表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫電  作者: KO1
PR
1/7

序章

 夢の中は、いつも暗かった。

 光のない空間に、黒い影たちが立っている。輪郭だけがあって、顔はない。ただ声だけが、濃い闇の中に響く。


「あの子は管理されるべき存在だ」

「データとして回収する必要がある」

「あの力は俺のものだ」


 声には感情がなかった。人を人として見ていない声。まるで何かの数値を読み上げるような、乾いた確信に満ちた声。

 陽太はその場に立って、動けなかった。逃げなければという気持ちはあるのに、足が地に縫いつけられたように動かない。影たちは陽太のことを見ていない。見えていない。それなのに、言葉の一つひとつが確かに自分に向かってくるような気がした。

 そのとき、影の群れの中に、見知った顔を見つけた。

 大和だ。

 父は黒い影たちの中に立ちながら、何も言わなかった。ただその目が、陽太の方を見ていた。厳しい目だった。いつも稽古のときに向けてくる、あの目だ。それなのに、どこかが違う。普段とは違う何かがその目の奥にあって、陽太にはそれが何なのかわからなかった。

 そしてもう一人。

 女性だった。

 黒い影の中で、その人だけが輪郭より少し鮮明に見えた。長い髪。穏やかな目元。記憶の奥底に引っかかるような顔。懐かしいような、触れれば消えてしまいそうな。誰なのか、わからない。わからないのに、どうしてか胸の奥が痛かった。

 影の一つが口を開いた。

 陽太の正体を告げようとした、その瞬間——



 目が覚めた。

 天井が白い。朝の光が障子を透かして部屋に染みこんでいる。

 陽太はしばらくそのまま動かなかった。胸の上で息が詰まっているような感覚。ゆっくりと息を吐いて、吸う。また吐く。体の緊張がほぐれていくのに合わせて、夢の輪郭もぼやけていく。声は消えた。影も消えた。残ったのは、あの女性の顔だけだった。

 また、あの夢だ。

 いつからか時々見る。昔からではない——気がするが、確かなこともわからなかった。夢の中の自分はいつも動けなくて、いつも何かを言おうとして言えなくて、気づいたら朝になっている。

 起き上がる。頭を軽く振って、着替えを手に取る。考えても仕方がない、と自分に言い聞かせるのも、もう慣れた。



 離れの道場には、既に二人がいた。

 大和が正面に立っている。構えを取るでもなく、ただ立っているだけ。それなのに、その場の空気が違う。背筋が自然と伸びる。何年経っても、父の前に立つときだけはそうなった。

 蒼は横で刀を持ったまま、陽太を一瞥した。表情は動かない。おはようとも言わない。それがいつも通りだから、陽太も何も言わなかった。

 稽古が始まった。

 言葉はほとんどない。大和が動き、蒼が応じ、陽太が入る。刃が風を切る音。足が板の間を踏む音。息遣いだけが道場に満ちる。陽太は動きながら、体の感覚だけに集中しようとした。夢のことを、考えないようにした。

 だが集中しきれないまま打ち込んだ一撃を、大和は最小限の動きで受け流した。


「甘い」


 短い一言。それだけで十分だった。

 やり直す。また受け流される。もう一度。今度は踏み込みを変えた。大和の眉が、ほんの少し動いた。合格とは言わない。それでも陽太には、わかった。

 どのくらい経っただろう。汗が首を伝う頃、道場の入口に人影が現れた。


「ご飯できたよー」


 結衣だった。

 道場の戸口から顔を覗かせて、三人を交互に見る。朝の光の中で、その顔は少し眠そうだった。黒い髪がポニーテールに緩くまとめられている。

 大和が静かに刀を下ろした。それが「終わり」の合図だった。蒼はすでに刀を鞘に納めている。


「わかった」と陽太は答えて、汗を拭った。「すぐ行く」


 結衣が「蒼は?」と尋ねると、蒼は答えずに道場を出た。それが肯定だということを、結衣は知っている。


「相変わらずだね」と結衣が小さく笑った。


 陽太も笑った。夢のことが、少しだけ遠ざかった気がした。


――――――――――――――――――――――


 月影郷は、山に抱かれた村だった。

 街道から外れた細い道を辿り、いくつかの峠を越えた先にある。地図に載っているかどうかも怪しい。それでも村人たちは質素に、しかし確かに生きていた。崩壊後の世界で多くのものが失われたあとも、この村だけは変わらない速度で時間が流れているような、そんな場所だった。

