2 トゲ抜きは大胆に
「うおおおおおーーーっ!!」
湖面へ向かって垂直落下しながら、セレナは気合の声を上げた。
時速数百キロに達しようかという速度。風圧で黒い髪と、天使のような羽が激しくなびく。普通の魔族なら目が開けられないはずだが、彼女は「ほへー、速いですね!」と言わんばかりの平然とした顔で、ターゲットである巨大な帆柱を見据えていた。
「ルカくん、掴む場所を教えてください!」
『……右から30度、喫水線から2メートルの位置!でも、今の速度で突っ込んだら衝撃でリヴァイアの脇腹が爆発するよ!減速して!』
ルカの叫びを、セレナは「了解です!」と笑顔で聞き流した。
彼女が取った「減速」の方法は、翼を使うことではなかった。
「【魔力伝導:肉体強化】……よい、しょおっ!!」
着水寸前、セレナは空中でくるりと身を翻し、突き刺さった帆柱の先端に、可愛いブーツの先で「トントン」と小突くように着地した。
ドォォォォォォォーン!!
そのままマストを杭のように踏み抜き、セレナは砲弾のような勢いで一気に湖底へと沈み込む。凄まじい水圧をものともせず、彼女は滑るようにマストの側面を滑り降り、瞬時にその『根本』へと到達した。
しかし、その瞬間、湖に巨大な水柱が立ち上がる。あまりの衝撃に、岸辺で見守っていた里の男たちが「ひっ……!」と悲鳴を上げて腰を抜かした。
湖面下数メートル。
「あ、これですね」
セレナは激流の中でも、まるでピクニックにでも来たかのように涼しい顔だ。
本来、水中では声など届くはずもないが、ルカが調整したインカムが彼女の喉の振動を直接拾い、骨伝導を介して全員の耳にクリアな声を届けていた。
「ちょっと痛いですけど、我慢してくださいねー」
泡と一緒に吐き出されたセレナの呑気な声が、通信機越しに上空の面々へ響く。
セレナは暴れ狂うグラン・リヴァイアの巨体を、**白い人差し指一本で「チッチッチ」と押さえつけた。**それだけで、巨大な魔物はビクとも動けなくなる。
そして、もう片方の手で、帆柱の根元を優しく、だがしっかりと掴んだ。
「ぬんっ!!」
セレナが少しだけ上体を反らせると、ズブブブ……と嫌な音を立てて、数メートルもの帆柱がリヴァイアの肉から引き抜かれていく。
リヴァイアが苦悶の声を上げ、湖底を叩き割らんばかりに尾を振った。
「ガリウス!押さえなさい!」
上空からベルゼーが叫ぶ。
「分かっている。……カヴァロ、重力縛!」
上空でガリウスが叫ぶと同時に、ルカのナビゲートによって水中へと『引き抜き』のタイミングが送られる。
『……今だ、セレナ! 全力で引っこ抜いて!』
ルカの怒声に近い合図が、セレナの脳内に響いた。
「そぉいっ!!」
スポォォーン!という、およそ湖の怪物からしていい音ではない爆音とともに、巨大な柱が完全に抜き取られた。
セレナはそのまま柱を肩に軽々と担ぎ、水面を蹴ってジャンプした。
「抜けましたぁー!」
ザパァッ!と水飛沫を上げて空中へ躍り出たセレナ。
その腕には、自分の身長の数倍はある血と苔にまみれた巨大な廃材が、まるで綿菓子のように軽々と握られている。
それまで狂ったように暴れていたグラン・リヴァイアは、激痛の元凶が消えたことで、拍子抜けしたようにプカプカと水面に浮かび上がった。
『……ハァ、ハァ。信じられない。魔力による肉体強化の効率が、計算上の1000%を超えてる。あの華奢な体のどこにそんな魔力を溜め込んでるんだ……』
通信機越しにルカの呆然とした声が漏れる。
「見て、リヴァイアが落ち着いたわ」
ベルゼーが優しく魔法を振りまくと、リヴァイアの傷口がみるみる塞がっていく。
深海の怪物は、最後に一度だけ、感謝を示すように小さく潮を吹くと、ゆっくりと湖の深淵へと帰っていった。
「……ふむ。任務完了だな」
