26.夏合宿
兄がエルフの国へ旅立ってから数日が過ぎ、マグナリア王国にも夏の色が濃くなってきた。遠景を彩る山々の頂には、まだわずかに白い雪が残っているが、森からは爽やかな針葉樹の香りが運ばれてくる。
そんな心地よい季節のうちに、夏休みが始まった。
私は魔物研究会の夏合宿について話し合うため、王宮にあるユーリス王子の私室を訪れていた。魔物研究会はエミールが立ち上げた研究会で、会長も彼が務めている。メンバーは強制的に参加させられている私とアーシャ、それにユーリスとアンリだけだった。
「今年の合宿の目的は幻の花魔物ルナフラワーの発見です!」
エミールが言うと、アドリアンが得意気に手を挙げた。
「はい、僕、知ってます」
夏休みを利用して王都に遊びに来ているアドリアンも、なぜか当然のように参加していた。
「花の姿をしていて、特定の場所にしか現れない魔物です」
「まあ、花の姿なんてきっとかわいい魔物なのでしょうね」
アーシャが微笑む。
「ただ、人の気配を感じると、すぐに土に潜ってしまい、見つけるのが難しい魔物です」
「希少種か」
アンリが眉をひそめる。
「なるほど。気配を消す訓練になるな」
ユーリスが得心したように頷いた。
エミールは宝のありかを示すように、机の上に広げた地図に手を置いた。
「合宿地は月夜高原の虫谷です。ここに、古い観察小屋があります」
「虫谷? 私、虫は苦手なんだけど」
虫と聞いて、私は軽く身震いした。
「んで、いつ行くんだ?」
そんな私を横目にアンリが言った。
「明日です」
エミールが満面の笑みで宣言した。
***
虫谷を囲むなだらかな斜面に、陽光が柔らかく降り注ぎ、谷を流れる小川の両岸を埋め尽くすほどの花が咲いていた。
風が吹くたび、色とりどりの花が波のように揺れ、まるで花の入り江のような光景が広がっている。そんな美しい景色の中で、ユーリスは頭を抱えていた。
「くっ、全部タダの花に見える」
どれがルナフラワーなのかまったく見当もつかない。
「どの花がルナフラワーなのよ?」
私が言うと、
「それを見つけるのが今回の研究課題ですよ、フィアナ」
と、エミールに諭すように言われてしまった。
「こんにちは、ルナフラワーさん」
アーシャがしゃがみ込み、野に咲く小さな花を間近に見つめて話しかけていると、
「それ、ただのシロツメクサじゃねえか?」
と、アンリに呆れたように言われていた。
「花が多すぎる」
ユーリスはもう一度頭を抱えて文句を言った。
虫谷に夜が訪れ、谷がしんと静まり返ると、花の間にぽつりぽつりと小さな光が灯り始めた。幻想的な薄明かりが辺りをほのかに照らし出している。
「綺麗……」
アーシャが星空のように広がる花畑を見渡し、息を呑んだ。
光はやがて谷全体へと広がり、風が吹くたびに優しく揺れながら、不思議な青い薄明かりで辺りを満たしていく。
「これ全部ルナフラワーなのか?」
アンリが言う。
「光る花すべてがルナフラワーではありません。問題は動く花ですよ」
エミールがそう言った瞬間、風が吹き抜け、一つだけ光の軌跡を描いて移動する花があった。
「あれ! 動いたわよ!」
「ま、間違いないです。あれがルナフラワーです!」
エミールは震える声で言いながら、慌てて観察ノートを開いた。だがルナフラワーは淡い光を散らしながら、私たちからあっという間に遠ざかっていく。
「追いかけるぞ!」
アンリが叫ぶや否や走り出した。機動力の高い攻撃役を務めるだけあって、その走りは驚くほど速かった。私たちは慌ててそのあとを追った。
「よし、捕まえてやる!」
「目的は観察です! 触ってはいけません!」
エミールが慌てて制止するが、アンリは手を伸ばし、花に飛びかかっていた。
しかし次の瞬間、ルナフラワーが伸びあがり、根元の土が盛り上がった。土の中から現れた魔物の体はみるみるうちに上へと伸び、私たちはその大きさに圧倒され、口をあんぐり開けて固まった。
「あ、あれが……ルナフラワー」
私は思わず呟いた。
「……すごい!」
エミールはそう言って、観察ノートに何かを慌てて書き記している。
そしてついに、巨大な花の魔物がその全貌を土の中から現すと、アーシャがその大きな花に声を漏らした。
「綺麗」
しかし、次の瞬間、美しい花の中心はぱっくりと割れ、無数の歯がギラリと光った。
「下がれ!」
ユーリスが叫ぶ。
「うわっ、何だこいつ!」
魔物の一番近くにいたアンリは慌てて飛び退く。
「な、なによ、あれ!」
私は驚いて尻もちをついた。
「姉様!」
アドリアンが、尻もちをついたまま後退る私に慌てて駆け寄った。
「ルナフラワーさん、驚かせたことを謝りますから、どうか落ち着いてください!」
アーシャが必死に声を張り上げた。
「ちょっと、アーシャちゃん! そんなこと言っても通じないわよ!」
私はアドリアンに助け起こされながら叫んだ。
