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第三章

 彼女こと上野友梨菜は、旧姓を(まき)(はら)といった。一度だけ子供を産んだ経験があった。十六の時のことで、相手の男の名は篠田という姓と、通称キー坊と言われていたことしか分かっていない。彼女にとっては本気の相手であったが、男には彼女もただの遊び相手の一人に過ぎなかった。妊娠した時、悩んだが、結局産むことを決心し、高校を退学することにした。両親は大反対しただけでなく、親子の縁を切ると言った。二度と家の敷居をまたぐな。そう言われて、いよいよ彼女の決意は固まった。

 友梨菜には清川(きよかわ)(みゆき)という、小学生時代からの親友がいた。幸と友梨菜は在学時、家族ぐるみで家を行き来するほどの付き合いだったと言うが、友梨菜の両親が彼女を勘当同然に家から追い出したことに、幸はたいそう心を痛め、退学後の友梨菜を心配して、母、とも()とともに影になり日向(ひなた)になり、友梨菜を(たす)けた。また、のちに生まれたばかりの赤ん坊の世話をしてくれたのは、幸の祖母(とも枝の母)()()()だった。子育てのイロハを教えたのも加奈子であって、彼女は「きよかわ」という小料理屋の元オーナー兼女将であった。今はこの店をとも枝に譲り、隠居していたのである。とも枝は良人であり、幸の父である(きょう)(すけ)と二人で店を切り盛りしていた。その頃には店は居酒屋を兼ねていた。恭介が板前で、とも枝が女将(おかみ)である。「きよかわ」は元城町にあり、夕方五時に店を開け日付の変わる深夜一時までが営業時間である。評判のいい店だったからいつも人手不足で困っていたこともあって、友梨菜に臨月近くまで皿洗いのバイトをしてもらうことになった。「きよかわ」の調理場は客から見えない場所にあったから、身重の友梨菜が酔客にからかわれることはまずなかった。それと、もちろん労働基準法に(のっと)って、十八にも満たない未成年者に深夜のバイトはさせられないので、パート扱いに過ぎなかったが、最初の給料日、友梨菜は給料袋の中を見て驚いた。皿洗いのバイトとしては破格の金額が入っていたのである。こんなに頂けませんと、友梨菜はその時、彼女らの好意に今は何も恩返し出来ないことを心から詫び、涙ながらに礼を言ったと言う。また、友梨菜に矢立町のアパートを世話したのは、とも枝であった。金銭的にも困っていた友梨菜に、彼女は仕事で稼いだという貯金を喜んで一部、ポンと提供した。そんな「過分なる心遣い」に友梨菜は出産後、とも枝への月々の返金と彼らへの恩返しを忘れなかった。とも枝は今が大変な時なんだからそのお金は取っておきなさいというのに、友梨菜は決して納得しなかった。

 お産は長時間に及んだが、さしたるトラブルも無く安産だったと言う。生まれたのは女の子であった。名前を()()といった。昼間は加奈子のところに預けさせてもらい、コンビニや掃除婦などの仕事を掛け持ちして、何とか食いつないでいた。

 そんな仕事の合間の、友梨菜のよき相談相手になろうとしたのは幸だった。保母を目指していた幸はこどもが好きで、加奈子と一緒に暇さえあれば紗耶の面倒を見た。

 紗耶はそんな中ですくすくと育っていった。ひょっとすると友梨菜にとって「この時代」がいちばん幸せな頃であったかも知れない。つまりそれは紗耶が生まれて、寝返りが打てるようになり、そして這い這いをし、つかまり立ちが出来るようになり、やがて言葉を話せ、歩けるようになった、一歳から、三歳の頃までである。紗耶が初めて話した言葉は、「どうさん。」であった。どうやら「ゾウさん」のことを言ったらしい。こどもの成長は早い。友梨菜がバイトを終えるのは、夜の十時、その時分に加奈子の家に迎えに行くと、幼い紗耶であるから、いつもは眠っていた。傍らで加奈子も疲れて眠っている。幸だけが起きていて、紗耶の寝顔を見つめ、子守唄を囁くように唄っている。

