。空が白くなった。世界の全てが、蒼の領域になった。

 青龍が空間に取り込まれる。

 蒼が動いた。空間を滑るように動いた。完全に冷えきった大地を、摩擦なく、音もなく、数センチ地面から浮いている。

青龍が反応しようとした。しかし、異常なスピードだった。不均一な動きとスピード、目で追うことはおろか気配すら残らない…

 蒼氷と白雷が、青龍を貫いた。

 青龍が倒れた。

 蒼が息を整えた。領域が収まっていった。普通の寒さが戻ってきた。


「……慧」


 蒼が小さく呟いた。誰にも聞こえないくらいの声で。



 玄武が守っていたのは、クラスナヤの中心部へ続く橋だった。

 大きかった。四神の中で一番大きかった。甲羅のような防壁を体の周囲に展開していた。動こうとしなかった。ただそこにいた。通せんぼをするように、橋の中央に立っていた。

 結衣が近づいた。腕輪に手を当てながら、ゆっくりと。


「……戦う気はないの?」結衣が聞いた。

「……どうせ何をしても同じだ」玄武が低く言った。声が重かった。疲れたような声だった。「お前たちが何かを変えようとしても、また別の何かが壊れる。選んでも選ばなくても同じだ」


 結衣が黙った。

 玄武の言葉が、どこかに刺さった。反論しようとして、言葉が出なかった。間違っているとは言えなかった。変えようとして、壊れることがある。結衣自身がずっと怖れていたことだった。


「……私も怖いよ」


 結衣が静かに言った。


「壊すことが。誰かの世界を壊すことが。だから……壊さないことが信念になった」


 玄武が動きを止めた。


「でも」結衣が続けた。「それって……自分の気持ちも壊さないために、押し込めてたのかもしれない」


 沈黙があった。


「……お前も同じだろう」玄武がゆっくりと言った。「自分を押し込めて、殻の中にいる。壊れないように。傷つかないように。俺もそうだ。この甲羅は、俺が俺を守るために作ったものだ」

「……そうかもしれない」結衣が答えた。

「それで、いいのか」


 結衣は答えなかった。

 玄武の言葉が、頭の中でゆっくりと回っていた。それでいいのか。自分の気持ちを押し込めたまま、壊さないことだけを守り続けて、それでいいのか。

 陽太のことが頭にあった。

 ずっとそこにあった。ずっと言えなかった。壊れるのが怖かった。今の関係が変わってしまうのが怖かった。

 結衣が顔を上げた。


「……ありがとう」結衣が言った。「出てきていいんだよ、その殻から」


 玄武が長い沈黙の後、甲羅をゆっくりと下ろした。

 重い音がした。長い間支えてきたものを、ようやく下ろしたような音だった。

 玄武の目が、少しだけ変わった。疲れたような目だったが、その奥に何かが戻っていた。


「……お前も」玄武が言った。「出てこい」


 結衣が頷いた。




「うおぉぉぉー!!」

 音からだった。咆哮が先に届いた。低く、大きく、クラスナヤの廃墟に反響した。足元が微かに揺れた。周囲のワームが逃げた。朱雀のワームたちも、少し後退した。

 白虎が現れた。巨大だった。虎の形をしていたが、虎より大きかった。体のあちこちにXの細胞が混ざっていた。目が金色で、怒りに燃えていた。

 朱雀は怯まなかった。


「その咆哮、気持ちいいだろ」朱雀が笑った。「俺もわかるぞ。感情が全身から溢れ出す感覚。抑えようとしても溢れてくる感覚」

「全員、下がって今度は俺の番です!」


 白虎が突進してきた。

 速かった。直線的だった。全力だった。朱雀が鳳炎を纏って受け流した。炎が衝撃を吸収した。制御された炎だった。黄龍の時とは違う。ハクと共に戦った後、確かに何かが変わっていた。