 昼過ぎの通りに、声が響いた。


「だから言ってるだろう!弁償しろよ!」


 行商人の男が子供を怒鳴りつけていた。男の荷台の脇に、割れた陶器の欠片が散らばっている。子供は七つか八つほどの男の子で、唇を結んだまま俯いていた。泣くまいと堪えているのが、遠目にもわかった。

 村人が数人、少し離れたところで様子を窺っている。誰も間に入ろうとしない。行商人は顔なじみではあるが、商売相手でもある。下手に口を出して関係をこじらせたくない——そういう空気が、路地に漂っていた。

 陽太が通りかかったのは、ちょうどその時だった。

 状況を見て、足を止める。一秒も考えなかった。


「すみません」


 男と子供の間に入りながら、陽太は行商人に向かって頭を下げた。


「こいつがやったんですよね。俺たちが弁償します」

「お前、関係ないだろ」

「村の子なんで」


 それだけ言って、陽太は子供の頭に手を置いた。子供が顔を上げる。目が赤くなっていた。陽太は子供を見て、小さく頷いた。「謝れたか?」

 子供が小さな声で「ごめんなさい」と言った。

 陽太は行商人に向き直る。「いくらでしたか。あとで必ず持ってきます」

 男はしばらく陽太の顔を見ていた。何かを見定めるような目だった。やがて大きく息を吐いて、「……まあいい」と言った。「次は気をつけろよ、坊主」

 子供が今度こそ泣きそうな顔で「うん」と答えた。行商人が荷台の欠片を片付け始める。陽太は子供と一緒にそれを手伝った。

 見ていた村人たちがふっと肩の力を抜いた。一人の老婆が「陽太か、助かったわ」と呟くように言った。



 後片付けが終わりかけた頃、子供が陽太の袖を引いた。


「あれ」


 指さした先を見る。通りに面した民家の、低い軒の下。木の枝ではなく、屋根の縁に二羽の鳥が並んで止まっていた。

 オカメインコだった。

 丸い頭に橙色の頬。白みがかった羽。一羽は少し小さく、もう一羽は大きい。二羽ともこちらを向いていて、じっとしていた。逃げようとしない。風が吹いても動じない。


「なんか、じっと見てくるよな」と子供が言った。


 陽太は少し首を傾けた。確かに——その目が、ただの鳥のものとは思えなかった。見られている、という感覚。値踏みでも警戒でもなく、もっと別の何か。


「またあの鳥か」


 近くにいた村人が呟いた。「時々見るんだけどな。どこから来るんだろう」


「飼い鳥じゃないんですか」と陽太が聞く。

「違う違う。籠も持ち主もいない。気づいたらいて、気づいたらいなくなる」


 陽太はもう一度、二羽を見た。

 インコたちは、まだそこにいた。風に羽を揺らしもせず、ただ静かに、陽太を見ていた。


「……変な鳥だな」


 子供が笑った。陽太も笑ったが、目だけは少し、鳥から離れなかった。


――――――――――――――――――――――


 夜になると、村は静かになる。

 祭りの前日というのに、月影郷の夜は深く、落ち着いていた。遠くで虫が鳴いている。風が山から降りてきて、軒先の風鈴をかすかに揺らす。陽太は縁側に腰を下ろして、しばらくそれを聞いていた。

 眠れなかった。

 理由はわかっている。朝に見た夢が、まだどこかに引っかかっていた。あの女性の顔。声だけの影たち。大和の目。夜になると輪郭がくっきりしてくる気がして、考えないようにすればするほど浮かんでくる。

