9.ケトの話
翌朝、私は逸るアドリアンを宥めながら「眠る三毛猫亭」へ向かった。ケトはお留守番だ。
「姉様、早く早く」
「そんなに急がなくても大丈夫よ、アドリ」
リュカを家庭教師に迎えたいと父に願い出ると、あっさり許しを得ることができた。むしろ父は大喜びで、すぐにでも公爵家の紋章を掲げた四頭立ての馬車を向かわせそうな勢いだった。どうやらリュカは私が思っていたよりもずっと高名なエルフだったようだ。だが、使いの者がリュカに『宿の主人に迷惑がかかるから』とやんわりと断られていたようだった。
宿の扉を開けると、リュカは食堂で遅めの朝食を取っていた。
「ここのエールは美味しいんだよ。ブリー村から直送してもらってるんだって」
リュカがビールを片手に上機嫌で言った。
「朝からお酒ですか?」
思わずそう言うと、リュカは面白がるように目を細めて笑った。
「うふふ、少しだけだよ」
その言い方も仕草もなぜか絵になるエルフだった。
「お荷物は従者がお持ちいたしますので、どうかお任せくださいませね」
「ありがとう。荷物はあまりないんだけど、部屋にまとめてあるから持ってきてもらえると助かるな」
リュカがそう言うと、従者たちは「かしこまりました」と一礼し、彼の部屋へ向かった。アドリアンも、少しでも錬金術の道具があるのではないかと期待して、その後をついて行ってしまった。
私がその様子を見届けていると、リュカが口を開いた。
「そういえば、リュァ――じゃなかった、ケトの依頼品は何かって質問だったよね?」
いたずらを思いついた子供のような笑顔を浮かべるリュカを見て、私は頷いた。
「あ、はい。差し支えなければ」
リュカの話によると、ケトはその昔、飼い主にとても大事にされて長生きした猫だったそうだ。飼い主が亡くなったとき、七日七晩泣き続けていたら、いつの間にか妖精猫ケットシーになっていたらしい。
リュカがケトに初めて出会ったのは、エルフの国にある妖精の森だった。
『これは可愛い訪問者だね』
『ここ何処やねん。ワイ、道に迷うてもうたみたいやわ』
『ここは妖精の森だから、君がいるのは自然な事だよ』
そのときリュカは、ケトの首に下がった革紐と小さな白いチャームに気づいたそうだ。
『それ、猫の乳歯だよね? 凄く綺麗だ。もしよかったら譲ってくれないかな?』
『なんでやねん』
『猫の乳歯はとても貴重なんだ。強力な幸運のお守りが作れるよ』
『これはあかん。簡単に渡せるもんちゃうねん。ワイのお宝やねんからな』
リュカは言葉以上の意味を感じて、少し考えてからこう言った。
『それはそのままでも幸運のお守りになるんだけれど、僕が錬金し直せばもっと強力になるよ?』
『お前に何の得もあらへんやろ』
『そうでもないよ。猫の乳歯はなかなか手に入らなくてね。一度錬金術で使ってみたかった素材なんだ』
『ワイにはもう幸運なんていらへんねん』
『……それは残念だな』
リュカは驚いたように言った。
それからしばらくケトはエルフの国で暮らした。私にはよく聞き取れなかったリュァンフェオスというケトの名前は、そこで仲良くなったラヴァンというエルフに付けてもらったのだそうだ。しかしある日、ケトはふいに姿を消した。そして何百年も経った頃、再びエルフの国に戻ってきたという。
『外の世界はどうだった?』
『まあまあやな』
『そうか。僕もそろそろ旅に出ようと思っていたんだ。今日は君に会えてよかったよ。まだその乳歯を僕に譲ってくれる気にはならないかな?』
『お前もしつこいな、ほんま』
『でもね、僕はいいことを思いついたんだよ』
『なんやねん?』
『僕に乳歯を使わせてくれたら、君が欲しいものを何でも作ってあげるよ』
『なんでも……か? ……せやったら』
ケトはしばらく黙ったまま乳歯のチャームをそっと肉球で撫でた。
『これは……ワイの飼い主が作ってくれたもんなんや。あの人が死んでからもうだいぶ長いこと時間が経ってもうてな……時々忘れてまいそうになるんや。せやから……あの人のことをずっと覚えていられるような……そんな物が欲しいねん』
『なら永遠に記憶を閉じ込めておけるチャームを作ってあげるよ』
『そんなもん、ホンマに作れるんか?』
『もちろんだよ。あと、星霜花があればね』
『そうか……ほな』
こうして因縁の百年が過ぎたのだという。
猫の乳歯は、ほとんどの場合いつの間にか生え変わってしまうため、見つけるのはとても難しいそうだ。それでもそれに気づき、お守りとしてケトに持たせてくれた飼い主さんのことを思うと心が温かくなった。
そして、公爵邸の庭に三日月の夜が訪れた日。リュカが錬金術で作ったチャームに、ケトの記憶を封じ込める魔術が施されることになった。
ケトは静かにリュカが描いた魔方陣の中に佇んでいた。リュカが唱える呪文をケトも続けて唱えると、月の光が雪のように降り注ぎ、ケトを包み込んだ。すると、胸の前で握りしめていたチャームが、その光を受けて淡い輝きを集め始めた。
『安心してな。ワイ、今めっちゃ幸せやで』
そんな声が聞こえたような気がした。
私たちは、ケトの手の中で光るそのチャームをただ見守っていた。




