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紫電  作者: KO1
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一章 黄龍 その1

 大和が死んだ。

 その事実が、どうしても本物になりきれなかった。

 広場には焦げた石畳と、倒れた屋台の残骸と、逃げ遅れた村人たちの背中だけが残っていた。炎の痕跡がまだ空気の中に漂っている。焦げた匂い。煤の匂い。さっきまであれだけ賑わっていた祭りの夜が、嘘のように静まり返っていた。

 陽太は父の体の前に膝をついたまま、動けなかった。

 蒼が隣に立っている。結衣が陽太の少し後ろに座っている。誰も何も言わなかった。言葉があるとすれば、それは今この場の空気を壊す何かになってしまう気がして——三人とも、ただそこにいた。

 月が雲に隠れた。広場が少し暗くなった。

 その時だった。



 ピー、とかすかな鳴き声がした。

 陽太が顔を上げる。オカメインコが一羽、目の前に降り立っていた。昼間に村人が「またあの鳥か」と言っていた、あのインコだ。丸い頭に橙色の頬。白みがかった羽。じっとこちらを見ている。


「……お前」


 インコが鳴いた。もう一度。今度はもっと強く、まるで急かすように。そして陽太から目を離して、道場の方へと飛んでいく。少し飛んでは止まり、振り返り、また飛ぶ。


「なんだ、あの鳥」陽太が立ち上がる。声が掠れていた。「……ついてこいってことか」

 蒼が一瞥した。「……行くか」


 三人がインコの後を追って道場へ向かった。



 離れの道場は静まり返っていた。

 朝まであの場所で大和と向き合っていたのが、もう遠い昔のように思えた。陽太は入口の前で一瞬足が止まりかけたが、そのまま踏み込んだ。板の間を踏む音が、静寂の中に響く。

 インコは道場の奥へと進んでいった。壁際まで飛んで、その前で止まる。

 壁だった。どこにでもある、普通の板張りの壁。陽太は毎朝この道場で稽古をしてきたが、この場所を意識したことは一度もなかった。しかしインコが嘴で壁を叩き始めた。一度、二度、三度。

 蒼が無言で近づいた。壁を一通り観察してから、指先で一箇所を押す。かすかな音がして、壁の一部が内側へと沈んだ。隠し扉だった。


「……知ってたのか」陽太が聞く。

「知らなかった。構造から推測した」蒼が答える。


 扉の向こうに、暗い階段が続いていた。



 地下室は、思ったより広かった。

 天井が低く、空気が古い。薄暗い中に、何かがうっすらと光っている。三人が階段を降りて目が慣れてくると、部屋の輪郭が見えてきた。棚に道具が並んでいる。工具のようなもの、書類のようなもの、用途のわからない機器。そしてその中央に——刀が二振りと、腕輪が一つ、台の上に置かれていた。

 どれも普通の武器ではなかった。

 刀の一振りは黒い刀身で刃の部分に紫の稲妻型の細い光の筋が走っている。もう一振りは二刀で、青と白。腕輪は金属でできていて、表面に何かの紋様が刻まれていた。どれも、この世界にある他のものとは明らかに素材が違う。崩壊前の技術が混ざっているのかもしれない、と陽太はぼんやり思った。

 そしてその台の前に、二羽のインコが並んで止まっていた。

 さっきのオカメインコと、もう一羽。

 二羽がこちらを向いている。じっとしている。逃げない。

 次の瞬間、一羽が口を開いた。


「はじめまして! 私はツキ! よろしくね!」


 陽太の頭の中が、一瞬白くなった。


「……喋った」

「喋ったな」蒼が静かに言った。

「喋ったよ!」ツキが元気よく同意した。

「親父が死んだばかりだなんだ…」陽太が思わず呟いた。

「あっ……ごめんね」ツキの声が少ししゅんとした。羽がわずかに下がった。「でも……でもね、伝えなきゃいけないことがあって」


 沈黙が落ちた。

 もう一羽が、ゆっくりと口を開いた。


「俺は鷹だ」


 間があった。


「……オカメインコだろう」蒼が淡々と言った。

「鷹だ!」

「いや絶対オカメインコだし! 丸いし! 愛らしいし!」ツキが素早く突っ込んだ。

「鷹だ!」

「……可愛い」結衣が静かに呟いた。


 陽太は口元が少し動いてしまったのに気づいて、慌てて引き結んだ。泣きそうな顔もしたくなかったし、笑うのも違う気がした。ただ、張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩んでいた。



 ハクが小さく咳払いをした。

「改めて言う。俺はハク。白鳴だ」声が、さっきとは変わっていた。低く、淀みなく、どこか別の誰かを思わせる響きがあった。「こちらがツキ。月詠だ」

 ツキが「よろしく!」と小声で言った。今度は控えめだった。

 ハクが台の上の刀に向かって嘴を向けた。


「この黒と紫の刀は紫電という。かつて父が使っていたものだ。今はお前のものになる」陽太を見て言った。「そしてこの腕輪は月環だ、これはお前たちの母が作ったものだ…」結衣に向ける。「この二振りは——」蒼に向けた。「蒼氷と白雷。これはお前の為に父が自ら打ち出したものだ」


 陽太が息を呑んだ。「親父が……」


「そして俺たちはこの刀と腕輪に宿るナビゲーターだ」ハクが続けた。声に感情はなかった。ただ確かに、重さがあった。「ここまでは理解できるか」

「……できる」陽太が答えた。


 ツキが小さく手を上げるような仕草をした。「あのね、伝えたかったことっていうのはね——」少し間を置いて「お母さんは生きてるよ!」と言った。

 部屋の空気が変わった。


「母が……」陽太が反射的に顔を上げた。

「黄龍にいる人に会えば分かる。慧って人。その人が知ってるから——会いに行って」


 陽太は黙っていた。頭の中をいくつかの言葉が通り過ぎていった。大和の最後の一言。母は、生きている。ずっとそれが頭に引っかかっていた。信じたかったのか、信じたくなかったのか、自分でもわからないまま一晩経っていた。


