一章 黄龍 その2
部屋は、静かだった。
広かった。黄龍の最上階にあるとは思えないほど、余白の多い部屋だった。窓が大きく、黄龍の街全体が見下ろせた。積み重なった建物の屋根が遠くまで続いて、その向こうに砂漠が広がっている。夕暮れが近かった。空が橙色に染まり始めていた。
部屋の中央に、人が一人座っていた。
老人だった。
痩せ細った体。質素な和装。膝の上に手を置いて、背筋を伸ばして座っている。顔に皺が深く刻まれていたが、表情は穏やかだった。怒っていない。焦っていない。三人が扉を開けて入ってきたことを、最初からわかっていたような顔をしていた。
その目だけが、異様だった。
澄みすぎていた。感情がなかった。穏やかな表情の奥に、人間のものとは思えない静けさがあった。
「来るとは思っていたよ」
老人が口を開いた。穏やかな声だった。「お前たちの母親の事が知りたいのだろう?」
陽太が一歩踏み出した。
「母はどこにいる」
玄翁が陽太を見た。まるで子供を見るような目だった。
「もう会えないよ」
感情がなかった。冷たいわけでもなかった。ただ、事実を告げる目だった。
「お前の母親は自ら望んでXの封印になった。それが最も効率的な選択だったからだ」
部屋の空気が変わった。
陽太の表情が固まった。
*
戦いが始まった。
陽太が先に動いた。追風で地を蹴る。間合いを一気に詰める。紫電・閃を発動した瞬間、体の動きが止まった。
止まった。
意思があるのに、体が動かなかった。まるで体の内側から何かに押さえつけられるような感覚だった。気が乱れている。力が出ようとして、出口を塞がれている。
「力は感情から生まれる」玄翁が静かに立ち上がった。「感情を制御すれば、力は出ない。それだけのことだよ」
玄翁の手が静かに動いた。
陽太が弾き飛ばされた。壁に叩きつけられて、床に落ちた。痛みがあった。でもそれより、力が出ないことの方が怖かった。体の中が空洞になったような感覚。紫電を握っているのに、何もできない。
蒼が氷界を展開しようとした。広がりかけた冷気が、途中で霧散した。「……っ」蒼が膝をついた。感情を排除した蒼でさえ、気が乱れていた。
結衣が和命を使おうとした。腕輪が光りかけて、消えた。「駄目……出てこない」
玄翁が三人を見渡した。穏やかに、静かに。
「安心しなさい、もう苦しまない」
*
玄翁の攻撃が結衣を捉えたのは、その瞬間だった。
音もなかった。結衣が声を上げる間もなかった。ただ、結衣の体がゆっくりと傾いて、床に倒れた。
「結衣!」
陽太が駆け寄った。結衣の体を抱き起こす。顔色が白かった。呼吸が浅かった。腕輪の光が消えていた。ツキの気配が感じられなかった。
「結衣、結衣!」
返事がなかった。
陽太の中で、何かが崩れた。
音もなく、静かに、でも確実に崩れた。父が死んだ夜から、ずっと抑えていた何かだった。砂漠を歩きながら、黄龍に入りながら、修行しながら、朱雀と戦いながら、ずっとどこかに押し込めていたものだった。
「お前らは……」
声が出た。自分の声が遠く聞こえた。
「お前らは……俺から大事な人を奪っていくんだ!」
*
気が動いた。
陽太には何も見えていなかった。ただ、体の外に何かが溢れ出していくのがわかった。あの夜と同じだった。いや、あの夜より大きかった。制御できなかった。しようとする前に、もう出ていた。
周囲の空気が渦を巻いた。
石畳が震えた。窓ガラスが軋んだ。部屋の中の気が、全て陽太の方へ吸い寄せられていくような感覚があった。外の景色が霞んでいく。陽太の瞳が金色に染まった。その金色が、じわじわと濃くなっていった。
玄翁が初めて動きを止めた。
「……これが」
陽太は気づかないまま、結衣に手を伸ばしていた。
手が結衣の肩に触れた瞬間、何かが流れた。陽太の中から、結衣へ向かって、温かいものが流れていった。陽太自身の生命力が、結衣に流れ込んでいく。陽太の顔色が白くなっていく。でも止まらなかった。止め方がわからなかった。
結衣の顔色が、少しずつ戻り始めた。
