第11話 仮面の裏の従順
朝。塔の小さな窓から差し込む光が、冷たい石の床にできた僅かな水溜まりを照らしていた。
私はそこに映る自分の姿を見下ろし、そっと首筋に触れた。
白い肌にくっきりと刻まれた、赤黒く腫れた痛々しい噛み痕。
指先でなぞると、微かな痛みと共に、昨夜私を狂わせたあの圧倒的な熱と快感が脳裏に蘇り、下腹の奥がキュンと甘く疼いた。
(私はもう、セドリック様のものじゃない。……この痕は、あの番犬に選ばれた証なんだわ)
令嬢としての誇りなど、とうの昔に粉々に砕け散っている。
今の私はただ、この消えない印を与えてくれた『飼い主』が扉を開けてくれるのを、尻尾を振って待ちわびているだけの惨めな雌犬だ。
夕刻になり、待ち焦がれた重い足音が響いた。
鍵が開き、姿を現したカイルの腕には、牢獄には不釣り合いな豪奢なシルクのドレスが抱えられていた。
「立て。着替えるぞ」
カイルの言葉に、私はビクンと肩を揺らした。昨夜完全に屈服したくせに、染み付いた令嬢としての虚勢が勝手に口をついて出る。
「な、何よ急に。……着替えるから、少し席を外しなさい。レディの着替えを覗き見るなんて無礼よ」
「うるさい。早く着替えろ」
私の言葉など端から聞いていないカイルは、一歩踏み込むと、私が身にまとっていたゴワゴワの麻の服の襟元を掴み、乱暴に引き裂くように剥ぎ取った。
「きゃっ……!?」
(ちょっと、着替えを覗かないのが騎士の礼儀でしょう!? ……なんて、本に書いてあったことはもうどうでもいいわ。自分で脱ぐより、彼の手で乱暴に脱がされる方が、ずっと……っ)
冷たい空気に晒された肌が粟立つ。
しかしそれ以上に、彼の無骨な手が肌を掠めるたびに走る電流のような快感に、私の瞳は勝手に熱を帯び、潤んでいく。
恥ずかしいのに、もっと乱暴に扱ってほしいと願ってしまう自分がいた。
カイルは私のそんな期待に満ちた淫らな視線を鼻で嗤うと、私を抱き上げ、塔の一階へと連れ出した。
そこには、数人のメイドたちが湯を張った大きな桶と香油を用意して待機していた。カイルの短い命令一つで、私はメイドたちの手によって念入りに磨き上げられていく。
泥と埃にまみれていたプラチナブロンドは高級な香油で艶やかに梳かれ、荒れかけていた肌は滑らかに整えられた。深紅の豪奢なドレスを身に纏い、宝石を散りばめたような姿を鏡で見た瞬間、私の胸に淡い期待がよぎる。
(私、またお姫様に戻れるのかしら……?)
しかし、その期待はすぐに打ち砕かれた。
美しく完璧に装飾された私の姿の中で、首筋の赤黒い『噛み痕』だけが、どうやっても隠しきれない淫らな異物として存在感を放っていたからだ。これではまるで、誰かの慰み者であることをこれ見よがしに宣伝しているようなもの。
「仕上げだ」
戸惑う私に、カイルが背後から近づき、冷たい感触のものを顔に押し当てた。
それは、目元だけを覆い隠す、黒いレースの『仮面』だった。
「これを付けろ。今日のお前に名前はない」
「……っ」
名前がない。
その宣告に、私は恐怖よりも先に、ゾクゾクとした抗いがたい解放感を感じていた。
この仮面をつけていれば、私はもう「完璧でなければならないルチア・ベルローズ」ではない。誰の目から見ても、ただのカイルの所有物、名もなき『連れの女』になれるのだ。
令嬢としての重圧から解き放たれ、ただ従順に彼に傅くことだけが許される。
その事実が、たまらなく甘美だった。
外には、黒塗りの馬車が待っていた。
カイルにエスコートされて乗り込むと、馬車は夜の街へと静かに走り出した。
向かう先は、正体不明の男女が集うという仮面舞踏会。
密室となった馬車の中で、隣に座るカイルから立ち込める強烈な「雄」の気配に当てられながら、私は仮面の裏で熱い吐息をこぼし、底なしの夜の闇へと心地よく溶けていったのだった。




