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3 三つ首の野良犬

魔王城の朝は早い。

世界安定課の課長オステンは、いつものように誰よりも早く登庁し、重い足取りで執務室の前に立った。昨日のギラン湖の始末書は、深夜までかかってようやく書き終えた。今日は穏やかな一日であってほしい——そんな願いを込めて、彼は扉のノブに手をかけた。


「……ん?」


扉が、開かない。

物理的に何かがつっかえている感触だ。それも、相当に重く、柔らかい何かが。

「グォォ……、ピー……」

扉の向こうから、地響きのような寝息と、鼻提灯が弾けるような音が聞こえてくる。


「……セレナか? まさか部屋の前で寝ているわけでは……」

オステンが隙間から中を覗き込んだ直後、彼の思考は停止した。


そこにあったのは、執務室の半分を埋め尽くす、漆黒の毛並みを持った**「巨大な肉の塊」**だった。

それは三つの巨大な頭を持ち、その一つ一つがオステンの胴体ほどもある。鋭い牙の間からは、一滴で大理石を溶かしそうな涎が垂れていた。


「……ケ、ケルベロス……!?」

冥府の番犬。SSS級危険指定生物。それがなぜ、窓際部署の執務室で丸くなって寝ているのか。


「あ、課長! おはようございます!」


その巨体の背後から、ひょこりとセレナが顔を出した。

彼女は巨大な三つの頭の一つを枕に、幸せそうに目を擦っている。


「セレナ……、説明しろ。なぜここに冥府の番犬がいる」

「ほへ? 昨日、帰り道に路地裏で『ク~ン』って鳴いてたんですよ。お腹空かせて可哀想だったから、ベルゼーさんにもらった干し魚をあげたら、お城までついてきちゃって」


「ついてくるサイズじゃないだろう! しかもこれ、まだ子犬パピーじゃないか。成体になったら城が壊れるぞ!」

「えっ、子犬なんですか? どおりで人懐っこいと思いました! ねー、ポチ!」


セレナがケルベロスの喉元をワシャワシャと掻くと、怪物は三つの口を同時に開けて「ハッハッハッ」と嬉しそうに尻尾を振った。

ドゴォォォォン!!

巨大な鉄の塊のような尻尾が壁を直撃し、執務室にヒビが入る。


「……やめろ! この部屋の修繕費は安定課の予算から出るんだぞ!」

オステンの悲鳴が響く中、続々とメンバーが登庁してきた。


「あら、賑やかねぇ……って、ちょっと! これ幻の『獄炎ケルベロス』じゃない! お腹の模様、見てよ、超血統書付きよ!」

ベルゼーがお節介魂を燃やしてポチの口内をチェックし始め、

「……課長、カヴァロが怯えて出てこない。今すぐこいつを処分……」

と、ガリウスが脇に抱えた頭部で冷静に(でも少し震えながら)告げる。


『……ハァ。その犬の燃費を計算しようとしたら、**あまりの非効率さに途中で思考回路がショートしそうになった。一生かかっても払い終わらない負債を毎日食べさせてるようなものだよ。**今すぐどこかのダンジョンにでも捨ててきてくれない?』

通信機越しにルカのため息に近い訴えが聞こえた、その時だった。


「ワフッ!!」


ポチが、ルカの声がする魔導ディスプレイに興味を示し、飛びかかった。

「きゃああっ! ダメよポチ、それは食べ物じゃないわ!」

ベルゼーの制止も虚しく、ポチはそのまま勢い余って廊下へと飛び出していく。


「マズい、そっちは侵略推進課のエリアだ!」

オステンが顔を青くして叫ぶ。


廊下では、エリート部署の職員たちが「ヒィィィ! ケルベロスだ!」「なぜ城内に放し飼いにされてるんだ!」と阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。ポチは彼らを「遊んでくれる友達」だと勘違いし、全力で追いかけ回している。