「黄龍か」蒼が静かに言った。

「合理的な判断だ。行くべきだろう」

「俺は行く」陽太が言った。自分で決めていた。父が死んだ夜に、もう決めていた。

「でもお前らは——」

「私も行くよ」


 結衣だった。静かな声だった。いつもの穏やかな声だったが、その中に揺るがないものがあった。陽太が口を開きかけて、止まった。結衣の目を見て、何も言えなくなった。


「……三人の方が効率的だ」蒼が一言添えた。それだけだった。


 陽太は台の前に立った。手を伸ばして、紫電を取った。

 ずっしりとした重さが手に伝わった。冷たく、硬く、それでいてどこか馴染む重さだった。この刀が父のものだったという事実が、手のひらを通じて体に染みてくるようだった。


「……行くか」


 ハクが小さく頷いた。「……よし」



 月影郷の外は、想像以上に荒れていた。

 村を出た瞬間から、空気が変わった。山を下りるにつれて木々が減り、土が痩せ、やがて視界が開けたと思ったら、そこには地平線まで続く荒野が広がっていた。草もない。水もない。焼けたような茶色の大地が、どこまでも続いている。崩壊後の世界がどういうものか、頭ではわかっていたつもりだった。でも実際に目の前に広がると、やはり言葉を失った。


「すごいな」陽太が呟いた。褒めているのではなかった。ただそれ以外の言葉が出てこなかった。

「データ通りだ」蒼が淡々と言った。

「記録より若干、砂漠化の進行が速い」

「そういうこと言われてもな……」


 幸い、村を出てすぐのところに行商人の一行と合流できた。月影郷に時々やってくる顔なじみの男で、人力荷車を引いて黄龍方面へ向かうという。村の子供を怒鳴りつけていた、あの行商人だった。陽太の顔を見て、少しばつが悪そうにしてから「乗っていくか」と言った。


「動物はワームに食われる。エンジン音は感知される。この世界じゃ人力が一番安全なんだよ」男が前を向いたまま言った。

「礼はいらん。あの時の分だ」


 三人は荷台の端に腰を下ろした。荷車がゆっくりと動き出す。砂混じりの風が頬を撫でた。



「この道をまっすぐ行けば……あれ?」


 ツキが首を傾けた。結衣の腕輪から顔だけ出して、きょろきょろしている。


「どうした」陽太が聞く。

「こっちだったかな? もしかしてあっちかな?」

「迷ってるのか」

「ち、違うよ! ちょっと確認してるだけ!」


 ハクが荷車の縁から颯爽と飛び立った。

「俺は鷹だ。空から偵察してやろう」

 しばらくして戻ってきた。


「……何もなかった」

「それだけか」蒼が呟いた。

「砂と空と地平線だった」

「それは俺たちにも見えてる」


 ハクが「俺は鷹だ」とだけ言って荷車の縁に戻った。ツキが「お役に立ちました!」と明るく言った。何の役にも立っていなかった。陽太は返す言葉もなく、ただ荒野を眺めた。

 荷車が揺れる。車輪が砂を踏む音がする。単調な景色が続く。それでも陽太は眠れなかった。目を閉じると父の顔が浮かんだ。最後の顔が。だから目を開けたまま、揺れる荷車に揺られていた。

 蒼の隣にいると、不思議と涼しかった。

 気のせいかと思ったが、気のせいではなかった。蒼の体の周囲だけ、わずかに温度が低い。荒野の熱気の中でそれは妙に心地よくて、陽太は少しだけ蒼の方へ体を寄せた。蒼は何も言わなかった。気づいているのかいないのか、相変わらず無表情のまま前を向いていた。結衣がそれをちらりと見て、小さく微笑んだ。



 地面が揺れたのは、昼を過ぎた頃だった。

 最初は荷車の振動かと思った。次の瞬間、行商人が顔色を変えた。


「ワームだ!」


 地面が割れた。

 土の中から何かが湧き出してきた。虫とも違う、ミミズとも違う。白くぬめった体が幾重にも重なって、荷車の周囲から一斉に顔を出す。大きいものは腕ほどの太さがあった。行商人たちが悲鳴を上げて荷車から飛び降りる。


「陽太」


 ハクの声が変わった。

 さっきまでの間の抜けた調子が消えていた。低く、速く、淀みがない。


「右から三体。一体目は足元から来る。半歩左に退いてから切り上げろ。二体目は——」


 陽太は気づいたら動いていた。半歩退く。足元から伸びてきた白い体を切り上げる。感触が刃に伝わる。続けて右。また右。ハクの指示が体に直接入ってくるような感覚だった。考える前に体が動く。


「なんで急にそんなに頼りになるんだよ」

「俺は常に鷹だ」

「さっき何もなかったって言ってたよな?!」

「偵察と戦闘は別だ」


 蒼が氷界を展開した。足元から冷気が広がり、地面が白く凍り始める。ワームが動きを鈍らせる。凍りついた体が砕けて、辺りに破片が散った。

 結衣が行商人たちの前に立った。腕輪が淡く光る。「こっちには来させない」静かな声だった。落ち着いていた。荷車の周囲に薄い気の膜が張られて、ワームが弾かれる。

 陽太は息を整えながら、正直に思った。道場とは全然違う、と。

 型は体に入っている。動きはできる。でも本物の相手は型通りには動かない。斬っても次が来る。足元が不安定で重心がずれる。この感覚は稽古では覚えられなかった。体が、今になって本物の「戦い」というものを覚えようとしていた。