ガリウスがカヴァロを湖畔に着陸させた。
そこには、自分たちを殺しに来たと思っていた魔族が、なぜか「ゴミ拾い」をして去っていく姿を見て、口をあんぐりと開けた里の人々が取り残されていた。
セレナは担いでいた柱を、里の入り口に、「よしこらしょ」と、植木鉢でも置くような仕草で置いた。
「これ、落とし物ですよ!次は捨てちゃダメですからね!」
満面の笑みで告げる堕天使。
「……さて、セレナ。里の代表者に『清掃協力金』の請求書を渡してこい。それが安定課の最後の仕事だ」
ガリウスの言葉に、セレナは首を傾げた。
「ほへ?お金もらうんですか?」
「当たり前よ。私たちはボランティアじゃないんだから」
ベルゼーがウィンクする。
魔王軍世界安定課。その仕事は、平和を守ること。そして、その平和の代価をきっちり徴収することなのである。
「あ、あの……魔族の、お方……?」
里の代表者らしき老人が、杖をガタガタと震わせながら、おそるおそるセレナに歩み寄ってきた。
背後では、村人たちが「あの巨体を指一本で……」「あの黒い翼……あれが、魔王軍の幹部か何かなのか」と、ヒソヒソと怯えた声を漏らしている。
彼ら一般の人間にとって、魔族の正確な種族名など知る由もない。彼らに分かるのは、目の前の少女が纏う、あまりに強大で異質な「死の気配」——そして、それとは正反対の、透き通るように美しい残酷なまでの容姿だけだった。
「はい!魔王城世界安定課のセレナです!トゲ、抜いておきましたよ!」
「あ、ありがとうございます……。しかし、この柱は……」
「これですか?皆さんの里の近くにあったゴミですよ。これからは不法投棄しちゃダメですよー。あの子、すっごく痛がってましたから!」
「不法投棄……」
老人が絶句する。代々、湖は神聖なものとして守ってきたつもりだったが、上流にある大きな街が、廃船を密かに沈めていたという噂はあった。それがこの惨動の原因だったとは。
そこへ、ベルゼーが優雅に舞い降り、一枚の羊皮紙を差し出した。
「はい、おじいさん。感謝の言葉は後でいいわ。まずはこれ、今回の『緊急災害復旧および環境保全業務』の請求書。……あ、お代は人間の通貨でも、特産の干し魚でもいいわよ?」
「せ、請求書……?」
「そう。魔王城は今、とっても健全な組織運営を目指してるの。……それとも、支払いを拒否して、またあの魚に暴れてほしいのかしら?」
ベルゼーが少しだけ悪戯っぽく瞳を光らせると、老人は「いえ!とんでもない!すぐにお支払いします!」と叫んで、村の奥へと走っていった。
「……ふん。相変わらず、脅しに近い交渉だな、ベルゼー」
カヴァロから降りたガリウスが、首のない首元をポリポリと掻く。
「人聞きが悪いわね。正当な報酬よ。……さあ、ルカ!集金も終わったし、帰還の報告を課長に入れてちょうだい」
耳元のインカムから、ルカの盛大な溜息が聞こえてきた。
『……とっくに終わらせてるよ。課長は今、報告を聞いて椅子から転げ落ちそうになってる。……あーあ、せっかく静かだった魔王城が、また騒がしくなりそうだね』
ギラン湖から遠く離れた、陽の光さえ届かぬ深き渓谷の底。
そこには魔王城の壮麗さとも、人間の里の素朴さとも無縁の、冷徹な石造りの神殿が佇んでいた。
「……失敗、だと?」
冷気を帯びた声が、広間に響く。
報告を入れているのは、顔を深いフードで隠した男だ。その手元にある魔導水晶には、先ほどまでセレナたちがいたギラン湖の光景が、ノイズ混じりに映し出されていた。
「はっ。不法投棄を装い、グラン・リヴァイアに『狂魔の杭』を打ち込みましたが……想定外の介入がありました。魔王城の、世界安定課です」
「世界安定課……。あの、過去の遺物か」
男の前に座す影が、低く笑った。
