33.大精霊の加護
王宮の裏門から続く荷捌き場は朝ほどの活気はなく、小麦袋を積んだ荷馬車が一台停まっているだけだった。厨房へ続く通路では、薪の束を抱えた使用人がひとり足早に歩いている。
私たちはそんな静かな通用口付近に、水瓶を載せた馬車を停めた。
「この水瓶を運ぶの、手伝ってくれない?」
馬車を降りると、私はそうクラトスに声をかけた。
「断る! 我はそのような下僕の真似事はせぬ」
予想通り、威厳たっぷりに断られてしまった。
クラトスは人の姿をとっていても、尊大な態度を崩さないので、人前では注意が必要だった。かつて一度、うちに来た貴族がうっかりクラトスに用事を言いつけて、大変なことになりかけたことがあった。
それでも私は食い下がるように言った。
「リオン殿下に持たせるわけにはいかないでしょ?」
町人に扮しているとはいえ、さすがに王子に水瓶を運ばせるわけにはいかない。
「それに、御者は喜んでやってくれたじゃない」
「ふむ。馬という獣を意のままに御するのは、なかなかに面白かったぞ」
「荷物を運ぶのも、きっと面白いわよ」
「だが断る」
間髪を入れない返答だった。すると横からリオン王子が口を挟んだ。
「いや、私が持つよ」
「そんな訳にはいきません!」
私もそれには間髪を入れずに答えた。
「ほれ、コヤツもこう言っているではないか。何故、我がそのような事をせねばならぬのだ!」
「もういいわよ! 私が持つから!」
「いや、フィアナ、私が――」
「殿下は黙っていてください。こう見えて、私、体は鍛えているんですからね」
私は得意げに言い、水瓶を持ち上げた。だが次の瞬間、手を滑らせて危うく落としそうになってしまった。
「わっ!?」
「ちょっとあんた! 落とさないでよね!」
すかさずパピリアの文句が飛んできた。
「フィアナ、頼むから私に持たせてくれ!」
リオン王子が半ば懇願するように言って、結局、水瓶は王子が持つことになった。
出たときと同じように、プリズマの幻影は私たちをまるで透明人間のようにしてくれた。衛兵たちの目の前を通り過ぎても、誰ひとりこちらに気づくことはなく、リオン王子はそんな状況をとても楽しんでいた。まるで冒険の続きを楽しむ子供のように目を輝かせ、弾むような足取りで先を歩いていった。
私室の前にたどり着き、扉を開けても衛兵たちは最後まで気づかなかった。
部屋に入ると、王子は抱えていた水瓶をテーブルの上に静かに置いた。そして小さく息をつくと、兄との再会を願うような言葉を口にした。
「兄上は、どのような旅をなさったのでしょうね。王宮にはいつ遊びに来てくださるでしょうか。だいぶお疲れのようでしたから、私から会いに行くのもご迷惑でしょうか」
出奔した王子の物語が一冊書けてしまいそうだ。私は王国の先行きを少し心配した。
「大したことあらへんわ。ラヴァンがあんじょううまいことやってくれたさかい」
ケトが言った。
「ラヴァン……?」
「ケトの知り合いで、正統王国にいるエルフの方です」
「頼りになる奴やで。ワイは嫌いやけど」
ケトはひと言嫌味を挟まないと気が済まないのだろうか。
「そんなこと言ってるけど、会いに行くのを楽しみにしてたじゃない」
「してへんわ!」
「ねえ、そんなことより、早く水瓶の蓋を開けてちょうだいよ」
パピリアは先ほどから待ちきれない様子で、リオン王子の周りをせわしなく飛び回っていた。
「おいチョウチョ、その前にワイにひと言『ありがとう』くらい言えんのか、コラ!」
「チョウチョじゃないって言ってるでしょ! バカネコ!」
「なんやと、羽ぇむしったるぞ!」
「分かった、分かった」
王子は苦笑しながら二人を宥めると、テーブルに置いた水瓶へ手を伸ばした。
「待たせたな、パピリア」
そう言って、ゆっくりと水瓶の蓋を開ける。すると、部屋いっぱいに澄んだ泉の香りがふわりと広がった。
パピリアはケトとじゃれ合うのをやめ、水瓶へ向かって慌てて飛んでいった。そして、たどり着くや否や、水瓶の中へ身を躍らせた。
「ああ、なんだか力が湧いてくるようだわ」
そう言って、嬉しそうに水飛沫を上げた。ケトがテーブルに飛び乗り、水瓶の中を覗き込んだ。
「どう見ても、ただの水にしか見えへんけどな」
けれど、ケトがそう言った次の瞬間、水瓶から光があふれた。
「ギニャ~!」
