2.三歳の誕生日
その頃、わずか三歳だった私は最大の危機に直面していた。ケトが私の従魔になったのは、その時の出来事がきっかけだった。
その日、私は乳母の膝の上で絵本を読みながら、まずは早めにこの世界の文字を覚えようと頑張っていた。
「フィアナ様、今日もたくさんご本をお読みになられましたね」
「はぁい」
私は悪役令嬢にならないために、使用人にも愛嬌を振りまくことを怠らなかった。
そのとき、子供部屋の扉が開き、香水の香りとともに公爵夫人カテリーナが姿を現した。これが私の母である。彼女はきつい性格で、使用人に対して常に冷たい態度をとる人だった。日本の庶民として育った私には、その振る舞いが貴族として当然なのかどうかは判断できなかった。
「奥様!」
「いつまでも何をしているの。夕方にはフィアナの誕生パーティーが始まるのよ」
「申し訳ございません。すぐにお嬢様をパーティー用のお召し物にお着替えいたします」
乳母は私を抱いたまま、緊張した面持ちで立ち上がった。
「でも、フィアナ様はほんとうに聡明なお子様で、今日もこんなにたくさん絵本をお読みになられましたよ」
「お母たま」
私は母に小さな手を伸ばしたが、母は娘を抱き取ろうともせずに、手にした扇をピシャリと閉じ、三歳になった私を見下ろした。
「そう。フィアナも今日で三歳ですもの。これでやっと忌々しいあれを追い出せるわ」
母がそう言ったとき、私の父ハロルド・オブライエン公爵が部屋に入ってきた。
「……あれとは誰のことだ?」
低い声が部屋に響き、母がびくりと肩を震わせた。
「そ、それは……あの、あの子のことですわ。な、名前は何と言ったかしら?」
扇を開いて口元を隠し、しどろもどろに母が言った。
「アレクサンデルだ」
父は私が聞いたこともない名前を口にした。
――アレクサンデル? そんな登場人物いただろうか?
「そ、それですわ。けれど、フィアナが三歳になるまでと、そのようにお約束いたしましたこと、お忘れではなくて?」
「……忘れてはいない。しかし、アレクはまだ七つだ。せめてもう少し成長するまで……」
――アレクサンデル……アレク……。アレク!? 思い出した!
ゲームの設定では、アレクは父が女中に生ませた子だった。母は長く子供に恵まれず、アレクは仮の跡継ぎとして屋敷に置かれていた。私が生まれると、母はアレクとその母親を屋敷から追い出した。そして追い出すだけではなく、父に内緒で暗殺を企んだのだ。そこでアレクの母親は殺されてしまうが、アレクは運よく逃げ延び、名前をレオンと変えて主人公の攻略対象の一人になる。ただし、それは母と私への復讐を果たすためでもあった。
「約束は約束。明日には出ていってもらいます。でないと、お父様に言いつけますわよ」
母はふたたび扇をピシャリと閉じ、父に向かって冷たく言い放った。
約束というのは、義父と交わした約束のことだろう。婿養子である父は義父に逆らうことができないでいたからだ。まあ父だけでなく、屋敷の者は皆、震えあがるほど威厳のある人なのだ。今はここから少し離れた土地で隠居暮らしをしているが、時々、この屋敷にも遊びに来るし、おそらく今日の誕生パーティーにも招待されているのだろう。
「この話は終わりにいたしましょう。これから忙しくなるのですから」
母は父に背を向け、香水の香りだけを残して子供部屋を出て行った。
復讐者レオンは、私が三歳になるまでこの屋敷で一緒に暮らしていたのか。ゲームではそこまで詳しい説明はなかった。私はその事実を知り、愛らしい笑顔も忘れて唖然としていた。
***
フィアナの三歳の誕生パーティーは、その日の夕方から始まった。パーティーでは、ほぼ可愛い置物のように扱われていたが、夜になってようやくその役目から解放された。自室に戻ると、私は寝たふりをし、乳母に気づかれないように部屋を抜け出した。
誕生パーティーの最中で、使用人たちはまだ回廊を慌ただしく行き来している。大きなワゴンが何度も通り過ぎ、私はその度に柱の陰に身を寄せてやり過ごした。
「えっと、使用人棟は……」
よちよちと向かうのは公爵家の西回廊、その先にある使用人棟だった。
誰がくれたものか分からないが、私はプレゼントの中から「不屈の耳飾り」というアイテムを選んで持ち出していた。それはゲームでいうところの、即死級の攻撃にもライフが残り1で踏みとどまるというアイテムである。この耳飾りを兄に渡して、母親と一緒に逃げ延びてくれれば、私や母を恨むこともないかもしれない。
「どうか……戻ってこないでください。復讐なんて考えないでください」
そう祈りながら、私は耳飾りを強く握りしめた。
次の瞬間、低くざらついた声が回廊に響き、柱の影からゆらりと黒い姿が現れた。
「おい、そこのガキ」
「ひぃっ……!」