 白虎がまた突進した。また受け流した。また来た。また流した。

 朱雀のワームたちが静かに動いていた。包囲していた。音もなく、白虎の周囲を埋めていた。


「お前も感じているだろう」朱雀が言った。「戦うことが楽しいって。怒りも悲しみも全部、力になるって。それが俺たちの生き方じゃないか」


 白虎が動きを止めた。

 咆哮を止めた。怒りに燃えていた目が、少しだけ揺れた。朱雀の言葉が、どこかに届いたのかもしれなかった。

 朱雀が頭上を見上げた。

 炎を集め始めた。両手を広げた。全部を注ぎ込んだ。今まで一番大きな炎が、頭上に集まっていった。

 形が生まれた。

 鳥の形だった。翼を広げた大きな鳥だった。炎でできた鳥だった。羽ばたいていた。生きているように羽ばたいていた。


「俺は…鷹だ…」朱雀が呟いた。


 不死鳥が解き放たれた。

 白虎が炎に包まれた。咆哮が上がった。でもそれは怒りではなかった。もっと別の何かだった。

 炎が収まった。

 白虎が倒れていた。静かだった。


 朱雀が息を整えた。

 ワームたちが朱雀の周りに集まってきた。小さいものも、大きいものも、静かに朱雀のそばに集まった。

「バカだねお前は…あの時、俺と共に来ていればよかったのに…」

「……俺の出番はここまでだな」朱雀が空を見た。雲の切れ間から、わずかに光が差していた。「行くか、みんな」


 そのまま歩き始めた。

 三人がいる方向とは、逆に。振り返らなかった。ワームたちが朱雀の後についていった。静かな行列だった。

 やがて廃墟の向こうに消えていった。


 四人はクラスナヤの中心部、Xの肉体の根元に近い場所だった。建物が全て根に飲まれていて、広場のような空間ができていた。その中央に、廻が立っていた。


 老人だった。でも老人ではなかった。


 背が高かった。肩幅が広かった。腕が太かった。老いた顔に刻まれた皺とは釣り合わない、異常に発達した肉体だった。体のあちこちにXの細胞が浮き出ていた。皮膚の下で何かが動いていた。脈打っていた。


「やれやれ、相変わらずでかいねぇ」


陽太達は声のする方に振り向いた。「慧!どうやってここに?」


慧はニヤリと笑い「朱雀だよ、アイツの使いのワームが来てね…危うく切り倒しそうになったけどね。」


「ゴメンね、アイツとはちょっとした因縁があってさ」廻を睨みつけた。


「久しぶりだな、慧」廻が言った。重い声だった。感情がなかった。ただ事実を述べるような声だった。「お前が来ること知っていたよ。」


「そうかい…」慧が肩をすくめた。「こっちはあんまり来たくなかったけどねぇ」


 廻が動いた。


 重かった。


 拳が来た。廻の拳だった。老人の拳とは思えない速さと重さだった。Xの細胞が筋肉に混ざっていた。人の限界を超えた力だった。


 慧が流した。


 拳の軌道を変えた。力をそのまま受けるのではなく、流れに乗せて、外へ逃がした。廻の力がそのまま返っていった。廻が態勢を崩した。


 慧が踏み込んだ。月影流の斬撃が廻を捉えた。確かに入った。


 廻が再生した。


 傷が塞がった。皮膚が戻った。何もなかったように、元に戻った。


 また動いた。また流した。また斬った。また再生した。


 キリがなかった。


 何度繰り返しただろう。


 廻が再生するたびに、慧の呼吸が少しずつ乱れていった。流し続けることにも体力が要る。斬り続けることにも消耗がある。廻はそれを知っていた。知っていて、再生し続けていた。