 最後の一体を仕留めて、陽太が息を吐いた。


「……終わったか」

「殲滅完了だ」ハクが言った。声が、また元に戻っていた。「俺は鷹だ」

「どっちが本当のお前なんだよ」


 ハクは答えなかった。



 行商人に導かれて、近くのキャンプに身を寄せた。

 日が落ちると荒野は急激に冷える。焚き火の周りに人が集まった。行商人たちが食事を分けてくれた。干した肉と、固い麦のパン。贅沢ではないが温かかった。

 食べながら、陽太は火を見ていた。

 結衣が隣に座って、静かに同じ火を見ていた。蒼は少し離れた場所に座って目を閉じている。眠っているのか考えているのか、わからない。ツキは結衣の肩の上でうとうとしていた。ハクは荷車の縁に止まって夜空を見上げていた。



 結衣がツキと並んで焚き火の傍に座っていた。ツキは腕輪の縁に止まって、炎をじっと見ている。結衣が静かに口を開いた。


「ツキ……お母さんのこと、知ってる?」


 ツキがぴくりと動いた。しばらく黙っていた。普段のツキらしくない間だった。


「……データにはあります」ツキが静かに言った。声が、いつもより少し低かった。

「優しい方ですよ……」

「そっか」結衣が膝を抱えた。「……どんな人?」

「笑うと、目が細くなる人です」ツキがゆっくり言った。「いつも誰かのことを考えてた。自分よりも」


 結衣は何も言わなかった。火を見ながら、静かに頷いた。



 蒼は一人、焚き火から少し離れたところに座っていた。

 膝の上に二振りの刀を横たえて、ただ見ていた。蒼氷と白雷。青と白の配色。手に取るでもなく、磨くでもなく、ただそこに置いて、見ていた。

 炎の光が刀身に揺れた。

 蒼の表情は動かなかった。何を考えているのか、わからなかった。ただその目だけが、いつもより少し、深いところを見ているようだった。



 陽太は焚き火から外れた場所に腰を下ろして、紫電を膝の前に立てていた。ハクが刀の鍔の上に止まって、同じ方向を向いている。

 しばらく黙っていた。風の音だけがあった。


「なあ、ハク」陽太が口を開いた。

「親父は……昔は強かったのか?」


 ハクが少し間を置いた。


「……データはある」ハクが静かに言った。

「鬼神と呼ばれていた時期があった」

「鬼神」陽太が繰り返した。「……あの親父が?」

「お前たちが見たものが、全てではない」


 陽太は黙った。四人の四神を相手に一歩も退かなかった父の姿が、また頭に浮かんだ。あれが全力ではない。では全力の大和とは、どれほどのものだったのか。


「なんで……強くなったんだろうな。親父」


 ハクはしばらく答えなかった。


「……誰かのためだったと思う」ハクがぽつりと言った。「それ以上はデータにない」


 陽太が紫電の柄を静かに握った。冷たい感触が手に馴染む。この刀がずっと父のそばにあったのかと思うと、何か言いたいことがあるような気がするのに、言葉にならなかった。


「……俺も、いつかそうなれるかな」


 ハクは答えなかった。

 ただ、「お前もなれるさ……鷹に…」とだけ言って、夜空を見上げた。

 陽太は少し笑った。それでいい気がした。



 翌朝、出発の前に行商人が荷台から袋を取り出して陽太に押しつけた。食料と、簡単な地図が入っていた。「命を助けてもらった。これくらいしかできないが」と男は言って、それ以上は何も言わなかった。


「ありがとうございます」陽太が頭を下げた。

「……礼儀正しいじゃないか」男が少し笑った。

「さっさと行け。黄龍は東だ」


 そこからは三人で歩いた。

 荒野の道は単調で、過酷で、無口になった。砂が靴の中に入る。日差しが強い。水を大事に使いながら進む。ツキが時々道を確認しながら先導するが、たまに「あれ?」と言うので陽太はそのたびに脱力した。

 それでも蒼の隣を歩いていると、不思議と体が楽だった。蒼からにじみ出る冷気が、じわじわと周囲の熱を吸い取っている。本人は一切それについて言及しなかった。気づいていないはずがないのに、蒼はただ無表情に前を歩き続けた。


「蒼って、自分でも気づいてるか? 涼しいの」

「……知っている」

「なんで言わないんだよ」

「聞かれなかった」


 陽太は返す言葉が見当たらなくて、前を向いた。結衣がくすりと笑った。


 やがて、地平線の向こうに何かが見えてきた。

 最初は蜃気楼かと思った。しかし歩くほどに輪郭がはっきりしてくる。建物だった。都市というより、一つの山のような、そういうスケールだった。


「す、すごい……」陽太が思わず立ち止まった。

「……データ収集中」蒼が静かに言いながら目を細めた。

「でしょでしょ! 黄龍すごいでしょ!」ツキが得意げに言った。

「でもね、来るのは簡単だけど、出るのは——」

「ツキ」ハクが短く言った。

「……あ、うん。着いてからね」ツキが口をつぐんだ。


 陽太は黄龍を見上げた。父が最後に口にした母の名前。その手がかりが、あの巨大な城塞の中にある。


「……行くか」


 三人が、黄龍へ向かって歩き出した。



 黄龍は、近づくほどに大きくなった。

 遠くから見た時点で十分に巨大だと思っていた。しかし実際に入口の前に立つと、その感覚が根本から覆された。建物が建物の上に積み重なり、その上にまた別の建物が張り出している。増築に増築を重ねた結果、元の構造がどこにあったのかもわからない。路地が縦にも横にも走っていて、空まで続く階段がそこかしこに見えた。

