第108話 放棄されたキャンプ
アイリスが指した方向へ、全員が静かに近づいた。
岩と岩の間に、わずかな窪みがあった。風の当たりにくい場所だ。人が意図して選んだような位置だった。
最初に見えたのは、焚き火の跡だった。
石を丸く並べた簡易的なかまどに、炭の残骸が積もっている。完全に冷えている。雨に晒された形跡もある。少なくとも数日、いや、それ以上前のものだ。
その周囲に、いくつかの物が残されていた。
使いかけの携帯食料の袋。口が開いたまま放置されている。水筒が1本、岩に立てかけてあった。中身はとっくに蒸発している。毛布の端が岩の隙間に挟まり、風雨に晒されて色が褪せていた。
「……キャンプ跡だ」
エルザが低く言う。
誰も返事をしなかった。全員が黙って見渡していた。
ユイはゆっくりと中に入り、地面の状態を確認した。足跡の痕跡。物の配置。焚き火を囲むように荷物が置かれている。複数人のものだ。2人か、3人か。
争った跡はない。血の痕もない。荷物が散乱している様子もなかった。
ただ、いなくなっている。
「逃げた感じじゃないね」
アイリスが静かに言った。普段の軽口とは違う、観察者としての声だった。
「……戦った跡もない」
エルザが続ける。
「装備の一部が残っていますわ」
リリアが岩陰を指す。革製のベルトポーチが置かれていた。中に何が入っているかは開けていないが、冒険者が装備の一部を置いたまま離れるとは考えにくい。
ユイはキャンプ跡を一通り見渡した。
前世の記憶にない光景だ。前世では、このエリアで冒険者が消えるという話は聞いていない。これは前世に存在しなかった出来事だ、という確信が静かに固まった。
地面の一角に、紙の切れ端が落ちていた。
雨に濡れて端が波打っていたが、文字が残っている部分があった。ユイがそれを拾い上げ、目を細めて読んだ。
冒険者ギルドの依頼書の一部だった。日付が記されている。3週間前だ。
「依頼書だ。3週間前の日付がある」
全員が静かに聞いていた。
「誰かがここでキャンプを張った。それ以降、姿がない」
「……報告すべきですわ」
リリアが静かに言った。
「ギルドに届け出れば、捜索依頼になりますわ。それがここにいた人たちへできることかもしれませんわ」
「……今は素材が先だ」
エルザが短く言った。感情的な判断ではない。現状の優先順位を冷静に示した言葉だった。
ユイも同じ判断を下す。
今ここで動いても、手がかりはこれ以上出ない。装備も消耗している。キャンプ跡の保全に人員を割く余裕もない。帰還後にギルドへ報告する。それが今できる最善だ。
「エルザの言う通りだ。今は続ける」
カイルが少し言いたげな顔をしたが、口を閉じた。セリスは依頼書の切れ端をもう一度見てから、視線を逸らした。
ユイは紙を手にしたまま、もう一度目を落とした。
文字が読める部分は少なかった。雨が大半を消している。残っているのは1行だけだった。
「北側に——」
そこで紙は破れていた。続きはない。
ユイはその1行を頭に刻んだ。語らない。根拠がない段階で全員に話しても、不安を広げるだけだ。
「行くぞ」
ユイは立ち上がり、キャンプ跡に背を向けた。
全員がゆっくりと動き出す。誰も振り返らなかったが、その場の空気が少し変わっていた。さっきまでとは違う重さが、全員の足取りに混じっていた。
山の風が岩の間を抜ける。
焚き火の炭は、風が吹いても動かなかった。
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