第190話 前世の記憶
頬から血が流れている。
ユイは傷口を押さえることもせず、短剣を構え直した。カオスナイトは、数歩離れた場所で静かに立っている。次の攻撃を、待っているかのように。
戦いながら、ユイの脳裏に前世の記憶が蘇った。
38歳の自分。
カオスナイトと初めて戦った時のことを、鮮明に覚えている。あの時も、絶望的な戦いだった。闇の領域に閉じ込められ、分身に翻弄され、何度も死にかけた。
だが、勝てた。
一人で。仲間がいなくても。誰の助けも借りずに。
あの時の自分は、20年の冒険者人生で鍛え上げた肉体を持っていた。無数の戦闘で培った反射神経。限界まで追い込んだ筋力。長時間の戦闘にも耐えられるスタミナ。
全てが、今とは違った。
「あの時の私なら……」
ユイは呟いた。
あの時の私なら、今の攻撃は避けられた。あの時の私なら、反撃の隙を見つけられた。あの時の私なら、もっと長く戦えた。
だが、今の自分は18歳だ。
記憶と経験は、全て保持している。カオスナイトの戦い方は知っている。弱点も、攻略法も、全て頭に入っている。
なのに、体がついてこない。
カオスナイトが動いた。
大剣が横薙ぎに振られる。ユイは後方に跳んで回避した。だが、着地が乱れた。足がもつれ、体勢を崩す。
前世なら、こんな失敗はしなかった。
「くっ……!」
すぐに体勢を立て直す。だが、カオスナイトはその隙を見逃さなかった。追撃の剣が、ユイに迫る。
横に転がって回避する。地面を蹴り、距離を取る。息が上がっている。心臓が、限界を訴えている。
反応速度が違う。
38歳の自分は、カオスナイトの動きを先読みできた。剣の軌道を見てから動くのではなく、相手の体の動きから次の攻撃を予測できた。
今は、それができない。
目で見てから反応している。だから、常に後手に回る。回避がぎりぎりになる。反撃の余裕がない。
力が違う。
38歳の自分は、カオスナイトの攻撃を短剣で受け流すことができた。力で対抗するのではなく、角度と技術で衝撃を逸らす。そのための筋力と体幹が、鍛え上げられていた。
今は、それができない。
受け流そうとしても、力負けして弾き飛ばされる。体幹が弱い。筋力が足りない。18歳の体は、まだ未完成だ。
スタミナが違う。
38歳の自分は、何時間でも戦い続けられた。長期戦になればなるほど、経験の差が出る。相手が焦り、隙を見せるのを待つことができた。
今は、それができない。
もう、息が上がっている。足が重い。腕が痺れている。戦闘が始まってから、どれだけの時間が経った。まだ数十分かもしれない。だが、体は限界に近い。
カオスナイトが、再び近づいてきた。
ユイは短剣を構えた。手が震えている。握力が落ちている。
「まだ……まだ戦える……」
自分に言い聞かせた。だが、体は正直だ。
前世の技を、そのまま再現しようとしている。だが、今の体では再現できない。頭では分かっている。体に染み付いた動きが、今の肉体に合っていない。
ならば、今の体に合わせた戦い方をすべきだ。
だが、それには時間がかかる。戦いの最中に、戦い方を変えることはできない。
カオスナイトが剣を振り上げた。
ユイは横に跳んだ。回避は成功した。だが、着地で膝が笑った。踏ん張りが効かない。
その隙を、カオスナイトは見逃さなかった。
大剣が、薙ぎ払われる。
ユイは咄嗟に短剣を盾にした。金属音が響く。衝撃で体が浮き、壁に叩きつけられた。
「がっ……!」
背中に激痛が走った。息ができない。視界が霞む。
壁にもたれたまま、ユイはカオスナイトを見上げた。
巨体が、ゆっくりと近づいてくる。赤い目が、ユイを見下ろしている。
逃げられない。
戦えない。
前世の経験が、全く役に立っていない。知識があっても、体が動かなければ意味がない。
その差が、確実に戦況を悪くしている。
「仲間が……」
ユイは呟いた。
仲間たちは、今どうしているだろう。分身と戦っているはずだ。だが、声が聞こえない。無事かどうか、分からない。
自分がここで倒れたら、仲間たちはどうなる。
指揮を失い、バラバラに戦い続けるのか。一人ずつ、分身に倒されていくのか。
それだけは、避けなければならない。
ユイは壁に手をつき、立ち上がろうとした。
だが、足に力が入らない。膝が震えている。
その時、カオスナイトの気配が変わった。
今までとは違う。より鋭く、より速く。
殺気だ。
遊びは終わりだと、言われている気がした。
カオスナイトが、さらに加速した。
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