「ポチー! 待ってくださーい!」

セレナがその後を追うが、ポチは興奮して止まらない。

角を曲がるたびに壁が削れ、高価な装飾品が粉砕されていく。


「ルカ、最短でポチを止める方法を!」

『……無理だよ。興奮状態のケルベロスを止めるには、山一つを消し飛ばす魔法か、あるいは……』


「わかった、私がやります!」


セレナが、逃げ惑う侵略推進課の職員をひょいと飛び越え、ポチの前に着地した。

「ポチ! 廊下で走っちゃダメって言ったでしょ!」


セレナは、三つある頭のうち左右の二つを両手でガシッと掴み、真ん中の一つを自分の膝で押さえつけた。


「お・す・わ・り!」


ミキミキッ……! と、床の大理石がセレナの足の重みで沈み込む。

SSS級の怪物が、華奢な女の子の力によって、完全に地面に縫い付けられた。


「……ガフッ」

ポチは三つの頭を同時に地面に押し付けられ、降参と言わんばかりに目を回している。彼女の「脳筋」ならぬ「魔力強化」は、冥府の番犬の膂力すらも凌駕していた。


静まり返る廊下。

ボロボロになった侵略推進課の連中が、呆然とセレナを見上げている。


「……ふぅ。お利口さんですね」

セレナがパッと手を離すと、ポチはすっかり毒気を抜かれたように、セレナの足元で「クゥ~ン」と小さく鳴いた。


数分後。

ボロボロになった執務室に戻った一行。


「……さて。この被害額、どう言い訳したものか」

オステンが頭(骨)を抱える。だが、ふと廊下を見ると、いつも安定課をバカにしていた侵略推進課の連中が、怯えて近寄ってこないことに気づいた。


「……ルカ。ポチの食費、どうにかなるか?」

『……まぁ、侵略推進課の予算を「迷惑料」としてハッキングして回せば、なんとか……』

「ガリウス、番犬としての訓練は可能か?」

「……俺が噛み殺されなければ、な」


オステンは、セレナの膝で甘える巨大な三つ首の頭を見つめ、深いため息をついた。


「わかった。飼育を許可する。ただし、飼育係はセレナ、お前だ。城の中で絶対に暴れさせるなよ」

「はいっ! ありがとうございます、課長!」


「……名前はポチでいいのか?」

「はい! 可愛いでしょ?」


魔王軍世界安定課に、新しく(巨大な)家族が加わった。

安定からは程遠い日常だが、ポチが唸るだけで、面倒な客が寄り付かなくなったことだけは、唯一の「安定」と言えるのかもしれない。


「さあポチ、お昼寝の時間ですよー!」

セレナの明るい声と、三つの頭がいびきをかく音が、今日も安定課の窓から空へと溶けていった。





ポチが安定課に居着いてから一週間。

魔王城の職員たちの間では「安定課には三つの頭を持つ魔獣を素手で捩じ伏せる怪力乙女がいる」という噂が広まり、以前よりもずっと、嫌がらせの訪問者が減っていた。


「……平和だ。これこそが私の求めていた『安定』だよ」

オステン課長は、新しく買い直したデスクで、穏やかに温かいお茶を啜っていた。以前なら嫌がらせにくる他部署の連中も、今は「あの安定課にはヤバいのがいる」と噂して近寄ってこない。


だが、そんな静寂を破るのは、いつだって通信機から響く少年の刺々しい声だ。


『……課長、平和なところ悪いけど、緊急事態だよ。城内のメイン・魔導エレベーターが止まった。中に、人間界からの特使が閉じ込められてる』


「何だと!?」

オステンが茶を吹き出した。魔王城の魔導エレベーターは、膨大な魔力で動く超重量級の魔法機械だ。それが止まったとなれば、外交問題に発展しかねない。


「ルカ、原因は!」

『……メンテナンス不足による魔力回路の焼き付き。というか、侵略推進課の連中が重い戦利品を無理やり積み込みすぎたせいだね。ボクがハッキングして強制再起動を試みてるけど、物理的にギアが噛み込んでて動かない』


「物理的に……か。セレナ!」


その声を待っていたかのように、隣の執務室の扉が勢いよく跳ね上がった。


「はい! 呼んでますか、課長!」

「ワフッ!(×3)」


元気よく飛び出してきたのは、やる気満々のセレナと、その横で三つの尻尾をブンブンと振り回すポチだ。ポチは隣の部屋でセレナから「お手(三首同時)」の猛特訓を受けていたらしい。