 立ち上がった。このまま部屋にいても仕方がない。

 草履を履いて、外に出る。月が出ていた。雲一つない夜空に、丸みを帯びた月が低く浮かんでいる。地面に影が落ちて、村の輪郭がくっきりと浮かびあがっていた。

 離れに向かって歩き出したのは、特に理由があったわけではない。体が勝手にそちらへ向いた、という方が正しかった。

 風切り音が聞こえたのは、道場まであと数歩のところだった。

 足が止まる。

 音を立てないように近づいて、戸の隙間から中を覗く。



 月明かりが、道場の床を白く染めていた。

 結衣が、舞っていた。

 刀を持って、音もなく動いている。踏み込みも、振りも、体の重心の移動も——全部が滑らかで、止まるところがなかった。剣術の型というより、もっと自然なものに見えた。水が流れるような。風が木々の間を抜けていくような。

 陽太は息を止めた。

 普段の結衣を知っているから、余計に驚いた。「ご飯できたよー」と道場の戸口から顔を出す結衣。蒼の無愛想をさらりと受け流す結衣。いつも誰かの傍にいて、いつも穏やかな目をしている結衣。その同じ人間が今、一人で月の中に立って、誰にも見せるつもりのない顔をしていた。

 凛としていた。

 刃が月光を受けて光る。結衣の黒い髪が動きに遅れてふわりと流れる。その一瞬、陽太には結衣の横顔がはっきり見えた。目を細めて、何かを見つめるような表情。遠くを見ているような、それでいて自分の内側を見ているような。

 口から言葉が漏れた。自分でも気づかないうちに。


「……月より綺麗じゃないか」


 刀の動きが止まった。



「誰!」


 結衣が振り返る。声に鋭さがあった。普段とは別人のような声だった。

 月明かりの中で目が合う。

 一秒。二秒。


「……陽太さん」


 声から力が抜けた。結衣は刀を体の後ろに回して、両手で抱えるように持った。隠そうとしている。顔が赤いのは、月明かりのせいだけではないだろう。


「見てたわけじゃないんだけどな」陽太は頭を掻いた。「通りかかったら、その……綺麗だったから」

「もうっ」結衣が刀をさらに後ろに押しやった。「見ないでよ、こういうの」

「なんで。隠さなくていいだろ」

「恥ずかしいから帰って」

「わかったわかった」


 陽太は踵を返した。引き際はわかっているつもりだった。草履が砂を踏む。夜風が頬を撫でる。

 でも、少し歩いたところで、足が止まった。

 振り返る。

 結衣はまだそこに立っていた。刀を胸の前に抱えたまま、こちらを見ていた。さっきの鋭さはもうない。ただ静かな目で、陽太を見ていた。


「……おやすみ」

「……おやすみなさい」


 月明かりだけが、二人の間にあった。


――――――――――――――――――――――


 翌日の夕暮れから、村が変わった。

 普段は静かな通りに灯りが並ぶ。提灯が軒から軒へと連なって、風に揺れるたびに橙色の光が石畳に揺らめいた。屋台が出た。食べ物の匂いが漂ってくる。焼いた魚の香り、甘い砂糖の匂い、どこかで酒の燗をしている気配。村人たちが思い思いの格好で通りに出てきて、笑い声があちこちで重なった。

 年に一度の、開村祭だった。

 陽太は人混みの中を蒼と並んで歩いていた。並んで、というのは正確ではないかもしれない。蒼は陽太より半歩後ろを、自分のペースで歩いている。声をかけなければ喋らない。表情も動かない。それでも祭りの夜にこうして出てきているのは、父に言われたからではなく、蒼自身がそうしているのだ——陽太はそう思っていた。


