32.兄の帰還
兄が戻ってくるとケトから報せがあった。そのことをリオン王子に伝えると、どうしても兄を出迎えたいと言うので、私はリオン王子と王都の入口で兄の帰りを待つことにした。
それは、夏休み最後の日の事だった。
王子と一緒に行くとはいえ、大げさな出迎えにはしたくなかった。そこでリオン王子は体調不良を理由に、しばらく部屋で休むと周囲に伝えた。そして、新たな従魔となったプリズマの幻影を利用し、私たちはこっそり王宮を抜け出した。王子は護衛なしの外出がよほど嬉しかったのか、始終とても楽しそうだった。
王都を囲む城壁は三階建てほどの高さがあり、東西南北に四つの門がある。南の大門が一番賑やかで、市場へ急ぐ商人の荷馬車や冒険者たちで溢れ返っていた。衛兵たちは慣れた様子で大門を通る人々を検問している。
私たちは乗ってきた馬車を背に並んで立ち、行き交う人々をぼんやりと目で追っていた。
「本当にクラトスは……カオスロードなのですか?」
御者に扮したクラトスを見つめながら、王子はぽつりと漏らした。
クラトスが人の姿にもなれると知ってからは、護衛に扮してもらうことも多くなった。護衛や従者を連れて歩けという父の小言を避けるには、犬の姿よりも都合がよかったからだ。
「隠していて、本当に申し訳ありませんでした」
私もクラトスを改めて眺めながら言った。
「賢明な判断だと思います。カオスロードを従魔にしているなどと知れたら、あなたの身に何が起こるか想像もできません」
「な、何が起こるかって……?」
「少なくとも他国から目をつけられるでしょう。カオスロードは存在が疑われるほどの魔物ですから」
「そ、そんなに……ですか……?」
カオスロードは確かに遭遇率の低い最強クラスの魔物だが、家の者が怖がるからと隠していただけだった。
「このことを知っているのは兄と弟、それにリュカ先生だけですから、だ、大丈夫だと思います」
「フィアナには驚かされてばかりです。精霊が見えたり、カオスロードを従魔にしていたり。それなのに、そんな素振りをまったく見せないのですから」
「す、すみません」
「私に謝るようなことではありません。ただ……少し安心しました」
「何がですか?」
「いえ、なんでもありません。ところで、フィアナ……」
「はい」
「その……あとで渡したいものがあるのです。それに、話したいことも……」
王子の声が、少しだけ震えていた。
「はい。何でしょうか?」
「……大切な話です。あなたに関係がないとは言いきれ――」
「よお、嬢ちゃんたち。待たせてもうたな」
ケトが大門の衛兵をすり抜け、私たちの足元へ駆けてきた。どうやら猫に検問の必要はないらしい。
「ケト! お帰りなさい!」
駆けてきたケトを抱きしめようとした私の腕は、ひらりとかわされた。
リオン王子は、猫の姿のままで話すケトを言葉もなく見つめていた。
「……」
「なんや、ワイが従魔やってバレてもうてたんとちゃうんかい」
「あ、いや。本当にしゃべるのだな……」
リオン王子は膝をついて、ケトの頭を撫でた。
「ご苦労様、ケト」
「出迎えご苦労さんやな、王子はん」
馬の手綱を引きながら、兄も遅れて私たちのもとへたどり着いた。
「ただいま戻りました」
兄は王子に向かって一礼した。兄の外套も、日に焼けた顔も旅の埃で薄汚れていた。けれど、馬を扱う手つきも、その表情も、以前よりずっと逞しく見えた。
「お帰りなさい、お兄様」
そんな兄に、私は優しく声をかけた。隣で、リオン王子も静かに頭を下げる。
「ご苦労様でした。私のために遠くまで……。本当に感謝しています。そして、無事に戻られたことを、なによりも嬉しく思います」
「いや、俺の方こそ、こんな旅の機会をいただけて、とても感謝しています」
「お兄様、なんだか頼もしくなったみたいだわ」
「へへっ、そうか?」
兄は照れたように笑い、後ろ頭をかいた。
「危険な旅だったのでしょうね」
リオン王子の瞳には、どこか尊敬にも似た憧れの色が浮かんでいた。
私はからかい半分に忠告する。
「リオン殿下。冒険に出たいなんて、また言い出さないでくださいね」
「あ、あれはその……」
王子はたちまち頬を赤くした。
「ずっと気がかりなことがあって、それで……つい。いや、その話はもう忘れてください、フィアナ」
慌てたように言う王子に、私は微笑んだ。そんな私たちの様子を見ていた兄が、ぼそりと言った。
「なんか二人とも、雰囲気変わったな」
「お兄様こそ、新米冒険者は卒業みたいね」
「俺はとっくに卒業してるの! 新米って言うのはな、一年以内の冒――」
「大変やったで、ほんま。回復薬はアホほど使うわ、宿屋にはぼったくられるわ、ど新米丸出しやったわ」
「ちょっ……ケト! それは内緒にしてくれって、頼んでただろ!」
「お兄様ったら」
そうして、私たちは久しぶりに笑いあった。
「旅のお話をぜひ、王宮で聞かせていただけませんか? 兄上」
「あ、あ、兄上っ!?」
「婚約者の兄君なのですから、そうお呼びしてもいいかと」
「いや、そんな! フィアナは兄と呼んでくれますが、俺は家を出ているので。そんな……恐れ多いです」
「そう……呼ばせていただきたいのです……だめですか?」
リオン王子は精霊の件で「自分から聞けばよかった」と後悔していたから、今回は自分の願いをはっきり口にしたようだった。王子は少しずつ変わってきているのかもしれない。我儘に聞こえるかもしれないとか、王太子として軽率かもしれないとか、そんなことで躊躇するのではなく、素直に願いを口にする。そう決意したようにも見えた。
『ねえ、ねえ、そんなことより、早くそれを開けてよ』
泉の水が気になって仕方がないらしいパピリアが、私たちの会話に割り込み、鱗粉をきらきらと振りまきながら現れた。
「ここで?」
私がパピリアに答えると、兄が怪訝な顔をして言う。
「どうした?」
「精霊が早く水瓶の蓋を開けてほしいって」
「へ~ここに精霊がいるのか」
兄は見当違いの方向を見回していたが、すぐにこう言った。
「でも、ここじゃだめなんだ」
「どうして?」
「大精霊って人に言われたぞ。泉の水を扱うときは気を付けろって」
兄の言葉に王子が短く頷く。
「では、旅の話などは王宮に帰ってからですね」
兄は馬の荷を手早く解くと、水瓶を大事そうに抱えて馬車まで運んでくれた。そのあと、王子に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。
「あの、俺はここで失礼して、いったん家に帰らせてもらってもいいですか?」
「え? でも、王宮でゆっくりしていただきたかったのですが……」
「この兄ちゃんには、王宮みたいなところはかえって気ぃ休まらんやろ」
ケトが兄に助け舟を出していた。
「そう……ですね……」
王子はよほど旅の話が聞きたかったのだろうか。すっかり肩を落としていた。
「分かりました……どうかゆっくり体を休めて、旅の疲れを取ってください」
「ありがとうございます。それと……王太子殿下に兄上と呼ばれるのも悪くはないですね」
「……いいのですか?」
「もちろん、三人の時だけですよ」
「はい、ありがとうございます。兄上」
王子は、確かめるようにもう一度そう呼ぶと、はにかんだ笑顔を見せた。
「な、なんだか……気恥ずかしいな」
兄は照れくさそうに笑った。
私たちは馬車に乗り込み、兄はそのまま馬に乗って自宅へと帰っていった。