 太陽の光が建物の隙間から差し込んで、地面に複雑な影を作っている。その影の中を、人が歩いている。大勢の人が。商売をしている人、荷物を運んでいる人、路地の端に座って何かを食べている人。崩壊後の世界でこれだけの人が集まっているのかと思うと、改めてこの都市の異様さが際立った。


「俺は高いところから見たい」ハクが飛び立った。「鷹だからな」

「戻ってこいよ」陽太が言ったが、ハクはもう空の上だった。



 入口には検問がなかった。

 門番はいる。しかし止めない。来るものは拒まず、という雰囲気が確かにあった。ただ、通り過ぎる時にちらりと視線を感じた。門番の瞳が金色に光っている。住人たちの瞳も、すれ違うたびに金色が目に入る。月影郷では見たことのない色だった。


「全員、瞳が金色だな」陽太が小声で言った。

「黄龍の住人の特徴だ」蒼が答えた。

「我々の黒い瞳は目立つ」

「じゃあ余所者ってすぐわかるじゃないか」

「わかるだろうな」


 陽太は前を向いた。なるべく自然に歩こうとしたが、どこから見られているかわからない感覚が背中にあった。ツキが「大丈夫だよ、堂々としてれば!」と小声で言ったが、あまり根拠がなかった。

 それでも街を歩くうちに、少しずつ慣れてきた。路地の入り組み方、人の流れ、物売りの声。どこか活気があって、月影郷とは全く違う種類の生命力がこの街には満ちていた。陽太は歩きながら、ここに母の手がかりがあるという事実を改めて思った。この巨大な場所のどこかに、慧という人物がいる。



 問題が起きたのは、街に入って一時間も経たない頃だった。

 路地の奥から声がした。怒鳴り声だった。曲がり角の先を覗くと、兵士が二人、住人の男を壁に押しつけていた。男は何も言い返せない様子で、ただ肩を縮めていた。兵士の一人が書類のようなものを男の顔の前に突きつけている。男には明らかに身に覚えがない様子だった。


「行くぞ」蒼が陽太の腕を掴んだ。

 でも陽太はもう動いていた。

「ちょっと待ってくれ」路地に踏み込みながら言った。「その人、何もしてないだろ」


 兵士が振り返った。金色の瞳が陽太を捉えた。一瞬で外来者だと判断したのが、その目の動きでわかった。


「……余所者か」


 兵士の一人が腰の通信機に手をかけた。短く何かを告げる。


「陽太、逃げた方が…」ツキが小声で言った。声が珍しく緊張していた。

「走れ」蒼が低く言った。


 次の瞬間、三人は走っていた。



 路地を駆け抜けた。

 左に折れ、階段を駆け上がり、また路地に降りる。黄龍の内部は想像以上に入り組んでいた。建物と建物の間の隙間が路地になっていて、上に行くほど空が狭くなる。足音が石畳に反響して、どこから追われているのかわからなくなってくる。


「左だよ!」ツキがナビする。


 左に曲がった。

 行き止まりだった。

 壁。壁。壁。三方向全て、出口がない。陽太が振り返ると路地の入口に兵士たちのシルエットが見えた。数が増えている。


「ツキ!」

「ごめん!!」


 三人が自然と背中合わせになった。陽太が前。蒼が右。結衣が左。じりじりと兵士が近づいてくる。抜刀すれば余計に事態が悪化する。かといってこのまま捕まるわけにもいかない。

 陽太が頭の中で素早く状況を整理しようとした。でも答えが出る前に——

 路地の奥の建物の扉が、ゆっくりと開いた。



「やれやれ、騒がしいねぇ」


 飄々とした声だった。

 扉の隙間から女性が顔を出した。長い黒髪。飄々とした表情。年齢がよくわからない。若くも見えるし、達観した何かを持っている目は若くない。白い上着を着ていて、どこか医者のような雰囲気があった。

 陽太はとっさに目が合った瞬間、息を飲んだ。

 黒い瞳だった。

 この街に入ってから、すれ違う人間の瞳はすべて金色だった。門番も、住人も、兵士も。それが当たり前になっていた。なのに目の前の女性の瞳は、月影郷の人間と同じ黒だった。


「……黒い瞳だ」陽太が思わず呟いた。

「気づくのが早いねぇ」女が小さく笑った。それだけ言って、路地の兵士たちに向かって手を振った。

「怪我人がいてね、静かににしてもらえるかね」


 兵士のリーダーが舌打ちをした。「……慧先生か」

「悪いねぇ」女性——慧が言った。まったく悪そうではなかった。

 兵士たちが顔を見合わせた。何か言いたそうにしていたが、慧が微動だにしないのを見て、やがて一歩引いた。「……今回だけだ」

 慧が扉を大きく開けた。「さ、入りなよ」

 三人が滑り込む。扉が閉まる。外の気配が遮断された。

 陽太が息を整えながら、目の前の女性を見た。

 慧が振り返った。三人を見渡す。一人ずつ、品定めするでもなく、ただ見る。やがて飄々と笑った。


「月影の子たちだね」


 間があった。


「待ってたよ」



 診療所の中は薬の匂いがした。

 棚に薬瓶が並んでいる。簡素な寝台がいくつか。窓から外の路地が見える。住人らしき人が数人、壁際に座って順番を待っていた。慧は三人を奥の部屋へと案内した。

 部屋に入ると、慧が茶の準備を始めた。動きに無駄がなかった。それだけのことなのに、なぜか目が引きつけられる動きだった。


「座りなよ」


 三人が腰を下ろした。ハクが窓の外から部屋に入ってきて、棚の上に止まった。ツキが結衣の肩でほっと息を吐いた。


「よく来たねぇ」慧が背中を向けたまま言った。

「大変だったろ、月影慧だよ。あんた達の叔母だよ。」


 陽太は慧の背中を見ながら、一つのことが頭にあった。この人が知っているはずだ。母のことを。そして——大和が死んだ夜のことも。

 茶が三つ、卓の上に置かれた。

 湯気が静かに上がった。



 奥の部屋は静かだった。

 外の路地の喧騒が、扉一枚で遠くなる。薬の匂いが染みついた壁。小さな窓から差し込む光が、卓の上の茶碗に当たってゆらゆらと揺れている。さっきまで走っていたのが嘘のような静けさだった。

