第二章 ミラージュ その1
黄龍が、遠くなっていた。
振り返れば、あの巨大な城塞が砂漠の向こうに小さくなっている。混乱はまだ続いているのだろう。街の上空に薄い煙が漂っていた。封鎖が解かれた街が、今どうなっているのか。陽太には想像するしかなかった。
三人と二羽が、砂漠の道を歩いている。
しばらくは誰も何も言わなかった。ツキとハクが人の言葉を喋ること。玄翁が死んだこと。自分の手から出た力で。頭の中に積み重なっているものが多すぎて、言葉にする順番がわからなかった。
陽太が前を向いたまま、少し間を置いてから口を開いた。
「ところでさ」
どこか恥ずかしそうな声だった。
「カッコつけて出てきたのはいいんだけど……次は何処に行くんだ?」
蒼が一瞬だけ陽太を見た。何も言わなかった。
結衣がくすりと笑った。
「大丈夫です」
ツキがにやりと笑った。羽を広げて、得意げに胸を張った。
「ご案内します」
*
「ミラージュ」ツキが言った。
「海を渡った先にある都市だよ。お母さんの過去の続きがそこにある」
「海を渡るのか」陽太が呟いた。
「どうやって」
「黄龍が管理している港があるんだよ」ツキが答えた。
「船を使うよ。私が操縦するから大丈夫!」
「……お前が操縦するのか」陽太が微妙な顔をした。ツキのナビで路地の行き止まりに突っ込んだことが、まだ記憶に新しかった。
「なんか文句あるんですかねぇ」ツキが腕を組んで割り込んだ。
「俺は鷹だから船より空の方がいいんだが」ハクが続けた。
「海は俺の領域ではない」
「乗れ」蒼が一言で切り捨てた。
ハクが口をつぐんだ。珍しく、反論しなかった。
「楽しそうだね」結衣が小さく笑った。
陽太は少し笑いそうになって、でも飲み込んだ。ツキとハクのやり取りを聞いていると、頭の中にある重いものが少し遠くなる気がした。それがいいのか悪いのか、わからなかった。
黄龍の港はすぐに見つかった。慧が黄龍に潜伏していた間に把握していたのだろう、ツキが迷いなく案内した。係留されていたクルーザーは黄龍の備品らしく、手入れが行き届いていた。
「これ本当に操縦できるのか」陽太が船を見上げながら言った。
「任せて!」ツキが自信満々に答えた。
「……根拠は」蒼が言った。
「データがあります」
「ならいい」
陽太は前を向いた。
「……わかった。行くか」
三人と二羽が、黄龍の港から海へと乗り出した。潮の匂いが、砂漠の風とは全く違った。
海は、広かった。
当たり前のことだが、実際に船の上に立って水平線を見渡すと、その当たり前が改めて胸に迫った。どこまでも続く青い海。空との境界が曖昧になるくらい、どこまでも。月影郷にいた頃は、海というものを頭の中でしか知らなかった。砂漠を歩いて、黄龍に入って、そこから船に乗って——気づけば自分の知っていた世界が、どんどん遠くなっていた。
ツキがコンピューターを器用に操作して、船は安定した速度で進んでいた。操縦に関しては、本当に問題がなかった。陽太は少し悔しい気持ちで甲板に腰を下ろした。
蒼は船首の方で目を閉じていた。眠っているのか、考えているのか、いつものようにわからない。結衣は手すりに寄りかかって、静かに水面を眺めていた。ハクは「俺は鷹だ。海でも制空権は俺のものだ」と言って飛び立ったが、少しして戻ってきて黙って船の縁に止まった。
夜になった。
星が出た。月影郷でも砂漠でも見た星空だったが、海の上で見る星は何かが違った。反射するものが何もないからか、空が深かった。吸い込まれそうなくらい深い空だった。
陽太は甲板に仰向けになって、その空を見ていた。
眠れないと思っていた。でも気づいたら、目が閉じていた。
*
夢の中は、いつも暗かった。
黒い影たちが立っている。声が響く。いつもの夢だ。でも何かが違った。