 消耗戦だった。


 慧が消耗する方が、先だった。



「あんた気持ち悪いねぇ……キリがない」慧が息を整えながら言った。飄々とした口調は変わらなかった。でも足が、少し重くなっていた。


「諦めるか」廻が言った。


「諦めないよ」慧が笑った。「そういう性分じゃないよ!」


 廻が次の攻撃を繰り出した。


 その時、慧の意識が揺れた。


 一瞬だった。


 Xの中から、何かが漏れ出してきた。気配だった。匂いだった。記憶だった。


 環の気配がした。


 慧の動きが、ほんの僅か、乱れた。


 廻の一撃が、その隙を捉えた。


 重かった。今までの攻撃とは違った。廻が全力を出していた。慧の体が吹き飛んだ。廃墟の壁に叩きつけられた。崩れた壁の瓦礫の中に沈んだ。


 静寂があった。


 慧が膝をついていた。


 立ち上がれなかった。膝と片手をついて、頭を下げていた。息が乱れていた。体が言うことを聞かなかった。


 廻が近づいてきた。


 その時だった。


 陽太の手にある紫電が、わずかに輝いた。


 瓦礫の中に落ちていた慧の刀が、かすかに光を帯びた。月影流の刀だった。大和から受け継いだ技術が宿った刀だった。その光が、静かに、でも確かに、輝いた。


 光の腕輪がかすかに輝く。


 結衣の腕輪が輝いた。その光が、何かを伝えるように瞬いた。


 慧の前に、二つの影が現れた。


 慧が顔を上げた。


 見た。しばらく、ただ見ていた。影を。二人の影を。見覚えのある影だった。背の高い男と、黒髪の女性だった。


 慧の目が細くなった。


 飄々とした表情が、少しだけ崩れた。照れくさそうな顔になった。それでも笑っていた。


「…わかってるよ…私のやり方では無理だって…」


 慧が言った。


 そっと手を伸ばした。大和の影の手を取った。ナノマシンが慧の体に浸透していった。大和のナノマシンが、慧の全身に広がっていった。


 慧の体が変わった。


 傷が癒えた。疲労が消えた。それだけではなかった。体の限界が、変わった。人として動ける速度の上限が、変わった。


 慧が立ち上がった。


 刀を拾った。


 廻を見た。


 ただ黙って構えた。


「…紫電…」


 ただそれだけ言った。


 見えなかった。紫色の稲妻を残した。


 そういう速度だった。人の目が追えない速度だった。廻が反応しようとした。反応できなかった。慧がいた場所に慧がいなかった。気づいた時には別の場所にいた。


 斬撃が走った。


 一撃だった。でも一撃ではなかった。無数だった。一つの動きの中に、無数の斬撃が折り畳まれていた。残像が重なって、慧が何人もいるように見えた。


 廻の体に、無数の傷が走った。


 再生しようとした。追いつかなかった。次の斬撃が来た。また追いつかなかった。また来た。また追いつかなかった。速度が再生能力を上回っていた。


 廻が倒れた。


 音がした。巨大な体が崩れる音がした。Xの細胞が散った。皮膚の下で動いていたものが、止まった。


 静寂が訪れた。


 慧が廻の前に立っていた。刀を持ったまま、静かに立っていた。


 廻が地に伏したまま、口を開いた。


「……やっと、終われる」


 かすかな声だった。でも確かにそこにあった声だった。


「ずっと……死ねなかった。再生し続けた。終われなかった。それが……一番苦しかった」



 廻の目から、何かが消えていった。Xの細胞が静かに散っていった。廻の体が、少しずつ小さくなっていった。老人の体に戻っていった。


 それだけ言って、廻は動かなくなった。


 穏やかな顔だった。



 慧が刀を下ろした。


 気の流れを確認しようとした。


 なかった。


 月影流の気が、慧から離れていた。体の中を流れていたものが、消えていた。刀を握っているのに、気を通す道が、もうなかった。


 慧は少しの間、刀を見ていた。


 それから、静かに鞘に納めた。




「……そう」慧が呟いた。「戦士としては、ここまでかねぇ…」




 空を見上げた。


 その時、遠くで雷が鳴った。


 雷が走った。でも普通の雷ではなかった。枝葉に分かれながら走った。大きな幹から細い枝へ、細い枝からさらに細い枝へ、分かれながら広がっていった。一番遠くまで届いていたのは、陽太たちがいる方向だった。


 慧のところで、雷が途切れた。


 慧が小さく笑った。



「……わかってるよ」




 もう一度言った。今度は空に向かって言った。


 風が吹いた。


 慧の白い上着が揺れた。髪が乱れた。廃墟の中に、静かに立っていた。戦士ではなくなった人間が、静かに立っていた。


 クラスナヤの中心部に近づくほど、根が増えた。

 最初は建物の壁に絡みついている程度だった。それが、道に這い始めた。それが、空に向かって伸び始めた。それが、気づいたら足の踏み場を選ばなければならないほど密になっていた。踏むたびに根が微かに動いた。生きていた。呼吸していた。

 匂いがあった。

 土の匂いでも、植物の匂いでもなかった。生き物が大量にいる場所の匂いだった。密度の高い、濃い匂いだった。

 中心部の広場に、それがあった。

 巨大だった。

 街規模だった。樹木の形をしていたが、樹木ではなかった。幹が建物より太かった。枝が空を埋めていた。根が街全体に張り巡らされていた。今まで見てきた根は、全部ここから来ていた。体の表面が黒く、ぬめっていた。呼吸しているように見えた。膨らんで、縮んで、膨らんで、縮んで。

