31.幻影の終わり
「お前は、望む世界が欲しくはないの?」
倒れ伏していた魔物がゆっくりと起き上がり、その声が辺りに響いた。
これは契約交渉の始まりを告げる問いだった。
「こんな偽物、欲しくないわ」
私は答えた。
「おや? ならば、現実だと思っている世界が偽りでないと、お前は言い切れるの?」
確かに、私は前世の記憶を思い出すたび、この世界が本物なのかと心のどこかで疑っていた。けれど私は、自らを納得させるように正解を口にした。
「い、言い切れるわ。リオン殿下だって悩みを抱えていて……。みんなそれぞれ、私の知らないところで喜んだり、苦しんだりしながら生きているんだって分かったから。……私は、自分だけが大変なんだって勝手に思っていたけれど……そんな世界が偽りのはずがない。だから……偽りではないわ」
「ほぉ」
魔物は艶のある声で応じ、面白がるように交渉を続けた。
「世界が偽りでないと言い切れても、さて、お前自身は本物なのかしらね?」
私はどきりとした。魔物はまるで、私がフィアナでないことを見透かしているかのように言った。けれど、これは契約のための、決められた問いかけだ。私だけに向けられるものではないと、必死に自分に言い聞かせた。
「私はこの世界で生きようと頑張ってるつもりよ。……まあ、相棒に頼ってばかりのポンコツだけど。だからこそ、自分自身が本物だと信じなくちゃ……。だから、私は本物よ!」
「今よりここに契約は結ばれました」
契約交渉は成功した。
スプライトクイーンの言葉とともに景色が一変した。眩しい砂壁の街は跡形もなく消え去り、私たちは再び王墓の狭く薄暗い通路に立っていた。
あの街はどこへ消えたのかと視線を巡らせると、すぐ後ろに巨大なカマキリが立っていた。
「ぎゃぁ~~~~~!」
私は悲鳴を上げて走り出した。
――カ、カマキリ怖い。
「主様? お嫌でしたら姿を透明にしておくこともできますよ?」
「ひぃっ!」
すぐ後ろから声がして、私は飛び上がるように振り返った。けれど、そこに巨大カマキリの姿はなく、薄暗い通路が広がっているだけだった。
遠くには、王子たちが走ってこちらを追いかけてくる姿が見えた。
「じゃ、じゃあ、私が呼んでも、透明の姿でいてくれる?」
「主様の仰せのままに」
ケトやクラトスとは大違いの、従順すぎる返事だった。その素直さに、私は少しずつこの従魔に好感を抱き始めていた。
「あの、なんか、ごめんね」
「いいえ。お気になさらずに、主様」
――あらやだ、すごくいい従魔じゃない。
ちょうどそのとき、リオン王子が私に追いついた。王子は息を整えながら口を開く。
「フィアナ嬢。……私は、少しその」
一人称が「私」に戻っていた。
「フィアナ、でいいですよ。リオン殿下!」
そう告げると、リオン王子は耳まで真っ赤にして、口を開けたり閉じたりした。
「さすがに王太子殿下を呼び捨てにはできませんけれど。何度でも言って差し上げますわ。リオン殿下、と」
「フィ、フィアナ!」
王子が少し怒ったような声で私の名を呼んだ。敬称を付けずに。その顔には恥ずかしさと、少しの嬉しさが混じった複雑な感情が浮かんでいた。
私たちが広間に姿を現すと、騎士たちが悲鳴にも似た声を上げた。
「王太子殿下!」
「殿下、どちらにおられたのです!」
「お怪我はありませんか!?」
リオン王子は押し寄せる騎士たちに囲まれながら、困ったように眉を下げた。
「心配をかけた。私は大丈夫だ」
しかし、騎士たちは聞く耳を持たなかった。
「殿下、どうかお座りください! 水を、いや毛布を!」
「誰か! 治癒師を呼べ!」
王子は溜息をつき、肩をすくめた。
「大丈夫だと言っているだろう。少し道に迷っただけだ」
私はその様子に、口元を押さえて笑った。
「そうですわね。人生という道に迷っておられましたわ。ぷぷっ」
「フィ、フィアナ! それ以上言ったら、君を今すぐにでも僕の……いや、私の妃にしてしまいますよ! 私は、その……構いませんが。そ、そうなったら学園も辞めることになるのですよ? それでもいいのですか?」
「リオン殿下が、そんな冗談をおっしゃる方だったとは知りませんでしたわ」
パワハラまがいの発言とは裏腹に、顔を真っ赤にしている王子が可笑しくて、私の笑いは止まらなかった。
そして、帰りの馬車の中はカオスだった。
「影カマ、マンティデ、マンティレス、幻視虫……」
私はスプライトクイーンの名前を考え続け、リオン王子は隣でぶつぶつと文句を言い続けていた。
「気分よく夢を見ていたのに。できればもう少し見ていたかった。この際、ユーリスに王位を譲って――」
「やめてください。それもいいですけれど、国が混乱しても知りませんよ。クリアマンティス」
「主様は名前のセンスが……控えめに言って……あまり……よくないのでは」
スプライトクイーンが、姿は見えないものの、控えめとは真逆の辛辣さで言い放った。クラトスは大あくびをしながら、そのやり取りを聞いている。
「フィアナと一緒なら、どこへでも行けそうな気がするのですが」
「考えておきます。幻視鎌」
「本当ですか?」
「冗談ですわ」
王子がぷっと頬を膨らませて横を向く。そして、何を思ったのか、不意にぽつりと呟いた。
「……プリズマはどうかな?」
「プリズマですか? それは少し安直すぎでは?」
私がそう言った瞬間、スプライトクイーンが歓喜の声を上げた。
「まあ、素敵ですわね!」
「ちょっと、なんでよ!?」
馬車の中に、私の抗議と王子の楽しそうな笑い声が響いた。
***(小話)以下三人称視点になります
女性に贈るのに相応しい指輪か、フィアナが喜ぶと聞いた図鑑か。どちらを贈れば彼女が一番喜ぶのか、リオンは考えた末に、結局どちらも贈ることにした。
王墓には、魔物図鑑に載っているような聖獣の彫像やレリーフがいくつも飾られている。それを喜んでくれたら、自然な流れで指輪も渡せるような気がした。そして、自分の言葉も受け入れてくれるのではないかと、リオンは期待していた。
けれど、あんな騒動が起きてしまい、用意していた指輪は完全に渡す機会を逃してしまった。しかも、あんな恥ずかしい姿を見られた後で、婚約解消の言葉を口にすれば、彼女は二度と戻ってきてくれないのではないか。そんな不安が脳裏をよぎり、とても渡す勇気など出なかった。
帰りの馬車の中では、その小さな箱を取り出すことさえできず、ただポケットの上からその輪郭をなぞるだけだった。




