第113話 泥の道
街道を外れた直後、足元の感触が変わった。
石畳の硬さが消え、草を踏む柔らかさに変わり、やがてじわりと地面が沈む。一歩踏み出すたびに靴底が土に吸い込まれる感覚がある。
ユイは歩きながら、出発前にゴードンが言った言葉を反芻していた。
「湿原は足を取られる。泥に膝まで沈んだら、それだけで消耗する」
山岳より近い。移動の負担は少ない。だが、フィールドの性質はこれまでとまったく違う。
葦の群れが視界の先に広がり、薄い霧が帯のように地面を這っていた。空気が重い。湿気が肌に張りつき、呼吸の中に水の匂いが混じる。
「あ、沈んだ」
セリスが短く言い、その場に立ち止まる。右足が足首まで泥に埋まっていた。
「こっちに」
カイルが素早く手を差し伸べる。セリスが引き抜かれると、ぼこりという音とともに泥が戻る。水色の軽装鎧の裾がすでに茶色く汚れていた。
「ありがとうございます。なんか、歩くたびに吸われる感じですね……」
「気を抜くな。止まると余計に沈む」
ユイが言い、また歩き出す。
後方で、ずん、と重い音がした。振り返ると、ハンスが踝まで泥に埋まっていた。巨体がそのまま進もうとすると、さらに沈む。少し間を置いてから、ゆっくりと足を引き抜いた。音も表情も変えない。そのまま歩き続ける。
「……あれが一番消耗しそう」
アイリスが小声で言いながら、先行偵察に移った。
軽装のアイリスは地面の沈みが少ない。素早く葦の茂みを抜け、霧の中へ消えていく。しばらくして戻ってきた。
「前方50メートル先、視界がほぼ効かない。霧が濃くて、葦が死角をたくさん作ってる。気配は今のところなし」
「分かった。左側を意識して進む」
霧が濃い、とアイリスは言った。
ユイは周囲に目を向けながら歩く。前世の記憶では、この湿原の霧はもう少し薄かった。朝の時間帯というだけではない。密度が違う。今日の天気のせいか、それとも別の理由か。判断する材料がまだない。
「……水辺は苦手だ」
エルザが短く言った。
「え、なんで?」
アイリスが振り返る。
エルザは答えない。前を向いたまま、一定のペースで歩き続ける。赤い瞳が霧の先を静かに読んでいた。
アイリスは少し口を開きかけて、やめた。索敵に戻る。
「中央部まで、あとどれくらいですかしら」
リリアが地図を確認しながら歩く。
「30分ほど。ただしこのペースならもう少しかかる」
「足場が、思ったより変則的ですわ。柔らかい場所と硬い場所が交互にありますわ」
「踏む前に確認する習慣をつけろ。見た目で判断できない」
「……なるほど。山岳とは全然違う難しさですね」
歩くたびに体力を使う。単純な距離の問題ではなく、一歩一歩の負荷が蓄積していく。これが湿原の消耗だとユイは理解した。前世でもそうだった。ただ、今日は全員初めてこの地形を踏む。経験値がない分、消耗の速さが読めない。
葦の茂みを抜けると、視界が少し開けた。
水面が広がっている。水草が浮き、霧がその上を滑っていく。静かだった。音がない。鳥の声も、虫の声も聞こえない。
深森の夜にエルザが言った言葉を思い出す。静かすぎる、と。山岳でも鳥の声がなかった。今日も、聞こえない。
「進む」
ユイが短く言い、湿地の端を選んで歩き始める。
霧の向こうで、何かが動いた。
音ではなく、水面の揺れで気づいた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
少しでも「面白い」「続きが気になる」と感じていただけましたら、
ブックマーク・評価・感想などで応援していただけると、とても励みになります。