私は驚きのあまり尻もちをついていた。
現れた影は猫のような輪郭をしていたが、二本足で立ち上がり、私と同じくらいの背丈があった。耳は鋭く尖り、闇の中で金色の瞳だけがぎらりと光っている。逃げ出そうにも、腰が抜けて立ち上がることができなかった。
「な、な、なに!? た、食べないでっ!」
転生してきてわずか三年で人生終了なのだとしたら酷すぎる。そうなったら私は運命を心底呪ってやるつもりだ。まあそうしたところでどうなるわけでもないけれど。
「はあ? 誰が人間なんぞ食うか」
「え?……食べないの?」
「お前から妙~な雰囲気が漂っとったから、出てきただけや」
魔物は金色の瞳を細め、ぬらりと私の顔を覗き込んだ。
「みょ、妙な雰囲気、とは?」
「ガキの雰囲気とちゃう」
「確かに……中身は三歳ではないけど……?」
「どういうこっちゃ?」
魔物は尻尾を揺らし、牙を見せた。
「ひっ! た、食べないで!」
「食わんちゅうとるやろが」
「じゃ、じゃあ、なんなのよ?」
この魔物はゲームで見たことがある。
「あ、あなた、そ、そういえば、ケ、ケットシーじゃない?」
「よう知っとるな」
「じゃあ、わ、私の、な、仲間になってくれない?」
私が転生したこのゲーム世界には、従魔契約という交渉システムが存在した。会話のできる高位の魔物は、交渉して従魔にすることができた。本来は戦って少し弱らせてから交渉を持ちかけるのだが、イチかバチかで申し出た。いや、こうするしか私が生き残る道はないように思えたのだ。
「なんで俺様がお前の仲間にならなあかんねん?」
このセリフは交渉の最初の質問だった。魔物が出すいくつかの質問に正解で答えられれば、契約が成立する。ゲーム画面での選択肢は「強そうだから」「一緒に冒険したいから」「可愛いから」の三つだったが、この世界に入ってしまった私には、それがどこかに表示されるわけではなかった。
私は覚えている正解を口にした。
「か、可愛いから。し、尻尾とか、目とか、そう、丸くて可愛いわよね。その、ぜ、ぜひ仲間になっていただきたい」
「はぁ!? 誰が可愛いねん! 俺様は高位魔族のケットシー様やぞ! ナメとったら引っかくで!」
「ご、ごめんなさい」
――ええっ、間違えた?
「まあでも、こうして話してるんも何かの縁や。仲間になったら俺様に何をしてくれるん?」
――よかった。正解だった。
次の選択肢は「撫でてあげる」「遊んであげる」「大切にする」だ。
「大切にするわ。嫌がることはしないし、いつもそばにいてあげる」
「そんなもんいらんわ!」
――また間違えた? このケットシーは普通の攻略方法と違うのだろうか?
「まあでもええやろ」
――やっぱり成功だったみたいだ。
「そんなもんより、他に何かあるんとちゃう?」
三問目の質問だ。
これに正解できれば契約成立となる。正解は「(黙って食べ物を差し出す)」なのだが、今は食べ物など何も持っていなかった。ケットシーはじっと私を見つめている。
「あとで、何か食べ物を持ってくるわ。それに毎日好きな物を食べさせてあげる」
「……食べ物って、なんや?」
「え、えっと、鰹節……はないから、やっぱり魚料理?」
「で、おやつは何や?」
こんな質問あったかなと思いながら私は答える。
「……ミルク……かな?」
「よっしゃ、今日からお前の仲間になったるわ。ありがたく思えや」
契約が成立した。魔物が仲間になった時のBGMは流れなかったが、私は心の中で勝利のファンファーレを鳴らした。
「あ、ありがとうございます! よろしくお願いします!」
「ほんで、ワイの名前はやな、リュ――」
「ごめん。今はそれどころじゃなくて」
「それどころちゃうって、なんやねん! ワイはなぁ――」
私は使用人棟へ急いでいるところだったのだ。
「じゃあ、あなたは……ケイティね。ここで少し待っててくれる?」
「待てるかボケ! ケイティってなんや!?」
「ケットシーの名前。ケットとキティでケイティ」
「そんなしょーもない名前で呼ぶなやアホ! ワイにはリュァンフェオスってちゃんとした名前があんねん」
「え? どういうこと!?」
「ワイの名前は人間にはちぃ~と聞き取り辛かったんかもしれへんなぁ」
ケットシーが名乗った名前は確かに私にはよく聞き取れなかったが、私が驚いた理由はそれではなかった。従魔になった魔物には名前を付ける必要があり、私が好きな名前を付けられるはずだったからだ。
「と、とにかく! 今は先にやらなきゃいけない事があるから、その話はあとでお願い!」
「しゃーないな。まずは魚料理やったな。食いもん用意できたらすぐ呼べや」
そう言い残してケットシーは闇の奥へと姿を消した。
使用人棟に行けばきっと魚料理もあるだろう。私は再び回廊の先、使用人棟へと急いだ。




