第117話 水辺の痕跡
アイリスの声に、軽さがなかった。
ユイは短剣を鞘に収めながら立ち上がる。
「何があった」
「来た方が早い」
全員がアイリスの後をついていく。葦の茂みを抜け、湿地の端に沿って50メートルほど歩いた。霧が少し薄い場所に出た。水面が広がり、その縁に葦が密生している。
アイリスが足を止め、葦の根元を指した。
防水の布が、折りたたまれるように押し込まれていた。葦に隠れるように置かれている。意図的に隠したのか、流れ着いたのか、一見では判断できない。
ユイがしゃがんで確認する。布は二重になっていた。中身がある。
慎重に広げると、食料の残骸が出てきた。干し肉と乾燥果物。どちらも腐り始めている。3週間以上は経っているだろう。その下に、小さな手帳があった。
革表紙。防水加工が施されているが、端が湿気で膨らんでいる。
ユイは手帳を手に取った。ページをめくると、湿気で張りついたページが多い。インクが滲み、文字が潰れている。読める状態ではない。
最後のページだけが違った。
表紙に近い位置にあったためか、湿気の影響が他より少ない。文字が残っていた。
「ここで何かを見た」
それだけ書かれていた。続きはない。次のページは白紙だ。日付もない。誰の名前も書かれていない。
ユイはそのページを繰り返し見る。
筆圧が強い。急いで書いたような崩れ方ではなく、しっかりと力を込めて書いている。書いた人間は落ち着いていた。あるいは、落ち着こうとしていた。
「何が書いてあるの」
アイリスが横から覗き込む。
「ここで何かを見た、とだけ書いてある」
「……それだけ?」
「それだけだ」
全員が黙った。
山岳のキャンプ跡は違った。焚き火の跡があり、食料の残骸があり、依頼書の切れ端があった。誰かがそこで過ごした形跡が、広い範囲に残っていた。
ここは違う。荷物一つだけが、葦の根元に押し込まれている。戦った跡がない。逃げた跡もない。誰かが置いていったのか、それとも置かざるを得なかったのか。持ち主だけが、どこかへ消えた。
「報告はしないといけないですね」
リリアが静かに言う。
「ああ」
「ギルドに届ける義務がありますわ。失踪案件として記録されているかもしれません」
「分かった。持ち帰る」
ユイは手帳を元の布で包み直し、荷物の中にしまった。
エルザが周囲の地面を見回している。水面。葦の根元。泥の上の足跡。足跡は残っていない。雨か、湿地の水分で消えたのだろう。
「……ここにいた期間は短い」
エルザが短く言った。
「根拠は」
「荷物が少ない。長期滞在の準備じゃない」
ユイは頷く。短期間ここにいて、消えた。何かを見て、書き残して、消えた。
「いったい何があったんですかね」
カイルが呟いた。返事をする者はいない。
セリスが、手帳をしまったユイの荷物の方をじっと見ている。何か言いたそうな顔をしていたが、口にしなかった。
セイラは水面を見ていた。表情は変わらない。
ユイは立ち上がり、来た方向を向く。
4箇所目だ、という事実が頭の中でじわりと広がる。岩場、深森、山岳、そして今日の湿原。行く先々で、誰かがいなくなっている。方向が一致している。偶然と呼ぶには、重なりすぎている。
だが今は言わない。
根拠のない話はしたくない。装備が整っていない段階で全員を動かすことはできない。今日の目的は素材の確保だ。
「ギルドへ届ける。それだけだ。素材の回収を続けるぞ」
全員が頷く。
歩き始めながら、ユイは一度だけ葦の茂みを振り返った。
4箇所目という事実が、胸の中でじわりと広がる。
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