30.王子の夢
私たちは砂色の建物が連なる異国の街を、海へ向かって歩いていた。港に着くと、本物と見まごうほどの広い海が目の前に広がっていた。桟橋では人夫たちが船へ木箱を運び込んでいる。嫌がるラクダの綱を必死に引いている商人の姿もあった。船乗りたちは甲板でサイコロを振り、歓声と罵声を上げている。
そんな港の喧騒の中にリオン王子の姿はあった。王子の表情はこれまで見たことがないほど活き活きとしていた。まるでこの街の住人であるかのように、ぎこちない手つきで、もやい綱を桟橋の杭に結ぼうとしている。
「王太子殿下!」
私が呼びかけると、リオン王子は屈託のない笑顔で振り返った。
「やあ、フィアナ嬢」
「何してるんですか?! こんなところで!」
「船乗りになったんだ」
「……船乗り?」
「冒険者のことだ。海のね。君の兄君のようになりたくて」
「何を言ってるんですか!? ここは本物の世界じゃありませんよ!?」
「これからこの船に乗って世界を見に行くところなんだ」
リオン王子は眉を寄せただけで、縄を結ぶ手を止めようとしなかった。そのわりには、ちっとも結べていないようだったけれど。
「しっかりしてください、王太子殿下。ここは幻影の世界ですよ? 船に乗ってもどこにもいけませんよ」
「知ってるよ……。だからなんだというんだ? フィアナ嬢も、僕と一緒に行かないか?」
「……殿下……?」
王子の一人称が「私」から「僕」に変わっていて、私は思わずクラトスを見た。クラトスは「幻影ではない」と目で示し、目の前の王子が本物であることを知らせた。
短い沈黙が落ちる。港の喧騒だけが流れた。
「僕のことは、リオンと呼んでくれ。僕も、ずっと君のことをフィアナと呼びたかったんだ」
王子は唐突に言った。
「……はい?」
「僕の名前は王太子でも、第一王子でもない。リオンという名があるんだ。君もユーリスも、互いを名前で呼び合っているだろ? なのに、どうして僕だけは王太子なんだ? 『王太子殿下の仰せのままに』『王太子殿下のお望みとあらば』そんな言葉はもう聞き飽きた」
「ええっと……」
いつも冷静なリオン王子とは思えない言動だった。王子はまるで感情の堰が切れたかのように、しゃべり続ける。
「いや、ユーリスが名前で呼ばれているのだって、命令でそうさせているのではないことくらい分かっている。あんなふうには、僕にはできない。ユーリスは素直に笑ったり、屈託なく怒ったりできて、僕は――僕には、あんなことはできない」
私は何と言葉を返していいか分からなかった。
「それは……ユーリスには『殿下』と呼びたくなるほどの威厳がないから……とか?」
咄嗟にこんな言葉しか出てこなかった。
けれど、リオン王子は私の言葉に頷いていた。
「確かに。だがそれは、僕が幼いころから父上に、王になるとはどういうことかを教え込まれてきたからだ。逆に、ユーリスに許されてきたことが、僕にはなにひとつ許されてこなかった。感情を表に出すことも、弱さを見せることも……。だけど……いや、だから本当は――」
リオン王子はそこまで言うと少し言い淀んだが、静かに続けた。
「僕は、本当は……ユーリスに……なりたかった」
そしてリオン王子の言葉は、そこで途切れた。
リオン王子の告白は、彼がどれほど深い孤独の中にいたかを、私に思い知らせた。きっと、孤独を感じていても、それを孤独だと認めることすら許されない。そんな場所に彼はずっとひとりで立っていたのだ。
そして、このようやく言葉にできた本音は、彼自身も口にして初めて気づいてしまった、あまりにも素直な気持ちだったのだと思う。
『ユーリスみたいになりたかった』
なんて切ない言葉だろう。その一言は、私の胸に深く刺さった。
「これはもうだめだな。完全にスプライトクイーンの幻影に取り込まれている」
だが、クラトスの声は驚くほど冷静だった。その声に、私もはっと我に返る。気づかないうちに、私まで幻影の空気に流されていたらしい。
「だ、だめだなって……諦めないでよ!」
私はそう言って、慌ててリオン王子に駆け寄り、肩を揺すった。
「リオン殿下! 名前なんていくらでも呼んであげますから、ここから離れてください!」
「嫌だ。僕はここで夢を叶えるんだ! 僕はここから冒険の旅に出るんだ!」
リオン王子が高らかに告げる言葉に、私は思わず天を仰ぎ、まるでケトが口にしそうなセリフを漏らした。
「……こりゃ、もうあかんわ」
そして、私は大きく息を吐き、気持ちを整えクラトスに告げた。
「こうなったら、スプライトクイーンを探して倒すしかないわね!」
するとパピリアが小さな体で桟橋の隅を指し示した。
「見て、スプライトクイーンはあそこにいるわよ!」
だが、その先に見えるのは、桟橋の向こうに広がる海だけだった。
「どこ?」
「そこにいるわ」
そう言われて目を凝らすと、景色が一瞬だけ揺いだように見えた。
「クラトス、見える?」
「我を誰だと思っている」
そのセリフは聞き飽きたが、クラトスはその言葉に違わぬ動きを見せてくれた。そう言うや否や、矢のように飛び出し、空気を切り裂く勢いで何もない空間へと突進した。
すると次の瞬間、巨大なカマキリの姿をした魔物が現れた。魔物はクラトスめがけて大鎌を振り下ろす。だが、クラトスは難なくそれを躱してみせた。
「ふむ、倒してよいのか?」
「手加減できるの?」
「当たり前だ。だが――」
「だが断るは無しよ!」
クラトスが不満を表すように鼻を鳴らすと、黒い刃がいくつもその身から生まれ、魔物へと一斉に飛びかかった。だが、それらはすべて鎌で叩き落とされてしまった。すると今度は、魔物が鎌を振り下ろし、鋭い風の刃を連続で放った。黒い刃と風の刃がぶつかり合い、空中に火花が散った。
「ならば、これでどうだ」
クラトスは先ほどよりも圧倒的に数を増やした刃を、嵐のように魔物めがけて放った。魔物も風の刃で応戦するが、ついに捌ききれずに、その一つが脚をかすめた。そしてとうとう、魔物はがくりと体勢を崩した。
「見事ね……ここまでのようだわ」
魔物が苦しそうな声を漏らした。
「スプライトクイーン。私の仲間になりなさい!」
私はすかさず魔物に呼びかけた。