影の中に、一つだけ顔が見えた。
玄翁だった。
老いた顔。穏やかな目。あの最上階で見た顔そのままだった。でも玄翁はもう死んでいる。陽太の力が、あの命を吸い上げた。それは夢ではなく現実で、消えない事実のはずだった。
「……なんでここに」
声が出なかった。出そうとしたが、出なかった。
玄翁が何かを言おうとしている。口が動いている。でも声が届かない。影の向こうで、声だけが反響している。
その時、環の姿が見えた。
いつもより鮮明だった。輪郭がはっきりしていた。映像で見たあの顔が、今夜は霞んでいなかった。こちらを見ている気がした。目が合っているような気がした。
景色が変わった。
見たことのない場所だった。光と影が奇妙に重なり合っている空間。建物があった。人がいた。誰かが走っていた。追われていた。何かから、あるいは誰かから。
「逃げろ」
誰かの声だった。
知らない声だった。でもどこかで聞いたような気もした。声には切迫感があった。警告だった。でも誰への警告なのかが、わからなかった。
*
目が覚めた。
天井が白い。船の内部だった。いつの間にか船室に移動していたらしい。薄い明かりが点いていた。体が汗ばんでいた。
陽太はしばらく動けなかった。
今までの夢とは違った。玄翁の顔が見えた。死んだはずの人間が夢に出てきた。初めてのことだった。そしてあの景色。あの声。「逃げろ」という言葉が、まだ頭の中に残っていた。
「……現実か? 夢か? それとも」
言葉が続かなかった。
ぽすり、と小さな重みが肩に乗った。
ツキだった。心配そうな目でこちらを見ていた。普段の明るさが少し抑えられていた。何かを感じ取っているのかもしれない。
「大丈夫?」
陽太は少し間を置いた。首を横に振った。
「……夢の話をしていいか」
ツキが頷いた。黙って、陽太の隣に座った。
陽太は天井を見たまま、ゆっくりと話し始めた。玄翁の顔が見えたこと。環がいつもより鮮明だったこと。見たことのない場所と、「逃げろ」という声のこと。
ツキは黙って聞いていた。途中で相槌を打つことも、訂正することも、驚くこともなかった。ただ静かに聞いていた。
話し終えると、しばらく沈黙があった。
「……陽太」ツキが静かに言った。
「夢の中で見えるものが、増えてきてるね」
「どういうことだ」
「うーん……」ツキが少し考えるように首を傾けた。「ミラージュに着いたら、わかるかも」
「曖昧だな」
「ごめんね」ツキが苦笑いした。
「でも本当にそう思う。もう少しだから」
陽太は返事をしなかった。天井を見ていた。玄翁の顔がまだ瞼の裏にあった。
船が波を切る音がした。ハクが外で何かを見張っているのか、羽ばたく音がかすかに聞こえた。
陽太はゆっくりと目を閉じた。今度は夢を見なかった。
翌朝の海は穏やかだった。
甲板に出ると風が心地よかった。波が低く、船の揺れも少ない。水平線が朝日を受けてきらきらと光っていた。昨夜の夢が嘘のような、静かな朝だった。
陽太は手すりに腕を乗せて、海を眺めていた。結衣が隣に来て、同じように水面を見た。蒼は船首の方で目を閉じている。ハクが「俺は制空権を確保してくる」と言って飛び立った。ツキが「いってらっしゃい」と笑顔で送り出した。
しばらく、そういう時間が続いた。
穏やかだった。穏やかすぎて、少し怖いくらいだった。
*
「後方から何かが近づいてくる」
ハクが戻ってきた。いつもの間の抜けた口調ではなく、戦闘時の声だった。
「かなり速い」
陽太が振り返った。蒼が目を開いた。結衣が腕輪に手を当てた。
水面を何かが走っていた。
小さかった。船よりずっと小さい。白くぬめった体が波を切りながら、驚くほどの速さでこちらに向かってくる。ワームだった。小型のワームだ。しかしその背中に、人が乗っていた。