「賑やかだな」と陽太が言った。

 蒼は答えなかった。

「屋台、何か食うか」

「必要ない」

「そうかよ」


 陽太は一人で焼き団子を買って、歩きながら食べた。甘い。素朴な甘さだった。こういう味が、この村にはよく合っていると思った。



 広場に人が集まり始めたのは、祭りも中頃を過ぎた頃だった。

 中央に空間が作られている。村人たちが自然と円を描くように並んで、その中心を空けていた。老いた者も若い者も、子供も、皆が同じ方向を向いている。

 結衣が、そこに立っていた。

 昨夜とは違う。衆目の前に立つ結衣は、凛としていた。緊張しているようには見えなかった。もともとそこに立つために生まれてきたような、そういう佇まいだった。黒い髪がまとめられ、着物の袖が静かに垂れている。刀を両手で下げたまま、目を閉じている。

 広場が静まった。

 笑い声が消えた。酒の席の声も、子供たちのはしゃぐ声も、全部が吸い込まれるように消えて——静寂だけが残った。

 結衣が動き出した。

 昨夜よりも、遅かった。

 一つひとつの動きが、丁寧に、深く、空気に刻まれていくような動きだった。刃が月明かりと提灯の光を両方受けて、複雑な軌跡を描く。足が地を踏む。体が弧を描く。髪が遅れて流れる。どこにも無駄がなかった。どこにも力みがなかった。

 陽太は人混みの中から、その姿を見つめていた。

 昨夜と同じ動きだとわかった。それなのに、全く別のものに見えた。一人で月の中で舞っていた結衣と、今ここで衆目の前に立つ結衣。どちらも本物で、どちらも結衣だった。

 蒼がいつの間にか隣に並んでいた。何も言わない。ただ、見ていた。



 広場の端、人混みから少し離れたところに、老人たちが固まって立っていた。

 村でも年嵩の者たちだった。普段は屋台を冷やかしたり、縁台で酒を飲んだりしている顔ぶれだ。今夜はそのどちらもしていない。ただ静かに、結衣の剣舞を見ていた。

 その表情が、祭りを楽しむだけのものでないことに、陽太は気づいていなかった。

 老人の一人が、隣の者に囁くように言った。声は人混みに消えて、陽太のところまでは届かない。もう一人が小さく頷く。誰も笑っていない。安堵でも不安でもない、もっと複雑な何かを顔の奥に抑えた表情で、老人たちは結衣の動きを追っていた。

 まるで、確認するように。

 まるで、祈るように。



 剣舞が終わった。

 一瞬の静寂のあとに、歓声が上がった。大きな歓声だった。子供が飛び跳ねて、大人たちが手を打った。結衣が刀を下げて、静かに一礼する。その顔に、ようやく少し表情が戻った。

 陽太は拍手しながら、息を吐いた。

 胸の中に、うまく言葉にならない何かが残っていた。綺麗だったというのとは少し違う。あの剣舞には、自分の知らない何かがある——そんな予感に似た感覚だった。

 蒼はいつの間にか、また半歩後ろに戻っていた。

 広場の端では、老人たちがまだ何かを話していた。

シーン⑤ 四神の襲撃

 歓声がまだ広場に残っていた。

 結衣の剣舞が終わって、祭りは再び賑やかさを取り戻していた。屋台に人が戻り、笑い声が重なり、提灯の橙色が夜に滲んでいる。陽太は人混みの中で団子の串を持ったまま、どこへ行くともなく立っていた。

 大和が、動きを止めた。

 人混みの中で突然足を止めた父の背中を、陽太は見た。何かを探るように、静かに周囲を見渡している。いつもの厳格な佇まいとは違う。研ぎ澄まされた、獣のような静けさだった。

 蒼が僅かに眉をひそめた。

 陽太の笑顔が消えた。「……何かいる?」

 誰も答えなかった。答える必要がなかった。

 提灯の炎が、一斉に揺れた。

 風ではなかった。

 次の瞬間、空が赤くなった。



 炎が、上から来た。

 鷹が急降下するような軌道で、一条の火が夜空を裂いた。村人たちが気づいた時にはもう遅かった。広場の中央に着弾した炎が弾けて、石畳を焦がし、屋台の幕を舐め、人々の悲鳴を引き出した。

