第195話 ユイが折れる
カオスナイトが、近づいてくる。
一歩。また一歩。ゆっくりと、しかし確実に。追い詰めた獲物を、楽しむかのように。急ぐ必要がないと、分かっているのだ。
ユイは短剣を構えていた。だが、腕が震えている。体が動かない。足が、地面に縫い付けられたように重い。
恐怖ではない。疲労でもない。
諦めだ。
「私の知識では、勝てない」
その言葉が、自然と口から漏れた。
前世の経験が、今回は確実に通用していない。カオスナイトの動き、能力、強さ。全てが、記憶と違う。前世で戦った個体とは、明らかに別物だ。
なぜだ。
カオスナイト自体が、前世より強い個体だったのか。封印されていた期間が長かったせいで、力を蓄えたのか。あるいは、この個体だけが特別なのか。
それとも、自分の知識が不完全だったのか。前世で勝てたのは、実力ではなく、たまたま運が良かっただけなのか。
考えても、答えは出ない。
どちらにせよ、現状は変わらない。
勝てない。
「ユイさん……」
カイルの声が聞こえた。
振り返ると、カイルが立ち上がろうとしていた。負傷した腕を押さえ、大剣を杖代わりにして。顔は蒼白で、足元がふらついている。それでも、立とうとしていた。
「俺が……俺が盾に……」
その言葉を言い終える前に、カイルは倒れた。
膝が折れ、前のめりに崩れ落ちる。大剣が手から離れ、地面に転がった。目が閉じている。意識を失っている。魔力の枯渇と、負傷による出血。若い戦士の体は、限界だった。
「カイル!」
ユイが叫んだ。だが、助けに行けない。カオスナイトが、目の前にいる。一歩でも動けば、斬られる。
「……ユイ」
ハンスの声がした。
振り返ると、ハンスも膝をついていた。2.5メートルの巨体が、ゆっくりと崩れていく。ゴーレムの彼でさえ、限界に達していた。石の体にも、疲労は蓄積する。
「後は……任せる……」
「ハンス……!」
「すまない……もう……動けない……」
ハンスの目から、光が消えていく。意識が遠のいている。石の体が、重く地面に倒れた。轟音が響き、地面が揺れた。
二人が倒れた。
残っているのは、自分と、セイラと、レオンだけだ。
セイラが、必死に氷魔法を放とうとしていた。両手を伸ばし、残り僅かな魔力を集中させる。額に汗が浮かんでいる。歯を食いしばり、全身の力を込めている。
わずかな氷が、手のひらに形成された。
「氷槍……!」
セイラが叫んだ。氷の槍が、カオスナイトに向かって飛ぶ。彼女にとって、最後の一撃だ。
だが、届かなかった。
氷槍は、カオスナイトに触れる前に消えた。魔力を吸収されたのだ。まるで、水が砂に吸い込まれるように。跡形もなく、消えた。
「嘘……」
セイラの声が、震えていた。
彼女の魔法が、完全に無効化された。冷静な彼女の顔に、絶望が浮かんでいる。膝が折れ、地面に崩れ落ちた。もう、立つ力も残っていない。
レオンも、限界だった。
炎を出そうとしているが、手のひらから火花が散るだけだ。魔力が、完全に尽きている。ドラコニアの血を引く炎の使い手が、火花すら満足に出せない。
「くそっ……くそっ……!」
レオンが地面を殴った。拳から血が出ている。だが、それ以上何もできない。怒りと悔しさが、顔に滲んでいる。
全員が、倒れた。
リリアは魔力枯渇で意識がない。セリスも同様だ。エルザは影に溶けかけ、実体を保てていない。アイリスは戦闘力がなく、震えているだけだ。ザークスは重傷で、フィンとグレンも動けない。
戦えるのは、自分だけだ。
だが、自分一人で、何ができる。
前世の自分なら、できたかもしれない。38歳の、完成された肉体と技術を持った自分なら。20年の経験で鍛え上げた反射神経なら。
だが、今は18歳だ。体がついてこない。技術も、完全には再現できない。
一人では、勝てない。
仲間がいても、勝てなかった。
「終わりだ……」
ユイは呟いた。
その言葉は、心の底から出てきた。偽りのない、本音だった。
終わりだ。
もう、打つ手がない。逃げ場もない。戦う力もない。
カオスナイトが、目の前に立った。
見上げるほどの巨体。赤い目が、ユイを見下ろしている。大剣が、ゆっくりと持ち上げられた。
これで、終わる。
自分は死ぬ。仲間も、全員殺される。
何も守れなかった。何も成し遂げられなかった。前世の知識も、経験も、全て無駄だった。
ユイは目を閉じようとした。
その時、視界の端で、何かが光った。
小さな光だ。闇の中で、かすかに瞬いている。
カオスナイトの方向ではない。横だ。地面の方だ。
何だ。
ユイは、その光を見た。
廃墟の地面から、微かな光が脈打っている。規則的に。まるで、心臓の鼓動のように。
見覚えがあった。
あれは、封印陣だ。
カオスナイトを封じていた、あの封印陣の残骸。崩壊したはずなのに、完全には消えていない。まだ、わずかに光を放っている。
なぜ、今まで気づかなかった。
闇が濃すぎたからだ。だが、カオスナイトが近づいたことで、闇の濃度が変わった。本体の周囲だけ、少しだけ闇が薄い。
だから、光が見えた。
ユイは、その光を見つめた。
何かが、引っかかった。
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