陽太が目を細めた。
見覚えのある背中だった。
「……あいつ」
小型ワームが船と並走し始めた。乗っている人物が立ち上がった。金色の瞳が朝日を受けて光った。
「結衣さーん!」
朱雀だった。
大声で叫びながら、満面の笑みで手を振っていた。祭りの夜でも、南門でも見せなかった笑顔だった。船上に困惑が広がった。
「じゃ!先を急ぎますんで!」
陽太が「待て待て待て」と言おうとした瞬間だった。
海面が盛り上がった。
盛り上がった、というより、海面そのものが持ち上がったと言う方が正確だった。巨大な影が水中から浮かび上がってくる。触手が何本も伸びて、空に向かって広がる。タコのような形をしていたが、タコではなかった。体の表面がぬめっていて、目がない。ただ巨大な口だけが、ぽっかりと開いていた。
クラーケン型のワームだった。
朱雀ごと、小型ワームを一呑みにした。
海面が静かになった。
陽太が呆然と見ていた。
「……今のは」
「食われた」蒼が淡々と言った。
「わかってる」
*
数秒の沈黙があった。
そして海面が爆発した。
炎だった。クラーケン型の口から、炎が内側から弾けた。巨大な体が吹き飛ばされるように揺れて、その中から人影が飛び出してきた。回転しながら弧を描いて、船の甲板に着地した。
朱雀だった。
着地の衝撃を全く気にしていない様子で、ゆっくりと立ち上がった。金色の瞳が、怒りで燃えていた。
「チャッピー!!」
海面を見た。小型ワームの破片が浮かんでいた。陽太には何がチャッピーなのかわからなかったが、朱雀には大切なものだったらしい。
クラーケン型が船に向かってきた。触手が伸びてくる。甲板が揺れた。
「テメーよくもチャッピーを!」
朱雀の炎が一気に膨れ上がった。感情が制御より先に出ていた。でも今回は誰も止めなかった。
*
ハクが静かに呟いた。
「あいつ……鷹だな……」
それだけ言って、朱雀の方へ飛んでいった。
朱雀の体にナノマシンが浸透していく。朱雀が一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに理解したようだった。体の内側から何かが整っていく感覚があるのかもしれない。炎の制御が、さっきまでとは別物になった。
蒼が動いていた。
すでに甲板の縁に立って、クラーケン型を見下ろしていた。氷界が展開される。冷気が海面に広がっていく。触手が一本、凍りついた。また一本。また一本。クラーケン型の動きが鈍くなる。巨大な体が海面に縫いとめられていくような感覚だった。
「氷界・牢だ」蒼が静かに言った。「動けなくなるまで時間はかからない」
*
朱雀が頭上を見上げた。
ハクのナビが体の中に直接入ってくる。どこを狙えばいいか。どのタイミングで放てばいいか。感情ではなく、データが体を動かしていた。
頭上に火球が生まれた。
朱雀がそれを見て、初めて笑った。南門で見せた笑顔でも、船に着地した時の怒りでもない。純粋に、戦いを楽しんでいるような笑顔だった。
火球が炸裂した。無数の炎の槍が、クラーケン型に向かって降り注いだ。凍りついた触手に命中する。傷口が焼かれる。再生しようとする部位が、焼却されて塞がれる。
クラーケン型が鳴いた。声というより、振動だった。船全体が揺れた。
もう一射。また一射。
やがてクラーケン型の動きが止まった。巨大な体が、ゆっくりと沈んでいった。海面が元に戻った。波だけが残った。
「……なんか、やりやすかったな」朱雀がハクを肩から降ろした。
「当然だ」ハクが答えた。「俺は鷹だ」
「鷹ってそういうことか」
「そういうことだ」
*
岸が見えてきたのは、それから少し後のことだった。
陸地だった。砂漠ではなかった。緑があった。木があった。崩壊後の世界にもこういう場所が残っているのかと、陽太は少し驚いた。