 混乱が広場を呑み込んだ。子供が泣き、大人が走り、提灯が落ちて地面で転がった。

 炎の中から、人影が降り立った。

 男だった。着地の衝撃を全く気にしていない様子で、ゆっくりと立ち上がる。陽気な笑みを浮かべていた。この混乱の中で、その笑顔だけが場違いなほど無邪気だった。金色の瞳が、炎を映してぎらりと光る。

 朱雀だった。

 その後ろに、もう一人。炎も纏わず、静かに立っている。感情の読めない目をした人物だった。朱雀とは対照的に、その場の空気に溶け込むような存在感の薄さがあった。しかしその目だけは、鋭く広場全体を見渡していた。お目付け役、とでも言うような立ち方だった



 大和が前に出た。

 村人たちへは一言も言わなかった。言葉より先に体が動いていた。刀を抜く音が、悲鳴の隙間に鋭く響く。


「下がっていろ」


 それだけだった。

 朱雀が笑った。「来いよ」

 大和が踏み込んだ瞬間、その場の空気が変わった。

 陽太には見えなかった。動きが速すぎた。ただ、刃が光る軌跡と、炎が散る気配と、地面を蹴る音だけがあった。朱雀が笑いながら炎を撒く。大和がそれを最小限の動きで裁いていく。圧倒的だった。父の強さを知っているつもりだったが、こうして実戦で見るのは初めてだった。

 朱雀の笑顔が、少し変わった。


「へえ」


 感心したような声だった。炎をさらに膨らませようとして——お目付け役が手を上げた。短い動作だった。朱雀が舌打ちをして、炎を抑える。

 お目付け役が、どこかへ合図を送った。

 気配が増えた。

 二人。

 広場の端から、別の人影が現れた。四人が揃って初めて、大和の動きが変わった。一対一ではなかった時の対応に切り替わる。それでも崩れない。それでも踏み込みは鋭い。

 しかし、じわじわと追い詰められていくのが、陽太にはわかった。



「俺も——」


 気づいたら足が動いていた。

 腰の刀に手をかけながら踏み出した陽太の腕を、蒼が掴んだ。無言だった。引き留めるでもなく、ただ掴んでいた。その手に力がこもっているのが、陽太にはわかった。

 大和の声が飛んだ。


「来るな」


 足が止まった。

 一言だった。それだけで体が動かなくなった。命令ではなかった。懇願でもなかった。ただ、父の声だった。稽古の時も、叱る時も、飯を食う時も、ずっと聞いてきたあの声が、今夜だけ違う響きを持っていた。

 陽太は唇を噛んだ。

 結衣が横に来て、陽太の前に立った。小さな背中だった。震えているのか、いないのか、陽太には見えなかった。


「駄目だよ、陽太さん」


 静かな声だった。泣いてはいない。それなのに、その声は陽太の胸に真っ直ぐ刺さった。

 広場の中央では、大和が四人を相手に動き続けていた。


――――――――――――――――――――――


 大和の動きが、遅くなった。

 ほんの僅かだった。踏み込みが半分の深さになった。刃の軌跡が、数寸短くなった。それだけのことだった。しかしそれだけのことが、陽太には見えた。毎朝向き合ってきた体の動きだから、わかった。

 膝が、ついた。

 大和が地面に片膝をついた瞬間、陽太の中で何かが弾けた。

 音もなく、突然だった。胸の奥から何かが溢れ出してくる感覚。熱いような、痛いような、それでいて止められないような。感情なのか力なのか、自分でもわからないまま、それは体の外へ出ようとしていた。

 気づいたら、蒼の手が陽太の腕から離れていた。

 気づいたら、結衣が後ろに一歩退いていた。

 気づいたら、周囲の空気が変わっていた。



 陽太には何も見えていなかった。

 ただ、溢れていた。

 制御できなかった。しようとする前に、もう出ていた。力が皮膚の外へ滲み出すような感覚。空気が震えているのが自分でもわかった。足元の石畳にひびが入る音がした。風が巻いた。巻いた風が、炎を押し返した。