 陽太は茶碗を両手で包んだまま、飲まなかった。

 慧が向かいに座っている。足を崩して、背もたれに緩くもたれて、どこか遠くを見るような目をしている。急いでいる様子がない。焦っている様子もない。この街に金色の瞳の兵士が溢れていて、三人が追われていたことなど、もう頭にないような顔をしていた。

 ハクが棚の上で静かにしていた。ツキが結衣の肩の上で羽を畳んでいた。珍しく、どちらも黙っていた。

 蒼が静かに茶を飲んだ。音がした。それだけが部屋に響いた。

 慧が口を開いた。


「大和が死んだのは知ってるよ」


 静かな声だった。問いかけではなかった。確認でもなかった。ただ、事実を言葉にしたような言い方だった。


「……知ってたのか」陽太が顔を上げた。

「気の揺らぎでだいたいわかるよ」慧が窓の外に目を向けた。路地の向こうに、黄龍の壁が見えている。「間に合わなかった」


 間に合わなかった。

 その一言が、陽太の胸の中で何かに引っかかった。



「なんで」


 声が出ていた。自分で意図したわけではなかった。ただ、体の奥から言葉が出てきた。


「なんで助けに来なかったんだよ」


 慧は黙って陽太を見た。


「知ってたんだろ。俺たちが来ることも。親父が危ないことも」陽太の声が低くなっていった。「なんで……なんで来なかったんだよ」


 部屋が静まり返った。

 ツキがそっと結衣の肩に体を寄せた。ハクが棚の上で目を伏せた。蒼は茶碗を卓に置いて、ただ前を向いていた。

 慧は陽太から目を逸らさなかった。怒りを受け流すでも、言い訳を探すでもなく、ただ真っ直ぐに陽太を見ていた。その目の奥に何かがあった。後悔とも違う。悲しみとも違う。もっと長い時間をかけて積み重なってきた、重いものが滲んでいた。


「間に合わなかった」慧がもう一度言った。同じ言葉だった。でも今度は、最初より少しだけ重かった。「それだけだよ」

「それだけか」陽太の拳が卓の上で握られた。

「親父は……親父は死んだんだぞ。それだけって……」

「……それだけだよ」


 言い訳をしない。謝りもしない。ただ認める。その態度が、陽太の怒りをぶつける場所を奪っていった。怒鳴り続けることも、責め続けることもできなかった。慧が嘘をついていないのがわかったから。そしてその言葉の裏に、陽太には想像もできない何かがあるのもわかったから。

 陽太は拳を握ったまま、俯いた。

 沈黙が落ちた。長い沈黙だった。



 結衣が静かに口を開いた。


「慧さんは……お母さんのことを知ってますか」


 慧の目が、わずかに動いた。結衣を見た。その目が少し細くなった。


「知ってるよ」慧が言った。声が、さっきより柔らかくなっていた。

「環のことはよく知ってる」


 陽太が顔を上げた。

 環。母の名前だった。慧の口から出てきた瞬間、それが本物の名前になった気がした。ずっと輪郭のなかった何かが、その一言で少し形を持った。


「会えるのか」陽太が聞いた。声が掠れた。「母に」


 慧が少し間を置いた。窓の外を見た。路地の向こうの壁を見た。それからまた陽太に目を戻した。


「今すぐには無理だよ」慧が静かに言った。

「でも……会えないとも言えないかねぇ」

「どういうことだ」

「まず玄翁を倒すことだ。この街の封鎖を解かないと、何も始まらない」慧が三人を見渡した。

「そのためにお前たちを待ってたんだよ」


 陽太は慧の目を見た。飄々とした表情は変わらない。でもその奥にある真剣さは本物だった。



 慧が三人に茶をもう一杯注いだ。


「やれやれ」慧が呟いた。独り言のような声だった。「大和の子たちが来た」


 それだけ言って、少し笑った。飄々とした笑いだったが、その端に何かがあった。


「それだけで十分…」


 陽太は慧の顔を見ながら、この人は父のことを知っていると思った。長い時間をかけて知っていた人だと思った。そしてその人が今、間に合わなかったと言った。その言葉の重さが、怒りが引いた後に静かに残っていた。


「……聞いていいか」陽太が言った。

「なんだいねぇ」

「親父は……大和は、昔からそんなに強かったのか」


 慧が少し目を細めた。遠くを見るような顔になった。


「強かったよ」慧が静かに言った。

「鬼神って呼ばれてた時期があったかねぇ。でもあいつが本当に強くなったのは……力じゃなくてね」

「じゃあ何だ」


 慧が陽太を見た。


「お前たちができてからだよ」


 陽太は何も言えなかった。結衣が静かに息を吐いた。蒼が目を伏せた。

 茶の湯気が、静かに揺れた。



 翌朝から、修行が始まった。

 慧が「せっかく来たんだから鍛えていきなよ」と言ったのが前夜のことで、三人は特に断る理由もなく頷いた。黄龍の構造を把握するにも、玄翁への道を探るにも、今の自分たちの力では足りないことは砂漠の道中で身に沁みていた。