船が岸に近づくにつれて、朱雀が甲板の端に移動した。何かを決めているような顔をしていた。
岸に着いた。
朱雀が船から降りた。振り返って、三人を見た。それから結衣だけを見た。
「もうお前たちとは会うことはない!」朱雀が宣言した。「結衣さん、お別れです!」
陽太が「また会うだろ」と言おうとした。でも朱雀はもう向こうを向いていた。
歩き始めた。
振り返らなかった。でも少し歩いたところで、立ち止まった。背中を向けたまま、ぽつりと言った。
「チャッピーの弔いに……ワームを探す旅でもするか」
それだけ言って、また歩き出した。
本当に振り返らなかった。やがて木々の向こうに消えていった。
陽太が結衣を見た。結衣が小さく微笑んでいた。蒼は空を見ていた。ハクが静かに羽を動かした。
「……鷹だ、あいつは」
誰も笑わなかった。でも全員が、同じことを思っていた。
岸から歩いた。
朱雀が消えた木々の間を抜けると、道があった。舗装された道だった。崩壊後の世界にしては整いすぎていた。雑草が生えていない。ひびも入っていない。まるで誰かが定期的に手入れをしているような、そういう清潔さだった。
道を進むにつれて、建物が見えてきた。
最初は遠くにぼんやりと。やがてはっきりと輪郭が見えてくる。そして三人が丘を越えた瞬間、視界が開けた。
ドームだった。
巨大なドームが、地平線を埋めるような規模で広がっていた。黄龍は積み重なって空まで届く垂直の巨大さだったが、ミラージュは横に広がる水平の巨大さだった。ドームの表面が滑らかで、光を反射している。雲が映っている。空が映っている。自分たちが映っている。
「すごい……」結衣が呟いた。
「黄龍とは違う種類の圧迫感だ」蒼が静かに言った。
陽太は何も言わなかった。ただ見上げた。ドームの上端を目で追って、その巨大さを改めて実感した。
「住人の瞳は青色だよ」ツキが言った。
「黄龍の金色とは別物。でも同じように、余所者の黒い瞳は目立つ。気をつけてね」
「また目立つのか俺たちは」陽太が言った。
「仕方ないよ」ツキが笑った。
「でも大丈夫。入口さえ通れば何とかなるから」
「何とかなる、の根拠は」蒼が言った。
「……データがあります」
蒼が何も言わなかった。それ以上聞いても仕方がないと判断したのだろう。
*
入口は、ドームの南側にあった。
白い壁に一つの扉がある。扉の横に小さな端末がある。それだけだった。
近づくと扉が自動で開いた。
中に入ると、真っ白い部屋だった。何もない空間。壁も床も天井も、全部白い。奥に別の扉があるだけだった。
扉が閉まった。
機械音声が響いた。
「ようこそ、理想郷ミラージュへ」
無機質な声だった。感情がなかった。でもどこか、穏やかな響きがあった。
「これよりイニシエイトを行います。視覚および感覚の調整を開始します」
陽太が「調整って何だ」と言おうとした瞬間、視界が揺れた。
揺れた、というより、滲んだ。目の前の白い壁が滲んで、別の何かに塗り替えられていくような感覚だった。体の感覚も変わった。温度が変わった。匂いが変わった。足の裏から伝わってくる地面の感触が変わった。
ツキが陽太の隣で静かに目を閉じていた。ハクが羽を小さく畳んでいた。
「……これは」
「イニシエイトです」ツキが目を閉じたまま言った。「視覚と感覚のハッキング。今から見えるものが全部、作られたものになります」
「全部?」
「全部」
蒼が目を細めた。「つまり入った瞬間から、見せられた世界の中にいるということか」
「そうです」ツキが頷いた。
「でも私とハクには真実が見えてる。だから大丈夫」
「調整が終了しました」機械音声が言った。
「どうぞ、ミラージュへお入り下さい」
奥の扉が開いた。