 陽太の瞳が、金色に染まった。

 朱雀の笑顔が消えた。

 四人が、足を止めた。


「こいつが……」


 朱雀が呟いた。陽気さが消えていた。金色の瞳が陽太を捉えて、そこから動かなかった。笑いでも怒りでもない、初めて見る表情だった。お目付け役が素早く朱雀の腕を掴む。短く何かを言う。朱雀が唇を引き結んだ。

 四人が、距離を取り始めた。

 撤退だった。

 炎が消えた。気配が遠ざかった。夜の闇に四つの人影が溶けていく。朱雀だけが最後にもう一度振り返って、陽太を見た。何かを言おうとして、言わなかった。そのまま闇に消えた。

 静寂が落ちた。



「陽太!」


 結衣の声だった。

 普段と違った。名前だけだった。「陽太さん」ではなかった。そのことに陽太は気づかなかった。声の必死さだけが、靄のかかった意識に届いた。

 我に返った。

 金色が、黒に戻っていく。力が引いていく。体が重くなった。膝が笑った。呼吸が荒かった。自分が今まで何をしていたのか、よくわからなかった。

 振り返った。

 大和が、地に倒れていた。



 駆け寄った。

 声をかけようとして、声が出なかった。膝をついて、父の体に手を伸ばす。肩が、重かった。こんなに重かっただろうか。こんなに小さかっただろうか。

 大和が薄く目を開けた。

 陽太の顔を見た。長い間、ただ見ていた。厳しい目だった。いつもの目だった。それなのに今夜だけ、その奥に別の何かがあった。朝の夢の中で見た目と、同じものだった。

 口が、開いた。

 かすかな声だった。風が止んでいなければ聞こえなかったかもしれない。


「……母は、生きている」


 それだけだった。

 目が、閉じた。



 陽太は動けなかった。

 父の肩を掴んだまま、動けなかった。何かを言おうとした。呼びかけようとした。言葉にならなかった。頭の中が空白だった。空白の中に、たった一言だけが残っていた。

 母は、生きている。

 母は。

 生きている。

 結衣が隣に来た。膝をついて、陽太の隣に座った。何も言わなかった。ただそこにいた。蒼は少し離れたところに立って、大和を見ていた。その表情は読めなかった。いつもと同じ無表情だった。それなのに、どこかが違った。

 広場の端で、老人たちが頭を垂れていた。

 誰も泣いていなかった。泣けなかった。

 夜だけが、深くなっていった。






── 序章 登場人物・用語解説 ──

登場人物

月影 陽太

18歳。月影家長男(血縁なし)。主人公。明るく真っ直ぐだが無理を抱え込む。「誰かのために強くなる」が信念。

月影 蒼

16歳。月影家次男。結衣と双子。冷静・理論最適化型。感情を押し殺している。

月影 結衣

16歳。月影家三女。蒼と双子。優しく包容力がある。陽太を「陽太さん」と呼ぶ。

月影 大和

月影家当主・師範。陽太たちの父。厳格・寡黙。序章で死亡。

朱雀

黄龍の幹部・四神の一人。陽気・感情暴走型。火属性使い。



用語

月影郷

山あいに隠れ住む小さな村。月影流の本拠地。

御帳みとばり

月影郷を外の世界から隠す薄い膜。真の目的を知るのは老人たちだけ。

開村祭

年に一度の祭り。真の目的は御帳を張り直す儀式。結衣の剣舞が封印プログラムの一部。

月影流

気・肉体・精神の調和によって成立する総合戦闘体系。

四神

黄龍の幹部。朱雀・青龍・白虎・玄武の四人。



炎鷹えんよう

朱雀の技。鷹のように急降下しながら炎を放つ。朱雀の代名詞技。

気の力

月影家が使う力。使用時に瞳の色が変わる。



── 序章 了 ──

次章:第一章・黄龍へ続く


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