 鎖が巻きついていた。

 何本も。太い鎖が、幹に何重にも巻きついていた。でもその鎖が、微かに緩んでいた。一本、また一本。緩み始めていた。


「……これが」陽太が呟いた。


 Xの肉体だった。




 陽太が一歩踏み出した。

 Xが反応した。

 鎖が鳴った。根が動いた。地面から新しいワームが湧き出した。でもそれだけではなかった。もっと別の何かがあった。陽太の体の内側に、何かが呼びかけてくる感覚があった。引っ張るような感覚だった。引き寄せるような感覚だった。

 陽太の中のXの遺伝子が、応えようとしていた。

 瞳が、変わった。

 金でも青でもなかった。赤だった。じわじわと、下から染まるように、赤に変わっていった。



 外気を吸収し始める。

 陽太の周囲の空気が動いた。吸い込まれるように、陽太に向かって流れた。生命エネルギーが引き寄せられ始めた。近くの根が萎れた。地面の草が褪せた。ワームたちが距離を取り始めた。

 陽太には見えていなかった。

 引き寄せられていた。Xの呼びかけが、言葉ではなく、体の奥に直接届いていた。来い、という感覚。一緒になれ、という感覚。お前はここから来たのだから、という感覚。

 自我が、揺らいでいた。


「陽太!」


 結衣が叫んだ。

 静界が広がった。陽太の周囲に、結衣の気が膜のように張られた。外気の流れが遮られた。Xの呼びかけが、薄くなった。

 陽太が足を止めた。

 まだ揺らいでいた。でも止まれた。

 その時、手の中に温かさを感じた。

 紫電だった。

 刀が温かかった。ハクがいた時と同じ温かさだった。いや、それより少し違う温かさだった。父の温かさだった。大和が握っていた刀の、その記憶が温かさとして残っているような感覚だった。

 陽太が紫電を見た。


「……ハク」


 小さく言った。

 光の腕輪が光った。

 Xの動きが、一瞬止まった。根が止まった。ワームが止まった。呼びかけが止まった。その一瞬で十分だった。

 陽太が顔を上げた。瞳がまだ赤かった。でも焦点が戻っていた。自分が自分であることが、確かめられた。


「……大丈夫だ」陽太が言った。


 結衣が静界を維持したまま、陽太を見た。まだ心配していた。でも陽太の目を見て、少しだけ肩の力を抜いた。


 その時、気配がした。

 上からだった。

 空から何かが降りてきた。エデンとJOKERの融合体だった。ミラージュで消えた方向から、ここへ来た。Xの肉体に向かって、真っ直ぐに。

 着地した瞬間、Xが揺れた。

 鎖が鳴った。一本が切れた。また一本。また一本。切れるたびにXが大きくなった。呼吸が速くなった。根が動き始めた。

 融合体がXの肉体に近づいていった。

 触れた。

 音がした。共鳴するような音だった。融合体とXが、溶け合い始めていた。エデンの輪郭が揺らいだ。JOKERの影が溶けた。Xの肉体が変容し始めた。幹が動いた。枝が折れた。形が変わり始めた。

 鎖が全部切れた。

 Xの変容が加速した。

 陽太が見ていた。赤い瞳で見ていた。紫電を握りしめながら見ていた。刀はまだ温かかった。



 Xの変容が、完了した。

 音があった。低く、深く、地面から来るような音だった。根が全部動いた。ワームが全部動いた。空が暗くなった。雲が集まった。クラスナヤ全体が、震えているような感覚があった。

 形が生まれた。

 人型だった。

 Xの肉体とエデンとJOKERが混ざり合って、人型になった。大きかった。建物より大きかった。でも輪郭は人だった。頭があって、腕があって、足があった。

 顔があった。

 陽太が見た瞬間、足が止まった。

 環だった。

 環に似た顔だった。夢の中で見た顔だった。映像の中で見た顔だった。薄暗い部屋で赤ちゃんに腕輪をつけていた顔だった。その顔が、巨大な完全体Xの顔として、そこにあった。