「あのリヴァイアは、人間側の守備隊をおびき出し、魔族への敵対心を再燃させるための種火だった。それをたかがゴミ拾いのごとく片付けるとはな」
「申し訳ございません。特に、あの黒い羽の娘……。杭を物理的に引き抜くという、計算外の力を見せつけました。あれは一体……」
「……堕天使族か。興味深い。魔王が平和ボケしたこの時代、世界を再び『あるべき形』に歪めるには、少しばかり掃除が必要なようだな」
男は、手元のチェスの駒――真っ黒な騎士を、盤上から指先一つで弾き飛ばした。
「泳がせておけ。安定を望む者が、自らの首を絞めることになるその時までな……」
一方その頃、空飛ぶカヴァロの背中では、そんな不穏な空気など微塵も感じさせない会話が飛び交っていた。
「わぁ!見てくださいガリウスさん!夕陽がとっても綺麗です!」
「……あぁ。だが、あまり身を乗り出すな。落ちればルカにまた小言を言われる」
「ほへー。でも、ルカくんの小言、BGMみたいで落ち着くんですよね」
『……誰がBGMだって!?全部録音して、明日の始末書の反省文に引用してやるからね!』
インカムから響くルカの怒声に、セレナはケラケラと笑う。
「でも本当に、セレナちゃんのおかげで助かったわ。あのまま人間が軍を出してたら、今頃は全面戦争の準備で、私の有給休暇が全部吹き飛ぶところだったもの」
ベルゼーが優雅に羽ばたきながら、カヴァロの横に並ぶ。
「有給……?なんですか、その美味しそうな名前の魔法は!」
「ふふ、一番大事な魔法よ。いつか教えてあげるわね」
やがて、たなびく雲の向こうに、魔界の首都を見下ろす魔王城の影が見えてきた。
かつては恐怖の象徴だったその城も、今は多くの魔族が働き、生活する巨大な行政の場となっている。
魔王城の勝手口に近い、古びたバルコニーに着陸すると、そこには腕を組んで待っている骨の男――オステン課長の姿があった。
「おかえり。全員無事か」
「はい、課長!ただいま戻りました!」
セレナがカヴァロから飛び降り、元気よく敬礼する。
オステンは、セレナの翼についた水滴や、ガリウスの鎧の汚れを見て、小さく息を吐いた。
「……リヴァイアは戻ったそうだな。里の連中も、ひとまずは落ち着いたとルカから報告があった。初陣にしては、上出来すぎるほどだ」
「褒めても何も出ませんよ、課長!それより、今日の夕飯は……」
「あぁ、ベルゼーが徴収した『干し魚』がある。ルカも呼んで、部署内で山分けだ。それが終わったら――」
オステンは、机の上にうず高く積まれた、真っ白な書類の束を指差した。
「セレナ。君が引き抜いたあの『柱』の処分報告書と、現場の器物破損(湖底の損壊)に関する弁明書を書くんだ。いいな、逃がさないぞ」
「ほへぇぇ……!やっぱり、魔法じゃダメですか……?」
「物理でも魔法でも解決できないのが、この『仕事』というやつなんだよ」
ルカが計算機を片手に部屋から出てきて、ガリウスが頭部を脇に抱え直して椅子に座る。ベルゼーが早速、干し魚を焼き始め、香ばしい匂いが執務室に広がり始めた。
魔王が「戦いに飽きた」と言ったあの日から、世界は変わった。
血で血を洗う時代は終わり、今は紙とインク、そして時々、規格外の怪力が必要な時代。
窓の外では、魔界の月が静かに昇り始めている。
「こちら魔王軍世界安定課!本日の業務、これにて終了……。明日も、波乱の予感ですね!」
セレナの明るい声が、夜の魔王城に響き渡った。
彼女がこの部署を、そして世界をどう「安定」させていくのか。それはまだ、誰も知らない。
無属性チートの方の1000文字分の労力でこっちは10000文字かけるんですが、AIってずるいですね。
次回投稿日は5/4(月)です。
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