ep.30 "怠惰〈アケディア〉"
朝。
アラームが鳴っても、体が動かなくなった。
音だけが鳴り、意識だけが覚めていく。
天井の染みを見つめたまま、何分経ったのかもわからない。
「空〜?朝ごはん食べるの〜?」
下の階から透き通るように母の声が響く。
しばらく返事をしないでいると、階段の軋む音とともに俺を呼ぶ声が大きくなってきた。
そして、扉の向こうから数回ノックが鳴ると、こちらの返事も聞かずに扉が開いた。
「空?起きてる?」
「………ご飯、要らない」
「…またそんなこと言って。
ちゃんと食べないと大きくならないぞっ!」
母は冗談交じりに小突いてくる。
何の変哲もない、いつもの日常。
何不自由なくて、ただ、俺が死にたかっただけの日常。
ルクシアの号哭は一瞬のことだったが、俺にはその時間が数十倍にも引き伸ばされたように感じていた。
彼女の傷に触れて、共感して、そしてわかったことがある。
――俺はきっとまだ死にたいのだ。
前を向くことができるようになったのも。
笑うようになったのも。
誰かのために一生懸命に頑張れたのも。
俺は俺自身が変われたのだと信じていた。
否、信じたかった。
でも実際には、神様にこう言ってたんだ。
これだけ頑張ったのだから、"死ぬことを許して欲しい"。
生きようと努力した。
生きてみようと思った。
誰かを救おうとした。
それは全部、逆を言えば"生きていない"事の証明だった。
向き合うべきものから目を逸らして。
どうでもいい努力に逃げ込んでいた。
そうか。俺の罪は――
「――怠惰。だったんだな」
「…ん?何?何が言いたいことが…」
「ルクシア!俺には、前世の記憶がある!」
ルクシアは、先程までの態度はどこへ行ったのか。
豆鉄砲を食らったようにキョトンとした顔をした。
そんな彼女を差し置いて、俺は言葉を続けた。
「前世名は佐藤空。
好きな食べ物は母の手料理、嫌いな食べ物は特にはない。
あ、でも、父の作る手料理の味付けはパンチがありすぎて少し苦手だったかな」
「ちょっと待って…!
何を言っているの?」
「なんの不自由もなく。
大きな成功も大きな挫折もしたことが無い。
毎日暖かな手料理と、両親からの愛を存分に受けて育った」
「何それ?自慢!?
あなた、自分が何を言っているのかわかって…」
「そして、そんな人生に生きる意味を感じられずに、ただただ惰性で死んだ」
「…!?」
彼女は初めて黙った。
信じられないものを見るような顔をして。
いや、事実そう思っているのだろう。
彼女にとって今の俺は――
「今世では神から祝福を受けて、決して死ぬことが許されない身体で生まれ落ちた。
両親から愛されようとも。
誰かのために駆けずり回ろうとも。
誰かの居場所を作ろうとも。
生きる意味すら見いだせない俺は。
――君とは"違う化け物"だ」
目から零れた大粒の涙は、外気に触れて頬の上で冷たく凍った。
凍りついた涙を零したのは。
停滞し、凍ってしまった心を持っていたのは。
きっと、俺の方だったのだ。
「化け…物…?」
「そうだ。
俺も…いや、俺こそが不死身の化け物だ。
お前なんて、俺からしてみれば"普通の人"だよ」
「……普通の…人…?」
「あははっ!
やっぱ俺たち似てるんだなぁ…。
でも、"似てるだけ"だ。
…この言葉はな。ミリアが俺に言ってくれた言葉なんだ」
「ミリアちゃんが?」
「そうそう。
あの子は俺の太陽なんだ。
だから俺は、あの子から受け取った光をみんなに届けたいんだよ。
生きる意味は分からないけど、とりあえず、今やりたいことはお前を照らしてやることだ。
俺は"空"だからな」
太陽と空。
思えばこの出会いは運命だったのかもしれない。
"空っぽ"だった俺の中に、光が灯ったその瞬間だったのだから。
「……なんだか、本当にお似合いね」
「素直に受け取っておくよ。ありがとう」
「泣き疲れたら少し眠くなったわ。
悪いんだけど、1晩泊めてくれる?」
「1晩とは言わず、いくらでも泊まっていくといいさ。
3食昼寝付きだ。
だけど、今度は使用人なんてのはなしだからな?」
「……それって、また私を誘ってくれているの?」
「あぁ、もちろん。
帰るべき場所は用意した。
あとはお前の気持ちだけだ。
――俺たちと、家族になってくれないか?」
彼女の素顔はフードに隠されて見えない。
しかし、ほんの一瞬、顔が赤面しているように見えた。
それは泣き叫んだからなのか。
それとも別の理由なのかは俺には分からない。
でも、ひとつ確実に言えるのは――
「…悪い人だよね。
もう既に意中の相手が居るのに他の女の子に求婚するなんて」
「ばっ!そんなつもりじゃないよ!?
あと、ミリアはそういうんじゃないから!!!」
「あれ?意外と進んでないんだ?
なら、私でもワンチャンある?」
「お前!あんまり人を揶揄うんじゃありません!」
「あははっ!カエルムパパごめんなさ〜い!!!」
彼女はこの瞬間、本気で笑っていたということだ。