 陽太の手から力が抜けかけた。

 紫電が重くなった。構えられなかった。母の顔に向かって刃を向けることが、できなかった。



 完全体Xが動いた。

 根が陽太に向かって伸びた。

 蒼が動いた。結衣が動いた。二人が陽太の前に立った。

 氷界が広がった。根が凍った。砕けた。でも次の根が来た。静界が張られた。気の膜が根を弾いた。でも完全体の力は別格だった。膜が揺れた。蒼が踏ん張った。結衣が膜を維持し続けた。

 陽太は立っていた。

 でも動けなかった。

 母の顔が、向こうにあった。母の顔をした何かが、こちらを見ていた。その目に感情はなかった。ただ陽太を引き寄せようとしていた。取り込もうとしていた。


「陽太さん」結衣が根を弾きながら言った。「大丈夫だよ。ここにいるから」

 蒼が氷界を展開しながら言った。「……お前は前を向け。俺たちが守る」


 陽太は二人の背中を見ていた。

 守られていた。

 守られながら、動けなかった。それが、悔しかった。悔しいのに、動けなかった。母の顔に向かって紫電を向けることが、どうしても、できなかった。




 その時、紫電が温かくなった。

 急だった。さっきまでより、ずっと温かかった。手のひらから腕に、腕から肩に、肩から胸に、温かさが広がってきた。

 陽太が紫電を見た。


「……ハク」


 低く言った。

 月環が光った。結衣の腕輪が、静かに、でもはっきりと光った。

 結衣が腕輪を見た。


「……ツキ」


 静かに言った。

 言葉はなかった。返事はなかった。でも伝わった。

 伝わってきた。

 これは母さんじゃない。

 それだけだった。それだけで十分だった。

 陽太が顔を上げた。

 完全体Xを見た。環に似た顔を見た。でも今度は違った。母の顔ではなかった。母の顔をした何かだった。母がそこにいるわけではなかった。母は封印の中にいた。ずっと一人で、家族のことを想いながら、世界を守り続けていた。

 この顔に向かって動かないことが、母への敬意ではなかった。

 動くことが、敬意だった。




 陽太の瞳が変わった。

 金色が滲んだ。青が混ざった。赤が加わった。三つが混ざり合って、見たことのない色になった。夕焼けのような、夜明けのような、世界が生まれる瞬間のような色だった。


「……わかった」


 陽太が言った。

 紫電を構えた。




 光が陽太の前に来た。

 静かだった。戦闘の中で、静かに歩いてきた。蒼と結衣が作った隙間を、静かに通ってきた。

 腕輪を外した。

 小さな手で外した。その腕輪を、両手で持った。陽太に差し出した。


「……これが、私の役目だから、約束だから…」


 短かった。それだけだった。でも確かに、自分の言葉だった。

 陽太が受け取った。

 腕輪が陽太の手の中で光った。制御プログラムが、陽太の体に流れ込んだ。Xの細胞に呼びかける鍵が、陽太の中で目を覚ました。

 陽太が三系統を解放した。

 気の力が解放された。瞳の金色が濃くなった。超能力が解放された。青が混ざった。獣の遺伝が解放された。赤が加わった。三つが一つになった。全部が、一つになった。

 光が溢れた。




 完全体Xと、完全体の陽太が、向き合った。

 力がぶつかった。

 音がした。衝撃があった。根が吹き飛んだ。ワームが散った。地面が揺れた。空が揺れた。クラスナヤが、世界が、揺れた。

 陽太が踏み込んだ。

 制御プログラムがXの細胞に届いた。呼びかけた。命令ではなかった。説得でもなかった。ただ、繋がった。陽太の中にあるXの遺伝子と、Xの肉体が、同じ起源として繋がった。

 Xが揺れた。

 抵抗した。エデンが抵抗した。JOKERが抵抗した。でも陽太の力が、制御プログラムが、全部を上回った。

 根が止まった。

 ワームが止まった。

 動きが止まった。

 静寂が来た。

 Xが、制御された。


*


 世界が、静かになっていった。

 根が萎れ始めた。でも枯れるのではなかった。縮んでいった。収まっていった。街に絡みついていた根が、少しずつ、中心部へ戻り始めた。ワームが消え始めた。消えるのではなかった。土に還っていった。