「……あ」ツキの声がした。腕輪が薄く光り始めた。「陽太……」
でも暴走は止まらなかった。
陽太の周囲から生命エネルギーが吸い上げられていく。部屋の隅の植物が枯れた。壁の苔が褪せた。そして——玄翁の体から、力が抜け始めた。
玄翁が膝をついた。
「これが……完全体の力か……」玄翁が呟いた。穏やかな声のままだった。
「感情は……制御できない……」
玄翁が床に手をついた。体が傾いていく。その目が、最後まで澄んだままだった。怒りもなく、恐れもなく、ただ静かに。
「自由は……人を壊す……」
玄翁が倒れた。
動かなくなった。
*
「陽太! 駄目!」
結衣の声だった。
意識が戻ってきた声だった。必死な声だった。
陽太がはっとした。
金色が、ゆっくりと黒に戻っていく。周囲に渦を巻いていた気が、霧散していく。体が急激に重くなった。床に膝をついた。呼吸が荒かった。手が震えていた。
部屋が静まり返った。
陽太がゆっくりと顔を上げた。玄翁が倒れている場所を見た。動かない。気配がない。
「……俺が」
言葉が続かなかった。
力で命を奪った。初めてだった。戦いの中でそうなった。意図したわけではなかった。でもそれは言い訳で、陽太の手から出た力が、あの老人の命を吸い上げたのは事実だった。
蒼が静かに陽太の隣に来た。膝をついた。何も言わなかった。ただ、肩に手を置いた。それだけだった。それだけで十分だった。
結衣が反対側に座った。まだ顔色が完全には戻っていなかった。それでも陽太の隣にいた。
「陽太さん」結衣が静かに言った。
陽太は答えなかった。玄翁が倒れている場所を見たまま、動けなかった。
窓の外の空が、完全に暗くなっていた。
部屋が静まり返っていた。
玄翁が倒れている。窓の外の空は完全に暗くなっていた。黄龍の街の灯りが、遠くで瞬いている。さっきまであれだけ激しかった力の残滓が、部屋の中にまだ薄く漂っていた。
誰も動かなかった。
蒼が陽太の肩から手を離して、立ち上がった。部屋の奥に大きな機器があった。壁一面に端末が並んでいる。崩壊前の技術だった。埃を被っていたが、電源は生きていた。画面がいくつか薄く光っている。
「封鎖システムのコントロールルームだ」蒼が静かに言った。「ここから操作できるはずだ」
「でもどうやって……」陽太が顔を上げた。
結衣の腕輪が、ぽつりと光った。
「……任せて」
ツキの声だった。
いつもの明るい声ではなかった。落ち着いた、真剣な声だった。腕輪から抜け出したツキが、端末の前に降り立った。小さな体で画面を見渡す。目が、普段と全く違う動きをしていた。
「ちょっと待ってね」
*
沈黙が続いた。
ツキが端末の前で動いている。嘴で何かを操作しているようでもあり、腕輪から何かを送信しているようでもあった。画面の数字が切り替わる。別の画面が立ち上がる。また切り替わる。陽太にはついていけなかった。ただ、ツキが今まで見せたことのない顔をしていることだけがわかった。
蒼が画面の一部を静かに読んでいた。
「……封鎖システムの構造だ。複数の鍵がかかっている」
「全部解除できるの?」結衣が聞いた。
「データを探してる……」ツキが答えた。集中していた。「あ!」
画面が大きく切り替わった。
「封鎖の解除式あった!」
ツキが何かを操作した。
音がした。建物全体が、低く唸った。遠くから、何かが外れるような音が連続して聞こえてきた。黄龍の各所に張られていた封鎖が、一つずつ解除されていく音だった。窓の外を見ると、街のあちこちで人が動き始めていた。混乱の声が遠くから届いた。
「……解除された」蒼が言った。
陽太が息を吐いた。
「やったな、ツキ」
「えへへ」ツキが照れたように言った。でもすぐに真顔に戻った。
「ねえ、もう一個あるんだけど」
*
ツキが別の画面を開いた。
「これ……見て」
映像が映し出された。
古い映像だった。画質が荒い。崩壊前のものだろう。部屋が映っている。研究室のような場所だった。机に書類が積まれて、機器が並んで、白衣を着た人たちが動いている。