 慧の診療所の裏手に、少し開けた空間があった。建物に囲まれた狭い中庭のようなところで、上を見上げると黄龍の建物が積み重なって空が四角く切り取られている。ここが三人それぞれの修行場になった。



 陽太の修行は、朝一番から始まった。


「構えろ」ハクが言った。


 陽太が紫電を構える。ハクが棚の上から陽太を見下ろしている。普段の「俺は鷹だ」という脱力した雰囲気が、修行が始まった途端に消えていた。目が違う。声が違う。同じインコなのに、全く別の何かがそこにいるような感覚がした。


「動け」


 陽太が踏み込んだ瞬間、体の内側に何かが流れ込んできた。電流のような、熱のような。ナノマシンが体内を走る感覚だった。筋肉が強制的に動かされる。腕が、足が、体幹が、陽太の意思より少し先に動く。


「速い……」

「追いつけ」


 ハクの指示に体を合わせようとする。合わせられない。ナノマシンが作る動きの精度に、陽太自身の体がついていかない。頭ではわかっている。でも体が遅れる。それを繰り返すうちに、全身が悲鳴を上げ始めた。


「限界だ……」


 陽太が膝をついた。地面に手をつく。呼吸が荒い。汗が石畳に落ちた。

 ハクが静かに降りてきた。陽太の目の前に止まった。


「……まだ立てる」


 低い声だった。感情のない声だった。でもどこかで聞いたことのある言葉だった。

 陽太がはっとした。顔を上げた。

「……ハク、今」

「俺は鷹だ」ハクがそっぽを向いた。


 陽太は少し間を置いた。それからゆっくりと立ち上がった。膝が笑っていた。それでも立った。

 そこへ結衣が駆け寄ってきた。

「陽太さん、少し休んで」

 結衣が手を伸ばした。指先が陽太の腕に触れた瞬間、温かいものが流れてきた。熱くはない。ただ、深いところから体が満たされていくような感覚。筋肉の痛みが引いていく。疲労が薄くなっていく。


「……ありがとう」陽太が息を整えながら言った。「なんか、すごいな」

「練習中だよ」結衣が微笑んだ。

「でも、役に立てた」


 陽太が立ち上がった。紫電を構え直した。


「もう一回やる」


 ハクが小さく頷いた。「……よし」

 その一言が、どこかで聞いた誰かの言い方に似ていた。陽太は気づかないふりをして、踏み込んだ。



 蒼の修行は、少し違う形で始まった。

 ハクが蒼の前に立って、月影流の体系を説明し始めた。気の流れ。力の変換。領域の展開原理。淀みなく、正確に、体系立てて。

 蒼は黙って聞いていた。頷かない。メモも取らない。ただ聞いていた。

 ハクが説明を終えると、蒼が静かに口を開いた。


「……なるほど。感情を排除した分、領域への直接到達が可能になる」

「理解が速いな」

「非効率な部分を省いた結果だ」


 ハクが何も言わなかった。蒼も何も言わなかった。二人の間に、妙な種類の沈黙があった。お互いを認めているような、でもそれを口にするつもりは一切ないような。



 その夜、蒼は診療所の外に出た。

 中庭から少し離れた場所に立って、路地の奥を見た。慧が患者の手当てをしていた。扉が開いていて、その中の動きが外からかろうじて見えた。

 蒼は近づかなかった。声もかけなかった。ただそこに立って、慧の動きを見ていた。

 患者の手を取る動作。包帯を巻く動作。薬を調合する動作。どれも速くない。でも一つひとつに無駄がなかった。力を使っているようには見えない。でも体の重心が常に正しい位置にあって、動きが次の動きに自然に繋がっていく。

 蒼は目を細めた。

 しばらくして、慧が独り言のように呟いた。まだ患者の方を向いたままだった。


「風は逆らわず、水は形を変える。力は受けるものじゃなく、流すもの…」


 蒼が静止した。


「……流す」


 蒼氷と白雷の鍔に指先が触れた。力を受けるのではなく、流す。今まで構築してきた理論の中に、その一言がすとんと落ちた。埋まるべき場所に埋まったような感覚だった。

 慧がにやりと笑った。まだ蒼の方を向いていなかった。

 蒼も表情を変えなかった。しかし踵を返して中庭に戻りながら、ほんの少しだけ目が細くなっていた。



 結衣の修行が始まったのは、二日目の朝だった。

 慧が診療所の台所に結衣を連れてきた。食材が並んでいた。野菜、肉、香辛料。


「料理でも教えようかねぇ」

 結衣が首を傾げた。「……え?」

「まず切ってみて」慧が食材を結衣の前に置いた。


 結衣が包丁を持った。切り始めた。


「大きさが揃ってないねぇ」慧が横から覗いて言った。責める口調ではなかった。ただ事実として言った。「切り方で火加減が決まる。火加減が決まれば味が決まる。最初が整えば、最後まで整う」


 結衣がもう一度、丁寧に切り始めた。今度は一枚一枚、厚さを揃えるように。急がずに。丁寧に。

 火にかけた。香りが立ち上がった。味付けをした。少し待った。完成した。

 結衣が椀を持ち上げて、中を見た。


「……最初から決まってたんですね」結衣が慧を見た。「壊さないように、最初から丁寧に扱えば……最後まで整う」


 慧が何も言わなかった。

 ただ、にやりと笑った。

 結衣は椀を見ながら、静界のことを考えていた。相手の力を抑える技。壊すのではなく、包んで、鎮める。それはもしかしたら、今やったことと同じ理なのかもしれない。最初から丁寧に、力ではなく調和で。


