第100話 深森の入口
岩場を後にすると、空はすでに傾いていた。
西へ移った日差しが草地を赤く染め、全員の影が長く伸びている。戦闘の余韻が身体の奥に残ったまま、誰も足を止めない。乾いた岩場の空気は次第に薄れ、代わりに湿り気を帯びた匂いが混じり始めた。
30分ほど歩いたところで、景色が変わる。
木々の密度が急に増し、空が狭まった。
深森の境界だ。
前から吹いていた風が、そこで途切れた。枝葉が天を覆い、森の内側は空気が沈んでいる。湿った土と腐葉の匂い。微かに混じる獣の臭い。
「深森だね」
アイリスが入口手前で立ち止まり、周囲を確認する。視線が自然に左右へ流れる。
ユイは一歩前に出た。
「入る前に隊列を確認する。カイルとハンスが前。エルザとアイリスが中衛。後衛はリリア、セリス、セイラ。私は最後尾で全体を見る」
「了解です!」
カイルが前へ出る。ハンスが隣に並ぶ。巨体が木の幹と並び、道幅がさらに狭く感じられた。
全員が位置につく。
ユイは最後尾から一人ずつ視線を走らせた。歩幅、呼吸、視線の動き。岩場での消耗は小さくないが、崩れてはいない。連携のずれは整理済みだ。
森は岩場と違う。
視界が狭く、気配が読みにくい。群れで動く相手には、不利な地形だ。
「ダイアウルフは複数同時の想定で動く。1体に集中しすぎないこと。側面を取られないように」
「……複数、か」
エルザが小さく復唱する。
「アイリスとエルザは外側の警戒を優先してほしい」
「了解だよ」
「……承知した」
全員が頷く。
そのとき、セイラが森の暗がりへ顔を向けた。
わずかに眉間が動く。
「……臭いが、違う」
低い声だった。
ユイは視線だけを向ける。
「違う?」
「……分からない。ただ、違う」
それ以上は言わない。セイラは前を向く。
ユイも追及しなかった。
代わりに、森の奥を静かに見据える。葉の揺れ、枝の擦れ、地面に落ちた影の重なり。動きはない。だが、空気が張りつめている。
「入る」
短く告げる。
カイルが踏み込み、ハンスが続く。隊列は崩れないまま、深森へ足を踏み入れた。
木々が頭上で絡み合い、光が細くなる。
地面は柔らかい。足音が吸われる。岩ではなく根と泥が広がり、踏み込むたびにわずかに沈む。
「足元、根が多い。気をつけて」
「はい!」
セリスが足元を見ながら進む。
50歩、100歩。
後方の光が遠ざかり、森の内側の暗さが濃くなる。視界は狭まり、音も吸い込まれていく。
アイリスが歩幅を落とす。
「静かだね」
その声は、森に飲み込まれるように小さい。
「深森は、このようなものではありませんの?」
リリアが囁く。
「……それにしては、静かすぎる気がする」
確かに。
風がない。虫の羽音もない。枝を渡る小動物の気配もない。
静けさが、重い。
その直後。
森の奥から音が届いた。
低く、長く、複数の声が重なる唸り。
遠い。
だが、確実にこちらを捉えている。
「……います」
エルザが言う。
ユイは歩みを止めず、耳だけで方向を測る。
正面やや右。距離はまだある。
包囲される距離ではない。
「止まらない。ゆっくり前へ。隊形は維持」
声は低く、静かだ。
全員の足が、同じ速度で前へ進む。
森の奥で、唸り声がもう一度、重なった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
少しでも「面白い」「続きが気になる」と感じていただけましたら、
ブックマーク・評価・感想などで応援していただけると、とても励みになります。