そして、私の忠告も虚しく、アーシャは魔物が伸ばした蔓に捉えられてしまった。
「きゃあ~!」
「アーシャ!」
「アーシャちゃん!!」
皆が同時に叫び、そして、魔物の蔓に絡みつかれたアーシャの姿に目を奪われていた。
蔓はアーシャの全身を這い回り、それを引き剥がそうと、アーシャは必死に身を捩っている。その姿態はまるで、まるで――いや、やめておこう。
振り返ると、ユーリスたちは俯いたり、目を隠すふりをしながらも、しっかりとアーシャのあられもない姿を目に焼き付けている……かどうかは分からないが、私にはそう見えた。
「ちょっと! 何見てるの!」
私は声を荒げ、アーシャを隠そうと彼らの前で必死に手を広げた。
しかし、すぐにアンリが怒鳴り返してきた。
「ばか、フィアナこそ前を見ろ! 来るぞ!」
魔物の方を振り返ると、今度は私めがけて蔓がうねりかかってきた。
「ひっ~!」
私が叫んだ瞬間、皆が一斉に魔物へと飛びかかった。
***
ルナフラワーを倒すのに一晩かかった。
ようやく朝方になって小屋でひと息つけた私たちは、そのまま王宮に戻り、反省会を開くことにした。満身創痍の一行は、泥こそ払ったものの服はボロボロで髪もバサバサだった。
それでも、エミールだけは不思議なくらい元気いっぱいだった。
「皆さん、お疲れさまでした。おかげで有意義な研究になりました」
しかし、エミールの言葉を受け止める余裕のある者は誰もいなかった。
「ユーリス殿下のお部屋を汚してしまって、申し訳ありません」
「アンリ、その格好でソファーに座らないでくれ」
「はぁ? じゃあどこに座ればいいんだよ」
「そうね。床に座った方がよさそう」
「姉様、僕たち生きて帰ってこられましたね」
「泣かないでよ、アドリ」
こんな調子で、誰ひとりエミールの話を聞いていなかった。
朝早くから騒いでいたせいで、リオン王子が驚いた顔で様子を見にやって来た。
「いったい何の騒ぎだ?」
呆れた顔で、泥だらけの私たちを見回す。
「兄上、お騒がせして申し訳ありません。ですが――」
ユーリスがいつもより緊張した面持ちで立ち上がった。
「このような事態に陥った理由はいろいろとありますが、その、なんというか、とにかく、僕に落ち度がないとは言いませんが、どちらかというと、ありません」
ユーリスが兄を尊敬しているのは普段の態度から分かっていたが、その痛々しい、言い訳めいた様子を見て、私は少し詫びしい気持ちになった。
「俺のせいだって言いたいのか?」
けれど、そんな空気を気にしないアンリが、不満げに反論していた。
「別に、そういう意味で言ったわけでは……」
ユーリスが言葉を濁すと、エミールが口を挟んだ。
「強いて言うならアンリですね」
「私もそう思う」
ユーリスの態度に呆れていたことを棚に上げ、私もひとまず自分に非が及ばないよう保身に努める。
「でも、とどめを刺したのは俺だからな!」
アンリが眉をひそめつつも、私たちに言い放った。
「いや、僕が仕留めました。兄上」
「それは、同意できませんね」
「違うわよ! ルナフラワーの弱点は火なのよ? 私のファイアーボールが効いたに決まってるじゃない」
「姉様……あの威力ではさすがに……」
アドリアンが私を諭すようにそっと首を振った。
「み、皆さん。落ち着いてください。私のためにみんなで力を合わせて下さったおかげで――」
「アーシャちゃんを助けた話じゃなくて、今はとどめを刺したのは誰かって話をしてるの」
「ええ! す、すみません」
その様子を黙って見ていたリオン王子だったが、ついに堪えきれずに笑い出した。
「ふっ……はははっ」
「兄上……?」
呆気にとられたユーリスと、笑い続けるリオン王子の顔を見比べているうちに、私も思わず吹き出してしまった。
「ふふっ」
すると、皆も互いの泥だらけの顔を見合わせ、一斉に笑い出した。
「おまえら、酷い顔だな」
「アンリこそ、なんだその顔は」
「ほら、頭に花がついているわよ」
私はアンリの髪に引っかかっていた小さな花をそっと取り上げた。
「可愛いお花ですね」
アーシャがそれを覗き込み、ふわりと微笑む。
「あ、ねえ、これちょうだいよ、アンリ」
「……べつにいいけど。そんなもんどうすんだ?」
「このお花、栞にしたら記念になると思うのだけど」
「はい、とっても素敵な思い出になると思いますよ、フィアナ様」
私はその可憐な花をハンカチにそっと包んだ。
リオン王子は軽く咳払いし、私たちへ静かに言い渡した。
「これからはどこに行くにしても、装備をしっかり整えてからにすること。いいな、ユーリス」
そう、夏合宿と言えば、麦わら帽子にワンピースだ。私たちはルナフラワーの観察だと聞いて、王都の外へ行くというのに、装備をほとんど身につけて行かなかったのだ。
「はい、兄上」
ユーリスは背筋を伸ばし、真剣な面持ちで答えていた。




