第五章
加奈子の病後の経過は順調で、リハビリ病院で懸命にリハビリに励むようになっていたから、介護にはあまり手がかからなくなっていた。誰かが付いて見ているだけでよくなってきたので、友梨菜は「きよかわ」の仕事に専念できるようになった。とも枝からもアドバイスを受け、昼間の掛け持ちのバイトも、一本に絞った。それでも過労気味であることは確かだったけれども、彼女は出来るだけ一人でいる時間を少なくしようとしているように見受けられた。幸はそんな友梨菜を見ているのがつらかった。痛々しい姿だった。何とかしてあげたかったが、どうしようもなかった。それでも彼女には何としても幸せになってほしかったと言う。とにかくいい相談相手になろうと努めたが、友梨菜は本心を打ち明けることすらしなかった。
昼の職場で、毎日夢中になって働く、そんな友梨菜を見つめている男がいた。それが後に夫になる上野和弘だった。職場の評判によると、彼は女性にやさしいので知られていた。DVの前歴は影も形もないかのようであった。もてたらしく噂は尽きなかったが、何のつもりか、フェミニストを自称していたという。彼は結婚するまで彼女と男女の関係を持たなかった。彼のことを最初意識はしなかったというけれど、彼女は確かに男性のやさしさに弱いところがあった。和弘に甘い言葉をかけられて、二人の交際が始まった。彼女の本当の不幸が幕を開けようとしていた。彼女が結婚を意識しだすまで、そんなに時間はかからなかった。この人と安定した生活を送れれば、娘をきっと引き取れる。友梨菜の夢は二倍にも三倍にも膨らんだ。彼女の立場になれば、誰でも抱くに違いない平凡な夢であり、ささやかな幸せであった。上野和弘。この男の内面にどす黒い感情が渦巻いていることなど、まだ友梨菜は知る由もなかった。新生活が始まってしばらくは平和であったけれど、そんなものは見せかけの平和に過ぎなかった。生活が翳り出したのは、紗耶のことを夫に打ち明けたときからだった。
「娘がいるだと? もういっぺん言ってみろ!」。
髪の毛をわしづかみにされ、引きずり廻された。骨が折れるほど殴られた。地獄絵図のような日々のはざまに、友梨菜はたぶんひそかに、声にならない声で、娘にSOSを発しつづけていた。紗耶、紗耶、助けて。と、心に唱えれば、堪えがたい激痛が一瞬でも和らぐような気がしたからだった。
上野の家は、「きよかわ」からも幸の家からも離れていたし、結婚と共に、幸の一家からは疎遠になりつつあったことは否めない。また、夫からDVを受けていることを、友梨菜はどうしても幸にも彼女の両親にも言えなかった。その挙げ句、友梨菜は一大決心をし、「きよかわ」の仕事を辞めた。そして幸ととも枝に書き置きの手紙を残し、突然いなくなってしまった。手紙にはとも枝への最後の返却金が利息とともに同封されていた。