驚いたケトがテーブルから転げ落ちる。
パピリアはあふれる光を見つめながら、自分の体を唖然と見下ろした。
「なんだか……変だわ」
パピリアがそう小さく呟いた瞬間、光はさらに勢いを増した。
パピリアの体が水瓶からふわりと舞い上がり、あふれる光はますます輝きを増して、その体を繭のように包み込んだ。
「何が……起きてるの?」
私は転げ落ちたケトを抱き上げ、その光る繭を見つめた。
パピリアが羽化を待つ蝶のように、眩い光の中でそっと体を丸めると、繭の輝きは脈打つように明滅を始めた。
私たちはただ息を呑み、その神秘的な揺らめきを見守る。
やがて輝きが静かに収まると、その中心に、まるで聖女のような神々しい姿が現れた。彼女が纏う白いローブには金の模様が浮かび、腰には鮮やかな緑の蔦と輝く銀の紐を編んだ細いベルトが巻かれている。
彼女は鈴の音のように澄んだ声で告げた。
「私は大精霊となりました。世界を正しき姿へ導くために授かった聖なる力をもって、あなたを照らす光となりましょう」
王子が驚きに息を呑んだ。
「パピリア……なのか?」
けれど、王子がそう呟いた次の瞬間、聖女の姿はパチンと弾けるように消え、気づけば元の小さなパピリアがそこに浮かんでいた。
「えへへ、大精霊にはなれたみたいだけど、やっぱり精霊の泉に行かないと、この姿は保てないみたい」
パピリアは恥ずかしそうにしていたが、口元には嬉しさを隠しきれない笑みが浮かんでいた。
***(小話)
そういえば、これはアドリアンが王都の別邸に遊びに来たときの話だ。
「なんだか、不思議なお話よね?」
私が精霊と王子の話を聞かせると、アドリアンは感心したように頷いていた。
「お姉様はやっぱりすごいです。精霊の印を持っているなんて」
「そっち? でも、すごくはないけど、私も本当にびっくりしたわ」
パピリアに言われたとおり、鏡で確かめてみると、そこには淡い銀色の幾何学模様の印が浮かんでいた。だが、光の加減によって見えたり見えなかったりするので、知らなければただの痣のようなものにしか見えない。
「僕にも見せていただけませんか? その、精霊の印を」
アドリアンは目を輝かせて私に言った。
「そ、そんなの無理よ!」
思いのほか強い口調で断ってしまった。するとアドリアンは「……す、すみません」と肩を落とした。
「ち、違うの。別に怒っているわけではないのよ」
私は慌て弁解した。ただ、それはとても言いにくいことだったのだ。
「その……だから……お尻にあるから無理なのよ」
「!」
次の瞬間、アドリアンの目が大きく見開かれた。
「アドリがどうしてもって言うなら、見せてあげてもいいけど」
「い、いえ!……け、けっこうです」
首をぶんぶんと振るアドリアンの頬は、見る見るうちに赤く染まり、やがて火が出そうなほど真っ赤になった。
***(小話)
財務卿を務める父は、公爵領と王都をひと月の半分ずつ行き来している。事件が起きたのは、私がクラトスと別邸で過ごしていた時のことだった。その日、父は数人の部下を伴って別邸を訪れていた。
「おい、そこのお前。馬車から荷物を降ろしておけ」
どうやら、その貴族はクラトスを公爵家の従者だと思ったらしい。
その瞬間、私の護衛として控えていたクラトスのこめかみに青筋が浮かんだ。
「無礼者。我を誰だと思っている」
家の者たちには、彼がリュカ先生の知り合いで、私が時折雇う風変わりだが腕の立つ護衛だと伝えていた。ただ、気難しいところがあるので、気安く話しかけたり用を言いつけたりしないよう、あらかじめきつく言い含めてあったのだ。
だが、その貴族がそんな事情を知るはずもなかった。クラトスの怒声に貴族本人はもちろん、付き従っていた使用人たちまで青ざめていた。
私は慌ててクラトスをその場から連れ出し、家の者たちと総出でその貴族に平身低頭して謝る羽目になった。騒ぎを聞きつけた父もすぐに駆け付け、貴族への謝罪と事情の説明に追われた。
すべてが片付いた後、父はこめかみを押さえながら深い溜息をついた。結局、その日私は外出を禁じられ、父のお説教を延々と聞かされるはめになった。
なお、当のクラトスはというと、先ほどの騒ぎなど微塵も気にした様子はなく、気づけばいつもどおりの不機嫌そうな顔で立っていた。人間の営みなど彼には何の興味もないらしかった。