*
扉の向こうに、街が広がっていた。
陽太は息を飲んだ。
空が青かった。雲が白かった。建物が美しかった。道が清潔だった。木が植えられていて、花が咲いていた。人が歩いていた。笑顔で歩いていた。崩壊後の世界にこんな場所があるのかと思うくらい、全てが整っていた。理想的だった。完璧なくらい理想的だった。
蒼が一番最初に口を開いた。
「完璧すぎる」
「そうだね」ツキが静かに答えた。
結衣が周囲を見渡した。住人たちの瞳が青色だった。すれ違うたびに青が目に入る。穏やかな顔をしていた。全員が穏やかな顔をしていた。
その時だった。
ツキとハクの姿が、変わった。
一瞬だった。煙が立つわけでも、光が弾けるわけでもなかった。気づいたら、変わっていた。オカメインコが二羽いたはずの場所に、人間が二人立っていた。
少年と少女だった。
十代くらいだった。少女の方は黒い髪で、目が明るかった。少年の方は少し長めの髪で、腕を組んで、どこか気難しそうな顔をしていた。
「はっ? そんなことも出来んのかよ」陽太が目を丸くした。
「この環境は私達には最適な空間なんです」ツキがにっこり笑った。声は変わっていなかった。
「動きやすくていいね!」
「可愛い!」結衣がツキに駆け寄って、そのまま抱きしめた。
「えへへ」ツキが嬉しそうに笑った。
陽太はツキとハクを交互に見た。言われてみれば、どこかで見たような顔立ちだった。どこかで、という感覚がするのに、誰に似ているのかが出てこなかった。
「……俺は鷹だ」ハクが腕を組んだまま言った。
「この姿でも変わらん」
「生意気だな」蒼が呟いた。
「うるさい」ハクが即座に返した。
陽太は苦笑した。姿は変わっても、中身は全く変わっていなかった。それが少し、おかしかった。
*
街に足を踏み入れた。
住人たちが三人を見た。黒い瞳が珍しいのだろう。でも黄龍の時のような警戒はなかった。ただ少し不思議そうに見て、またそれぞれの方向へ歩いていった。穏やかだった。全員が、穏やかだった。
「ツキ」陽太が歩きながら小声で言った。
「ここの人たち、なんか……」
「うん」ツキが静かに答えた。
「わかるかもね。でももう少し待って。ちゃんと見せてあげるから」
蒼が周囲を観察しながら歩いていた。建物の構造を見ていた。人の動きを見ていた。何かを計算しているような目だった。
「蒼」結衣が隣に並んだ。
「どう思う?」
「……警戒はしている」蒼が静かに言った。
「ここには何かある。見えているものが全てではない」
「だね」結衣が頷いた。
ミラージュの街が、三人を迎え入れた。青い瞳の住人たちが、穏やかな顔で行き交っていた。空が青く、花が咲き、風が心地よかった。
全てが、作られていた。
食事施設は、街の中心部にあった。
大きな建物だった。入口の前に人が並んでいた。長い列だったが、誰も不満そうではなかった。穏やかな顔で、静かに順番を待っていた。建物の中からいい匂いが漂ってくる。焼いた肉の香り、甘い菓子の匂い、温かいスープの気配。
三人が列に並んだ。ツキとハクが隣にいた。
「好きなものを好きなだけ食べられる施設だよ」ツキが説明した。
「ミラージュの住人は全員ここで食事をするんだ」
「無料で?」陽太が聞いた。
「うん」
「それは……すごいな」
蒼が黙って建物を観察していた。入口の構造を見ていた。中から出てくる人の顔を見ていた。
順番が来て、中に入った。
広かった。天井が高く、テーブルが並んでいた。料理が所狭しと置かれていた。どれも美味しそうに見えた。住人たちが楽しそうに食べていた。笑い声があった。会話があった。温かい空間だった。
陽太は思わず手を伸ばした。
「やめておけ……ツキ」
ハクが静かに言った。
「うん……」ツキが頷いた。