その中に、一人の女性がいた。
若かった。黒い髪。穏やかな目元。何かを議論しながら、真剣な表情で書類を指さしている。隣に玄翁がいた。若い頃の玄翁だった。もう一人、陽太たちの知らない人物がいた。三人が同じ机を囲んで、何かの研究をしている。
陽太が息を飲んだ。
「……誰だ、あれ」
ツキが静かに言った。
「……お母さんだよ」
普段と声が違った。明るさがなかった。柔らかくて、少し寂しいような声だった。
陽太は画面から目が離せなかった。
環だった。
顔を知らなかった。写真も何もなかった。でも見た瞬間にわかった。夢の中で何度も見ていた顔だった。輪郭だけで見ていた顔が、今初めて、映像の中で動いていた。笑っていた。何かを説明しながら、目を細めて笑っていた。
「……母さん」
声が出た。自分でも気づかないうちに出ていた。
*
映像が続いた。
研究が進んでいく様子が映し出された。書類が増える。機器が増える。議論が激しくなっていく。玄翁は穏やかなままだった。もう一人の人物は熱心に何かを書き込んでいた。環は二人の間で、何かを調整するように動いていた。
しばらくして、場面が変わった。
環の表情が、曇っていた。
書類を持ったまま、何かに気づいたように動きを止めていた。隣の玄翁を見る。もう一人を見る。また書類を見る。その目が、さっきまでと違った。何かを読み取ったような、何かを悟ったような目だった。口を開こうとして、閉じた。
映像が途切れた。
*
画面が暗くなった。
部屋が静かになった。
陽太はしばらく暗くなった画面を見ていた。映像の中の母の顔が、頭の中にあった。笑っている顔と、曇った顔と、両方が残っていた。
「続きは……」
ハクが静かに言った。「次で分かる」
それだけだった。説明しなかった。慰めなかった。ただそれだけ言って、窓の外を見た。
陽太は頷いた。
「……わかった」
結衣が隣で腕輪をそっと握った。ツキが腕輪の中で静かにしていた。蒼が窓の外の混乱した街を見ながら、静かに言った。
「行くぞ。慧さんがまだ下にいる」
陽太が立ち上がった。
紫電を握った。母の顔が頭にあった。曇った表情の意味が、まだわからなかった。でもそれは次の旅で分かることだと、陽太は思った。
今は、下に行かなければならない。
階段を駆け下りた。
封鎖が解除された黄龍の内部は、混乱していた。住人たちが通路に出てきて、何が起きたのかわからないまま声を上げている。兵士が走っている。どこかで怒鳴り声がした。どこかで歓声がした。長い間閉じ込められていた人間たちが、出口を求めて動き始めていた。
三人はその流れを縫うように下へ向かった。
二十層。十五層。十層。
五層まで降りたところで、人影が見えた。
慧だった。
壁に背を預けて立っていた。白い上着に、所々汚れがついていた。髪が少し乱れていた。でも表情は飄々としていた。三人の顔を見て、ゆっくりと口の端を上げた。
「遅かったかねぇ」
「待っててくれたのか」陽太が言った。
「暇だったからねぇ」
嘘だとわかった。でも陽太は何も言わなかった。
*
四人で一階まで降りた。
黄龍の入口は、開いていた。封鎖が解除されて、扉が外側に向かって開いている。外の空気が流れ込んできた。砂混じりの、乾いた空気だった。それでも陽太には、新鮮に感じられた。
入口の前で、慧が立ち止まった。
「私はここに残るよ」慧が言った。
「後片付けがあるからねぇ。この街の人間は、急に自由になっても困るだろうしね」
「慧さん……」結衣が慧を見た。
「心配しなくていいよ」慧が結衣に笑いかけた。
「こういうの、得意だからね」
蒼が慧を見た。何も言わなかった。でも一秒だけ、目が合った。慧がにやりと笑った。蒼が僅かに頷いた。それだけだった。
陽太は慧の前に立った。
何を言えばいいのか、わからなかった。ありがとうと言うには足りない気がした。またと言うには遠すぎる気がした。慧に怒りをぶつけた夜のことも、修行のことも、慧が三人を引き受けた背中のことも、全部が頭の中にあった。
陽太が口を開いた。