 空が明るくなった。

 雲が薄くなった。光が差し込んできた。クラスナヤに初めて、まともな太陽の光が当たった。廃墟の壁が光を受けた。雪が光を反射した。

 世界の生命エネルギーが、安定し始めていた。


*


 光が差した。

 完全体Xの内側から、光が差した。

 形が変わった。巨大な人型が、縮み始めた。輪郭が揺らいだ。エデンの気配が消えた。JOKERの影が消えた。Xの力が安定していった。

 その中から、人が現れた。

 一瞬だけだった。

 環だった。

 等身大だった。光の中に立っていた。笑顔だった。笑顔と涙が混ざった表情だった。映像の中で見た顔そのままだった。夢の中で見た顔そのままだった。

 環が蒼を見た。


「我慢しなくてもいいんだよ」


 蒼が目を細めた。何も言えなかった。唇を結んだ。それだけだった。でもその目が、少しだけ揺れた。

 環が結衣を見た。


「泣いてもいいんだよ」


 結衣の目から涙が溢れた。止まらなかった。止めようとしなかった。泣きながら、環を見ていた。環を、ちゃんと見ていた。

 環が光を見た。


「甘えていいんだよ」


 光が小さく頷いた。何も言わなかった。でも頷いた。それが全てだった。

 環が陽太を見た。

 最後に。

 一番最後に。


「大丈夫」


 それだけ言った。

 笑った。笑顔と涙が混ざった表情で、笑った。

 見たことのない顔だった。でも知っていた。ずっと夢の中で見てきた輪郭が、今初めて、完全な形で目の前にあった。

 陽太は何も言えなかった。

 言葉が出なかった。出そうとしなかった。ただ見ていた。母を。ちゃんと目を開けて、見ていた。

 環が消えた。

 光の中に溶けていった。笑顔のまま消えていった。

 光だけが残った。温かい光だけが残った。


*


 誰も動かなかった。

 しばらくの間、誰も動かなかった。

 風が吹いた。

 クラスナヤの廃墟に、静かな風が吹いた。雪が舞った。根が収まった場所に、土が見えた。土の中から、小さな芽が出ていた。一つ、また一つ、小さな芽が出ていた。

 世界が、動き始めていた。





── 第三章 登場人物・用語解説 ──

登場人物

月影 陽太

三系統を統合した完全体として全ての力を凌駕した。

月影 蒼

青龍戦で「楽しいじゃないか」と初めて感情を口にした。蒼雷絶界の本来の姿が解放された。

月影 結衣

玄武との語り合いで殻を破った。

月影 光

Xの制御キーを陽太に渡した。言葉が少しずつ増えた。

月影 慧

廻を倒した。「…紫電…」という最後の一撃で月影流を失った。戦士としての慧が終わる。

月影 環

制御の瞬間に一瞬だけ現れた。子供たちに「許し」の言葉を残して消えた。

廻

「……やっと、終われる」。不死を求めたが死ねないことが一番の苦しみだった。慧に倒されて解放された。

朱雀

白虎を倒した後に退場。ワームの王として世界を旅していく。



用語

クラスナヤ

Xの肉体があった場所。廻が統治していた。Xの制御後、世界の生命エネルギーが安定し始めた。

完全体X

エデン+JOKERがXの肉体と統合した姿。環に似た姿をとった。陽太に制御された。

獣の遺伝

陽太の第三系統。Xの遺伝子を受け継いで生まれたことで持つ能力。外気を吸収し生命エネルギーに変換する。陽太の瞳が赤色になる。

制御キー

光の腕輪に収められていたXを制御するプログラム。光が陽太に渡した。

環の言葉

蒼「我慢しなくてもいいんだよ」結衣「泣いてもいいんだよ」光「甘えていいんだよ」陽太「大丈夫」



技(第三章初登場)

蒼雷絶界・解放(蒼)

感情を認めた瞬間に解放された本来の姿。今まで使っていたものより遥かに広い領域。

不死鳥(朱雀)

炎の中から再生する朱雀の本質。朱雀の最大の技。

紫電(慧)

大和のナノマシンを吸収して発動。人の領域を超えた速度での無数の斬撃。代償として月影流が使えなくなる。

獣の遺伝(陽太)

外気を吸収し生命エネルギーに変換する。陽太の瞳が赤色になる。



── 第三章 了 ──

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