「出動だ。人間界の特使を救出する。……ただし、絶対に城を壊すなよ。いいな?」

「ほへ? そーっとやるのは得意ですよ!」


自信満々に胸を張るセレナの背後で、ポチの尻尾が勢い余って観葉植物の鉢を粉砕したが、オステンはあえて見なかったことにした。


現場の魔導エレベーター前には、パニックになった広報部の職員や、右往左往する魔導技師たちが溢れていた。


「どいてどいて! 安定課のお通りよ!」

ベルゼーが群衆を魔法で左右に掻き分ける。その後ろから、カヴァロに乗ったガリウスと、やる気満々のセレナ、そしてなぜか自分も行くと言って聞かなかったポチが続く。


「……あぁ、安定課か! 早くしてくれ、中には人間領の公爵令嬢が乗っているんだ!」

広報部の男が泣きついてくる。


「セレナ、状況は?」

ガリウスが脇の頭部をエレベーターの扉に押し当て、中の振動を探る。

「……かなり深い位置で噛み合っている。扉を抉じ開けるだけでは、籠がそのまま底まで落下するぞ」


『……ボクがブレーキを制御する。でも、外側から籠を支えて、ゆっくり引き上げる「重機」が必要だよ』

ルカの声に、全員の視線がセレナに集まった。


「任せてください! ポチ、手伝って!」

「ワンッ!(×3)」


セレナはドレスの袖を軽く捲ると、エレベーターの重厚な外扉に指先をかけた。

「【肉体強化:一点集中】……せーのっ!」


メキメキメキ……ッ!!


分厚いオリハルコン製の扉が、まるで紙細工のように無造作に抉じ開けられる。

中を覗き込むと、十数メートル下で、巨大な鉄の籠が不安定に揺れていた。


「……あ、危ないわ! 今にもワイヤーが切れそうよ!」

ベルゼーが叫ぶ。

セレナは躊躇なく、その暗い穴の中へと飛び降りた。


「ポチ、尻尾!」

「ガウッ!」


セレナは空中で、ポチの長く頑丈な尻尾をガシッと掴んだ。ポチは三つの頭で床の縁をしっかりと噛み締め、アンカーの役割を果たす。

そのままセレナは、落下する寸前のエレベーターの籠の天板に、音もなく着地した。


籠の中からは、「……きゃあああ!」「助けて!」という人間の悲鳴が聞こえてくる。


「大丈夫ですよー! ちょっと揺れますから、掴まっててくださいね!」


セレナは籠の縁を掴むと、そのまま片手で自分と籠の重量を支えながら、壁をトトトンッと蹴って駆け上がり始めた。

重さ数トンの鉄の塊を、買い物袋でも提げているかのような軽やかさで引き上げていく。


『……信じられない。垂直方向への加速度が一定だ。セレナ、キミの筋繊維はどうなってるのさ……』


「はいっ、到着です!」


セレナが籠をフロアまで引き揚げると、中から腰を抜かした公爵令嬢と、真っ青になった護衛たちが這い出してきた。


「あ、あの……あなたは、天使様……?」

涙目の令嬢が、黒い羽を持つセレナを見上げて震える声で尋ねる。

セレナはポチの背中にひょいと飛び乗り、最高の営業スマイルを向けた。


「いいえ! 魔王城世界安定課のセレナです! お怪我はなくて良かったです!」


事件解決後。

安定課の執務室に戻った一行を待っていたのは、山のような書類と、そして——。


「……課長。人間界の特使から、感謝状が届いています」

ルカが珍しく、感心したような声を上げた。

「『漆黒の翼を持つ乙女と、三つの聖なる頭を持つ守護獣に救われた』……だそうだ。聖なる頭、か」


「ポチのことですね! やったねポチ、聖なる獣だって!」

セレナがポチの首を撫で回すと、ポチは得意げに鼻を鳴らした。


「……おかげで、侵略推進課への損害賠償請求もスムーズに通った。よくやったな、セレナ」

オステンは、今度こそ最後の一口になった温かい茶を飲み干した。


だが、幸せな時間は長くは続かない。


「ところでセレナ。エレベーターの扉を『素手で曲げた』ことによる、魔導建築物損壊報告書を三通。それから、特使への事後アンケート。……今日中に頼むぞ」


「ほへぇぇ……! ポチー、代わりにお手伝いしてくださーい!」

「ワフン……(無理)」


安定課の夜は、今日もまた更けていく。

セレナの「怪力」と、ポチの「可愛さ(?)」が、少しずつ、魔王城の空気を変え始めていた。

次回投稿日は5/11(月)です。

よろしくお願いします。

現在『無属性チートと王家に守られてのんびり異世界で暮らします』の方がGW毎日投稿中です。

こちらも合わせてお楽しみください。

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