「慧さん」結衣が言った。

「なんだい…」

「これ……修行ですよね」


 慧が笑った。今度は声に出して笑った。

「さあ、どうだろうねぇ」



 三日が経った。

 三人それぞれが、何かを掴んでいた。言葉にはできない。でも体の中に、確かに何かが変わった感覚があった。陽太は紫電を握る手が、最初より迷わなくなっていた。蒼は氷界を展開する時の消耗が、わずかに減っていた。結衣は和命を使うたびに、流れる気が少しずつ安定してきた。

 夕方、慧が三人を呼んだ。


「そろそろ動く頃かねぇ」慧が言った。

「玄翁のいる最上階への道。南門を抜けなきゃいけない」

「南門には朱雀がいる」蒼が言った。

「そうだねぇ」慧が頷いた。

「でもお前たちなら行けるよ」


 根拠を言わなかった。でも慧がそう言うなら、そうなのだろうという気がした。三人ともそう思った。

 陽太が立ち上がった。紫電を腰に差した。


「行こう」



 南門は、黄龍の中でも一際大きな門だった。

 他の門と造りは同じだが、何かが違った。近づくほどに空気が変わる。熱い。乾いた熱さではなく、どこかから滲み出てくるような熱さが、門の周囲に漂っていた。石畳が微かに温かかった。住人たちは誰もこの通りに近づかない。自然と人が避けている。その理由は、門の前に立っている人物を見れば一目でわかった。

 朱雀だった。

 壁に背を預けて、腕を組んで、つまらなそうに立っていた。陽気な顔が虚空を向いている。金色の瞳が、ぼんやりと門の向こうを見ていた。しかし三人の気配を感じた瞬間、その目が変わった。眠たそうだった表情に、火が灯った。


「来たな」


 朱雀が壁から背を離した。にやりと笑った。祭りの夜に見たあの笑顔だった。あの夜、父が死んだ夜に、この男は笑っていた。陽太の胸の奥で何かが動いた。


「通してもらう」陽太が言った。

「簡単には出れないぜ」朱雀が肩を回した。指先に炎が灯る。小さな炎が、するすると腕を伝って広がっていく。「久しぶりじゃないか。あの夜以来だろ」

「……覚えてる」

「そりゃそうだ」朱雀が笑った。

「お前が面白いもの見せてくれたからな。あの金色」


 陽太が紫電を抜いた。



 朱雀が先に動いた。

 地を蹴った瞬間、炎が朱雀の全身を包んだ。鳳凰のように炎を纏った体が、真っ直ぐ陽太に向かって突進してくる。熱波が先に届いた。陽太は反射的に半歩退こうとして——


「右に一歩。そのまま流せ」


 ハクの声が飛んだ。

 陽太が右に踏み出した。紫電の刃を朱雀の軌道に沿わせるように流す。鳳炎の炎が陽太の左腕をかすめた。熱い。でも直撃ではなかった。朱雀が行き過ぎる。

 その瞬間、陽太の体に力が流れ込んだ。

 電流のような感覚が全身を走った。視界が鋭くなる。体が軽くなる。足の裏から地面の感触がはっきり伝わってくる。陽太の瞳が金色に染まった。紫の残像が空間に薄く残った。


「……速い」朱雀が振り返って目を細めた。

「さっきと違うじゃないか」

「当たり前だろ」陽太が言った。



 蒼が動いた。

 音もなく、足元から冷気が広がり始めた。石畳が白くなる。朱雀の足元に霜が走る。冷気が膝まで上がってきて、朱雀の動きが一瞬鈍った。


「……っ、寒いな」朱雀が舌打ちした。炎を強めようとする。しかし冷気と熱気がぶつかって、朱雀の周囲で空気が揺らいだ。制御が難しくなっている。

「氷と炎は相性が悪いな」蒼が静かに言った。感情のない声だった。「合理的だ」

「うるさい」


 朱雀が炎を膨らませた。冷気を力で押し返そうとする。炎が広がる。熱波が石畳を焦がす。蒼が僅かに後退した。

 陽太が追風で地を蹴った。


 気が足に集中する。爆発的な加速。一瞬で間合いが消えた。迅雷を放つ。雷を纏った刃が朱雀の右腕をかすめた。朱雀が体を捻って回避する。でも完全には避けきれなかった。着地した朱雀の腕から、薄く煙が上がった。


「……やるじゃないか」朱雀が腕を見た。笑っていた。でもその笑顔の奥に、何かが混じり始めていた。



 朱雀の炎が、急に大きくなった。

 制御ではなかった。溢れていた。感情が表に出てくるような、そういう膨らみ方だった。熱波が周囲の建物を舐め始める。石畳が割れる音がした。住人たちの悲鳴が遠くから聞こえた。

 炎が渦を巻いた。朱雀の瞳が揺れている。金色の中に、何か別のものが混じっているように見えた。怒りとも悲しみとも違う、もっと根の深いものが。


「止まって」


 声がした。

 陽太でも蒼でもなかった。

 結衣が前に出ていた。炎の熱波の中を、真っ直ぐに歩いていた。腕輪が淡く光っている。ツキが腕輪の中で静かに息を整えているのが、結衣にはわかった。


「結衣!」陽太が叫んだ。

「大丈夫だよ」


 結衣が手を伸ばした。炎に向かって、ただ手を伸ばした。

 静界が広がった。

 音がなくなった。熱が収まった。炎が結衣の気に包まれて、渦を巻くのをやめた。暴れていた力が、ゆっくりと、ゆっくりと、鎮まっていく。まるで嵐の中に凪が生まれるような、そういう静けさだった。