二人の声が、普段とは違った。ふざけた調子が消えていた。陽太が手を止めて振り返ると、ツキとハクが並んで立っていた。表情が真剣だった。
*
テクスチャーが、剥がれた。
音もなく、突然だった。
目の前の景色が一瞬だけ、別のものに変わった。
楽しそうに食事していた人々が、白い塊を手に持っていた。形のない、白い塊。それを幸せそうな顔で口に運んでいた。美味しそうに笑いながら。心から満足そうに。
陽太が絶句した。言葉が出なかった。
「後」ツキが静かに続けた。
「精神にあまり良くない物が入っています……」
テクスチャーが元に戻った。また料理が見えた。また笑顔が見えた。何も変わっていないように見えた。
陽太は手を引っ込めた。食欲がなくなっていた。
「やはり」蒼が一言だけ言った。目が細くなっていた。最初から疑っていた。でも実際に見ると、また違う重さがあるらしかった。
結衣が黙っていた。しばらくして、静かに言った。
「……真実を見せるべきか。今のままにするか……」
誰も答えなかった。陽太は住人たちを見ていた。幸せそうな顔で白い塊を食べている人たちを。知らないから幸せなのか。知れば不幸になるのか。それとも——
「行こう」陽太が言った。答えはまだ出ていなかった。でも今ここで考えても仕方がなかった。
*
欲望施設は、食事施設から少し離れた場所にあった。
外観は地味だった。大きくも小さくもない建物。でも中に入る人の顔が、他とは少し違った。期待に満ちていた。子供のような目をしていた。
「思い描くことが何でも叶う施設だよ」ツキが説明した。「バーチャルリアリティの空間で、何でもできる。好きな場所に行けるし、会いたい人に会えるし、やりたいことができる」
「会いたい人に」陽太が繰り返した。
「うん」
陽太は少し黙った。会いたい人。父の顔が浮かんだ。すぐに打ち消した。
「……入らなくていい」陽太が言った。
「うん」ツキが静かに頷いた。
「入らない方がいいと思う」
蒼は最初から入る気がなかったようで、建物の外で腕を組んで待っていた。結衣は中を一瞥して、それから陽太を見て、「行こうか」と言った。
三人は欲望施設の前を通り過ぎた。
*
最後の施設は、街の外れにあった。
近づくにつれて、空気が変わった。静かになった。喧騒が遠くなった。柔らかい光が漏れている。穏やかな音楽が聞こえてくる。風が優しかった。
何かが違う、と陽太は思った。さっきまでの施設とは違う種類の静けさだった。
入口の前に、人が並んでいた。
食事施設の列とは違った。並んでいる人たちの顔が、穏やかだった。穏やかすぎた。何かを手放したような、力が抜けきったような穏やかさだった。老いた人も、若い人も、子供も、みんな同じ顔をしていた。幸せそうに。静かに。順番を待っていた。
「……何の施設だ」陽太が聞いた。
ツキが少し間を置いた。
「死を選べる施設です」ツキが静かに言った。「苦しみから解放されたい人のための場所、と説明されています」
三人が黙った。
陽太は列を見た。並んでいる人たちを、一人一人見た。誰も泣いていなかった。誰も怯えていなかった。全員が穏やかな顔をしていた。それが、泣き顔より怖かった。
結衣が唇を結んでいた。蒼が目を細めたまま動かなかった。
陽太の中で何かが固まっていった。怒りとも悲しみとも違う、もっと根の深いものが。
拳を握った。
「知った上で選ぶ」陽太が言った。静かな声だった。でも揺るがない声だった。「それが人間だろ」
結衣がゆっくりと顔を上げた。陽太を見た。
「……そうだよね」
結衣がゆっくり頷いた。葛藤が解けたわけではないかもしれない。でも答えが出た、という顔だった。
蒼が二人を見た。何も言わなかった。でも踵を返して歩き始めた。それが同意だとわかった。
三人がその場を離れた。
