第189話 一対一
三体の分身が、ユイを囲んでいた。
赤い目が、闇の中で揺れている。じりじりと距離を詰めてくる。逃げ場がない。
ユイは短剣を構えたまま、呼吸を整えた。三体同時に相手をするのは厳しい。だが、やるしかない。
その時、異変が起きた。
三体の分身が、突然動きを止めた。そして、ゆっくりと後退し始めた。
「何……?」
ユイは警戒を緩めなかった。罠かもしれない。油断した瞬間を狙っているのかもしれない。
だが、分身たちは本当に去っていった。闇の中に溶けるように消え、気配が遠ざかっていく。
代わりに、別の気配が近づいてきた。
重い。濃い。分身とは比べものにならない圧迫感。空気が震えている。呼吸が苦しくなるほどの存在感。
本体だ。
闇の奥から、カオスナイトの本体が姿を現した。
身長は約3メートル。漆黒の鎧に包まれた巨体。手には、闇を纏った大剣。そして、二つの赤い目が、ユイを見下ろしている。
分身を退かせたのは、本体が自ら戦うためだった。
「私を、狙っているのか」
ユイは呟いた。
カオスナイトは答えない。ただ、ユイを見つめている。その視線には、明確な意思があった。殺意ではない。もっと深い何か。興味か。執着か。
分からない。だが、考えている暇はなかった。
「やるしかない」
ユイは短剣を構え直した。
風刃斬。
短剣を振り、風の刃を放った。一撃。二撃。三撃。連続で放つ。
カオスナイトは、動かなかった。
大剣を軽く振るだけで、全ての風刃を弾いた。まるで虫を払うかのように。力の差が、歴然としていた。
「効かない……」
分かっていた。風刃斬は、分身にすら通用しなかった。本体に効くはずがない。
だが、攻撃しなければ始まらない。
ユイは地面を蹴った。風魔法で加速し、本体に接近する。短剣を振り上げ、鎧の隙間を狙う。
カオスナイトが動いた。
大剣が振り下ろされた。ユイは横に跳んで回避する。大剣が地面に叩きつけられ、石畳が砕け散った。破片が飛び、ユイの頬を掠める。
「速い……!」
本体の速度は、分身と同じだった。いや、むしろ速いかもしれない。前世の知識では、本体は分身より遅いはずだった。だから、動きの速さで本体を見分けることができた。
なのに、今は違う。本体が、分身と同じか、それ以上の速度で動いている。
ユイは距離を取り、再び短剣を構えた。
カオスナイトが追撃してきた。大剣が横薙ぎに振られる。ユイは身を低くして回避した。風が頭上を通り過ぎる。髪が数本、斬り飛ばされた。
反撃。短剣を突き出す。だが、カオスナイトは軽く身を捻っただけで回避した。
当たらない。
ユイの攻撃は、確実に当たっていない。狙いは正確だ。タイミングも間違っていない。前世で磨いた技術を、そのまま再現している。
なのに、当たらない。
「なぜ……」
カオスナイトが、再び大剣を振った。ユイは後方に跳んで回避する。着地した瞬間、カオスナイトが距離を詰めてきた。
速い。反応が追いつかない。
大剣が振り下ろされる。ユイは短剣で受けようとした。だが、力の差がありすぎる。弾き飛ばされ、地面を転がった。
「くっ……!」
すぐに起き上がる。だが、体が重い。息が上がっている。
前世の経験則が、通用していない。
38歳の自分なら、この程度の攻撃は楽に回避できた。反撃の隙も、確実に見つけられた。だが、今は18歳の肉体だ。経験と知識はあっても、体がついてこない。
反応速度が、足りない。
筋力が、足りない。
スタミナが、足りない。
全てが、足りない。
カオスナイトが、ゆっくりと近づいてきた。急いでいない。余裕がある。ユイが逃げられないことを、分かっている。
ユイは短剣を構えた。手が震えている。恐怖ではない。疲労だ。握力が落ちている。
「まだ……」
立ち向かうしかない。逃げても、闇の中では方向が分からない。仲間のところに戻れる保証もない。
ならば、ここで戦うしかない。
ユイは再び地面を蹴った。風魔法で加速し、カオスナイトに接近する。
本体の動きを読む。大剣の軌道を予測する。回避のタイミングを計算する。
全てを、前世の経験に基づいて行った。
だが、結果は同じだった。
カオスナイトの大剣が、ユイの回避を読んでいた。横に跳んだユイを追うように、剣が軌道を変えた。
避けきれない。
咄嗟に短剣を盾にした。金属音が響き、ユイの体が吹き飛ばされた。壁に叩きつけられ、息が詰まる。
「がっ……!」
視界が揺れた。体中が痛い。だが、致命傷ではない。まだ動ける。
立ち上がろうとした瞬間、カオスナイトが目の前にいた。
大剣が、振り下ろされる。
ユイは横に転がった。大剣が地面を砕く。破片が顔に当たる。
起き上がる。短剣を構える。だが、もう遅かった。
カオスナイトの剣が、ユイの頬を掠めた。
熱い。
頬に、一筋の傷が走った。血が流れ、顎を伝って落ちる。
浅い傷だ。だが、それは偶然ではなかった。
カオスナイトは、殺そうと思えば殺せた。なのに、頬を掠めるだけに留めた。
遊んでいる。
ユイを、弄んでいる。
その事実が、ユイの心を抉った。
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