 朱雀が動きを止めた。

 炎が消えた。



 静寂の中で、朱雀が結衣を見ていた。

 何秒か経った。朱雀は何も言わなかった。ただ結衣を見ていた。その目が、今まで見せたことのない色をしていた。


「……お前、なんで」


 朱雀の声が、低くなっていた。陽気さが消えていた。

 結衣が答えなかった。ただ朱雀を見ていた。穏やかな目で。責めるでも、憐れむでもなく、ただそこにいるような目で。

 朱雀の瞳が揺れた。

 一瞬だけだった。金色の瞳の端に、光が滲んだ。朱雀が気づかれないように顔を背けた。でも陽太には見えた。結衣にも、見えていたはずだった。

 長い沈黙があった。

 やがて朱雀が舌打ちをした。「……チッ」

 壁に背を向けて、腕を組んだ。顔は背けたままだった。


「出口教えてやる」低い声で言った。

「玄翁を倒せばこの街の封鎖は解除される。最上階だ」

「なんで教えるんだ」陽太が聞いた。

「うるさい」朱雀が吐き捨てた。「借りを作りたくないだけだ。それだけだ」


 陽太は朱雀の横顔を見た。何か言おうとして、やめた。今は違う気がした。


「……行くぞ」陽太が蒼と結衣に言った。


 三人が南門をくぐり始めた。

 通り過ぎる時、朱雀が小さく呟いた。陽太の耳にかろうじて届いた。


「……弱ぇな、俺」


 陽太は振り返らなかった。でも少しだけ、足が遅くなった。



 最上階への道は、上へ上へと続いていた。

 南門をくぐった先に、螺旋状の通路があった。黄龍の建物が積み重なった内側を、階段と通路が縫うように走っている。外から見た時には建物の集合体にしか見えなかったが、中に入ると一つの巨大な構造物だとわかった。壁が厚い。天井が高い。どこかの階で人の気配がするが、姿は見えない。

 三人は無言で上った。

 足音が石の壁に反響する。陽太は紫電の柄に手をかけたまま歩いた。朱雀との戦いで体が温まっている。それがいいのか悪いのか、わからなかった。ただ、動いている方が考えずに済んだ。


「何階あるんだ」陽太が呟いた。

「データでは最上階まで三十二層だ」蒼が答えた。「現在十一層」

「まだあるのか……」

「非効率な構造だな」

「そういうこと言ってる場合か」


 ツキが「もうちょっとだよ!」と言ったが、その声に自信がなかった。ハクが「黙って上れ」と言った。



 二十層を過ぎた頃、気配が変わった。

 通路の先、折れた角の向こうから、複数の人間の気配がした。陽太が足を止めた。蒼が目を細めた。結衣が腕輪に手を当てた。

 角を曲がった瞬間、三人は足を止めた。

 通路の中央に、三つの人影が立っていた。

 青龍。白虎。玄武の三人が、道を塞いでいた。それぞれが無言で立っている。感情のない金色の瞳が、三人を見ていた。冷静な目。捕食するような目。諦めたような目。三者三様だったが、どれも同じ温度のなさを持っていた。

 陽太が紫電を抜こうとした。

 その時、後ろから足音がした。


「待ちなよ」


 慧だった。

 いつの間にか後ろにいた。飄々とした顔で、三人と四神の間に歩み出た。白い上着の裾が揺れる。両手を軽くポケットに入れて、まるで散歩でもしているような歩き方だった。

 三人の目が慧に向いた。

 青龍が口を開いた。「……あの医者が動いた」感情のない声だった。

「やれやれ」慧が肩をすくめた。

「物騒だねぇ、三人も並んで」

「行かせるつもりか」

「そういうことだよ」慧が答えた。飄々と、でも揺るがなかった。



 慧が振り返らずに言った。


「行きなよ」


「慧さん」結衣が一歩踏み出した。「でも——」

「ガキは遠慮しないもんさ…」慧が言った。笑っていた。でも声の底に、静かな力があった。

「ここは私がやるよ」


 陽太は慧の背中を見た。

 さっきまで診療所で患者の手当てをしていた人の背中だった。飄々として、達観して、間に合わなかったと言った人の背中だった。でも今その背中は、陽太が知っているどんな背中とも違う佇まいをしていた。

 大和の背中に、少し似ていた。


「慧さん」陽太が言った。

「……強いのか」


 慧が少し間を置いた。


「さあ、どうだろうねぇ」


 三人の一人が動こうとした。慧がそちらに目を向けた。それだけで動きが止まった。

 蒼が静かに言った。「行くぞ」

 陽太は一秒だけ慧の背中を見た。それから前を向いた。


「先に行け」慧が言った。背中を向けたままだった。「三人でいけば十分だよ」


 三人が走り出した。



 通路を駆け上がりながら、後ろで気配がぶつかる音がした。

 衝撃波のようなものが床を伝わってきた。陽太が思わず振り返りそうになった。


「前を見ろ」ハクが言った。

「でも慧さんが——」

「前を見ろ」もう一度言った。今度は静かに、でも強く。「あの人はそのために残った。お前たちがやるべきことは上にある」


 陽太は前を向いた。

 足を速めた。紫電の柄を握り直した。後ろから届く気配の激しさが、慧の強さを物語っていた。あの飄々とした人が、今あそこで三人を相手にしている。


「……絶対戻ってくるからな」陽太が前を向いたまま呟いた。

 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。



 三十二層。

 最後の階段を上りきった先に、扉があった。

 他の扉とは違った。大きく、重く、表面に何かの紋様が刻まれている。扉の縁から薄い光が漏れていた。冷たい光だった。

 三人が扉の前に立った。

 誰も何も言わなかった。言葉は必要なかった。月影郷を出てから、砂漠を越えて、黄龍に入って、朱雀と戦って、慧に会って、修行して、ここまで来た。その全部が、今この扉の前に積み重なっている気がした。

 陽太が扉に手をかけた。


「……行くか」


 蒼が頷いた。結衣が頷いた。

 扉が、重い音を立てて開いた。


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