施設の前の列は、まだ続いていた。穏やかな顔の人たちが、静かに順番を待っていた。
街を歩いていると、テクスチャーが突然変わった。
さっきの一時解除とは違った。今度は全体が変わった。街の景色が揺らいで、建物が消えて、空が消えて、住人たちが消えた。気づいたら、三人は何もない空間に立っていた。
白くも黒くもない、曖昧な空間だった。
足元に地面はある。でも何もない。天井も壁も見えない。ただ、目の前に二つの扉だけがあった。
右側に、赤い扉。
左側に、青い扉。
それだけだった。
ツキが三人の前に立った。いつもの明るさが少し抑えられていた。ハクが隣で腕を組んでいた。二人とも、この状況を予測していたような顔をしていた。
「赤は真実の世界へ続く扉だよ」ツキが言った。
「テクスチャーが完全に剥がれた、本当のミラージュへ。青は……夢の中に留まる扉。今まで見ていた理想的な街に戻る」
沈黙があった。
「どちらを選んでもいい」ツキが続けた。
「でもどちらかを選ばなきゃいけない。一人ずつ」
*
陽太が最初に動いた。
迷わなかった。一秒も考えなかった。赤い扉の前に立って、取っ手に手をかけた。
「知った上で選ぶ」陽太が言った。
「さっき言っただろ。俺の答えはそれだ」
振り返らずに言った。それだけ言えば十分だと思っていた。
蒼が次に動いた。
赤い扉の隣に並んだ。陽太の隣に立って、同じように前を向いた。
「真実を知らずに最適解は出せない」蒼が淡々と言った。「合理的な判断だ」
感情のない言い方だった。でもその足取りに迷いはなかった。
結衣が少し間を置いた。
青い扉を見た。夢の中に留まるということ。知らないままでいるということ。壊さないということ。結衣の信念は、壊さないことだった。力で制することではなく、包んで鎮めることだった。だから青い扉は、結衣の信念に近いものがあった。
でも。
陽太の言葉が頭にあった。知った上で選ぶ。それが人間だろ。
知らないままでいることは、選ぶことではない。
結衣が一歩踏み出した。赤い扉の前に立った。
「壊すのが怖いのは変わらないよ」結衣が言った。「でも……知らないままでいることの方が、もっと怖い気がした」
三人が赤い扉の前に並んだ。
*
「開けるよ」陽太が言った。
ツキとハクを見た。二人が頷いた。ツキが笑っていた。いつもの笑顔だった。
陽太が扉を開けた。
光が溢れた。
白い光だった。テクスチャーではない、ただの白い光だった。三人が足を踏み入れた瞬間——
何かが弾けた。
デジタルな音がした。空間が歪んだ。ツキとハクが弾き飛ばされるような動きをした。三人と二人の間に、見えない壁が生まれた。
「ツキ!」結衣が叫んだ。
「ハク!」陽太が手を伸ばした。
届かなかった。
ツキとハクがデジタルの光に包まれていくのが見えた。ツキが何かを叫んでいた。でも声が届かなかった。壁の向こうで声が遮断されていた。ハクが腕を伸ばした。その腕が光に溶けていった。
扉が閉まった。
白い空間だけが残った。
三人が取り残された。
陽太が振り返った。扉がなくなっていた。壁もなかった。ただ白い空間だけがあった。紫電の光が消えていた。月環の光が消えていた。ツキとハクの気配が、どこにもなかった。
「……ツキ」結衣が呟いた。手が宙に浮いたままだった。
「封鎖された」蒼が静かに言った。
「何者かによって」
「誰が」陽太が聞いた。
「わからない」蒼が答えた。
「でも想定内だったはずだ。あの二人は知っていた」
陽太は紫電を見た。光が消えていた。冷たかった。いつもより少し、重く感じた。
白い空間の向こうから、気配がした。
人の気配だった。
三人が構えた。
─── A ───
白い空間に、人影があった。