「長生きしろよ、ババア」
慧が笑った。声に出して笑った。
「やれやれ、ガキは素直じゃないねぇ」
陽太が視線を逸らした。耳が少し赤くなっていた。「……ありがとよ」
小さな声だった。でも確かに届いた。
慧の表情が、少しだけ柔らかくなった。飄々とした笑いの奥にあるものが、一瞬だけ表に出た。
「陽太」
慧が陽太を見た。真っ直ぐに。
「大和はお前と共にあるよ。忘れるなよ……」
陽太は何も言えなかった。喉の奥に何かが詰まった。頷くことしかできなかった。
「……うん」
慧が三人を見渡した。結衣に、蒼に、陽太に。一人ずつ、順番に見た。
「いってらっしゃい!」
その声だけは、いつもの慧だった。飄々として、明るくて、何も心配していないような声だった。
*
三人が黄龍の外に出た。
夜だった。砂漠の空に星が出ていた。月影郷で見る空とは違う。遮るものが何もない、広い空だった。風が吹いた。砂が舞った。
しばらく歩いた。黄龍の灯りが遠ざかっていく。街の混乱の声が、少しずつ小さくなっていく。
陽太が前を向いたまま歩いていた。紫電が腰にある。母の顔が頭にある。父の最後の言葉が、まだ胸の中にある。
ふと、気配を感じた。
後ろだった。
陽太が振り返った。誰もいなかった。砂漠の闇が広がっているだけだった。
でも確かに、何かがいた。
「……蒼」
「……鳥がいるな」蒼が静かに言った。前を向いたままだった。
結衣がくすりと笑った。「……そうだね」
陽太は暗闇をもう一度見た。建物の陰に、小さな人影のようなものがあった。こちらを見ているような気がした。金色の瞳が、闇の中でかすかに光った気がした。
陽太は前を向いた。
「……気づいてないふりしとくか」
「合理的だ」蒼が言った。
「うん」結衣が頷いた。
三人は歩き続けた。後ろの気配も、歩き続けた。砂漠の風が、四人分の足音を包んで、夜の中へ消えていった。
「所でさ、カッコつけて出てきたのはいいんだけど…次は何処に行くんだ?」陽太が恥ずかしそうに話はじめた。
「大丈夫です。ご案内します。」ツキがにやりと笑った。
── 第一章 登場人物・用語解説 ──
登場人物
月影 陽太
18歳。主人公。第一章で紫電を手にし初めての実戦を経験する。玄翁を倒すが初めて力で命を奪った重さを抱える。
月影 蒼
16歳。次男。慧から「流す」という理を盗み取り四神戦への布石を作る。
月影 結衣
16歳。三女。朱雀の暴走を静界で抑え込む。慧から料理を通じて調和の理を学ぶ。
ツキ(月詠)
月環に宿るナビゲーター。おしゃべりでやらかしがち。重要な場面では真剣になる。
ハク(白鳴)
紫電に宿るナビゲーター。「俺は鷹だ」と言い張る。戦闘ナビが的確。
月影 慧
大和の妹弟子・陽太たちの叔母。黄龍に潜伏していた。三人を助け修行をつける。黄龍に残る。
玄翁
黄龍統治者。「管理」という歪んだ答えの体現者。第一章で死亡。
朱雀
四神幹部。結衣に母・環を感じ心が揺らぐ。こっそり三人の後をついていく。
用語
黄龍
中国の都市国家。玄翁が統治していた完全管理社会。封鎖システムが解除され混乱中。
封鎖システム
玄翁が管理していた黄龍全体の封鎖。玄翁の死により解除された。
ワーム
Xの肉体が再生する過程で生まれた単細胞生命体。世界中に散らばっている。
X
世界崩壊の原因となった生物兵器。
環の過去①
玄翁・廻と共にXの研究をしていた事実が映像で明かされた。
技(第一章初登場)
紫電・閃
陽太の技。体内電気信号制御・全身強化。使用後に紫の雷の残像が残る。瞳が金色になる。
追風
陽太の技。気を足に集中させてジェットのように加速する。
迅雷
陽太の技。素早い雷撃斬撃。近接技。
氷界
蒼の技。空間を極限まで冷却する領域展開。
静界
結衣の技。安定化・封印技。朱雀の炎を抑え込んだ。
和命
結衣の技。修復・回復技。
炎鷹
朱雀の技。鷹のように急降下しながら炎を放つ。
鳳炎
朱雀の技。鳳凰のように炎を纏って突進する。
── 第一章 了 ──
次章:第二章・ミラージュへ続く