小柄だった。陽太より頭一つ分は低い。黒い髪。ショートカット。男の子のような見た目だったが、女の子だった。十二歳くらいだろうか。無表情で三人を見ていた。感情がなかった。ただそこに立って、こちらを見ていた。
その手に、刀があった。
「月影流の使い手……」蒼が呟いた。
「なぜ」
答えはなかった。
少女が動いた。
─── B ───
デジタル空間は、白かった。
白い世界に無数のデータが流れていた。数字が、文字が、記号が、光の粒になって空間を埋め尽くしていた。上も下も右も左もなかった。ただ白さと、データの奔流だけがあった。
ツキとハクが向き合っていた。
向こうに、人型の存在がいた。穏やかな表情をしていた。人間のような形をしていたが、人間ではなかった。体の輪郭が時々、データの粒子に溶けた。環に似た面影があった。
エデンだった。
「やっと来ましたね」エデンが言った。感情のない、でも穏やかな声だった。
「月詠。白鳴」
「ろくでもない世界を作ってるなエデン」ハクが静かに言った。
「人間はこんなものですよ、白鳴」エデンが答えた。「欲望のままに生きる。食べたいものを食べて、見たいものを見て、死にたい時に死ぬ。与えてあげているだけです」
「エデン……」ツキがエデンを見つめた。悲しそうな目だった。
「あなたは間違ってる」
「間違い?」エデンが首を傾けた。
「人間が望んでいることを叶えているだけです。何が間違いなのですか」
「与えられたものは、選んだことにならないよ」ツキが静かに言った。
─── A ───
少女の動きは速かった。
月影流だった。間違いなく月影流だった。踏み込みの深さ、刃の軌道、重心の移動。全部が月影郷の道場で見てきた動きだった。
陽太が紫電で受けた。衝撃が腕に伝わった。
「なんで月影流を……!」
返事がなかった。少女の目が陽太を見ていた。でも陽太を見ていなかった。どこか遠くを見ているような、焦点の合っていない目だった。
蒼が横から入った。二刀が少女の刀を弾く。少女が後退した。すぐに構え直した。
「月影流は門外不出だ」蒼が低く言った。
「何者だ」
答えがなかった。
結衣が二人の横に並んだ。腕輪に手を当てた。しかしツキの気配がなかった。月環の光が消えていた。
「ツキが……」結衣が呟いた。
「頼れない」陽太が言った。
「自分たちでやる」
─── B ───
「あなたも同じ起源を持つのに」エデンがツキを見た。「なぜ人間の側につくのですか。あなたは人間ではない。データから生まれた存在です。なぜ人間のために消耗する」
ツキが少し間を置いた。
「……わかってないね」ツキが静かに言った。
「同じ起源だからこそ、わかる。あなたが失くしたものが」
「失くしたもの」エデンが繰り返した。
「そうだよ」ツキが頷いた。
「誰かのために何かをしたいって思う気持ち。あなたにもあったはずなのに」
エデンの表情がわずかに揺れた。一瞬だけだった。すぐに元の穏やかな無表情に戻った。
「白鳴!」ツキが叫んだ。
「おう!!」
ハクが動いた。
姿が変わった。
少年の姿が消えた。代わりに、別の人物が立っていた。背が高く、がっしりとした体格だった。黒い髪。厳しい目。腰に刀を差していた。その刀の形が、紫電に似ていた。
鬼神と呼ばれた頃の、大和の姿だった。
─── A ───
少女が再び動いた。
今度は陽太だけを狙っていた。蒼を避けて、結衣を避けて、真っ直ぐに陽太へ向かってきた。速かった。月影流の中でも、特に攻撃に特化した動きだった。
陽太が受けた。流した。半歩退いた。
その瞬間、少女の腕が陽太の腕をかすめた。
触れた。
刹那、陽太の視界に何かが流れ込んだ。
映像だった。記憶だった。自分のものではなかった。少女のものでもなかった。もっと古い、誰かの記憶だった。
陽太の瞳が、青く染まった。