「ごめんね。紗耶、いい子にしてた?」

「うん、いい子だったよ。やっぱり女の子は違うみたいね。おばあちゃんがそう言ってた。ぐずらないの。アパートでも夜泣きとかしないんじゃない?」

「うん、あんまり。いい子すぎて不憫なくらい」

「友梨菜、お金に困ってるんだったら言うんだよ。うちのお母さん、ほんとにびっくりするくらいへそくりしてるから」

「いいの。大丈夫」

「駄目だよ、無理しちゃ。困った時は何でも言って」

「わかった。いつもありがとうね」

 眠っている彼女を起こさぬようにおんぶして、友梨菜はいつもの夜道を帰る。すると紗耶は寝ぼけてこんなことを言い出す。

「おかあさん」

「ん?」

「ねえ、カバ好き?」

「うん、好きだよ」

「カバにけられちゃダメよ」

「うん。……大丈夫だよ」

 カバに蹴られた人なんて、この世にいるのだろうか。動物園の飼育員のことを言っているのかしら。

 それでも時々、母親が恋しくなる時があるらしく、起きて待っていることがあった。加奈子や幸がどんなに言っても、「いや! 紗耶はおかあさんのこと待ってる!」と言ってきかないのだそうだ。

 そういう時友梨菜は、褒めるべきか叱るべきか悩んだという。結局待っていたご褒美に、コンビニの大きなプリンを紗耶に買ってあげるのだが、アパートに帰るとさっそくお皿に開け、

「おかあさん、おいしい」

「そう。よかった」

「おかあさんも食べる?」

「いいよ、紗耶が食べなさい」

「だっておいしいよ。おいしいものはみんなで食べるともっとおいしいんだよ」

「そんなこと、誰に教わったの?」

「加奈ばあちゃんだよ」

「ふうん」

「はい。召し上がれ。あーん」

 うれしそうにプリンを食べ、母親にもカラメルがたっぷりかかったところを、食べてもらおうと匙を差し出す娘を見ていると、友梨菜は何かたまらなく込み上げてくるものを感じずにはいられなかった。

 彼女は思った。幸せになるのにお金なんかいらないんじゃないだろうか。紗耶がいてくれるだけで、これ以上の幸せがこの世にあるだろうかと思う。別に、身に余るお金なんかなくたっていい。食べるのに困らないだけのお金さえあれば、そして母子二人が笑顔で暮らしてゆけるのなら、外に欲しいものなんか何もありはしないのだ。そして、プリンを食べるか食べ終わらないうちにとろとろとおねむになって、

「ねえ、角の生えた馬って、牛?」などと寝言を言いながら寝てしまう紗耶の顔を見ていると、ただ、こんな夕べがいつまでも続いてほしいと思う。なぜならそれが友梨菜にとっての、人生でたった一つの望みだったのである。


 けれど、そのかけがえのない時間も、長くは続かなかった。彼女は結局娘を育てきれなかったのだ。もちろん友梨菜は娘にとって「いいおかあさん」であったし、それはあくまでも経済的な理由であった。

 彼女を取り巻く環境が急変してしまったせいでもあった。ある時加奈子が脳梗塞で倒れ、介護が必要な身体となってしまったのである。その慣れない介護を友梨菜はとも枝に代って「きよかわ」が忙しい時間帯まで受け持ったのだが、彼女にも昼間は掛け持ちの仕事があった。若いとはいえ、働きすぎであったことは否めない。おまけに娘がインフルエンザになって、幾日も高熱を出したせいで、昼間のバイトに出られず、そのために仕事を一つ首になった。首を言い渡された日、彼女は頭の中が真っ白になり倒れてしまったという。お察しの通り、過労であった。三日間入院して退院した時、彼女のなけなしの貯金はほとんど無くなっていた。家計は先細り状態となり、これ以上二人の生活を続けてゆくことが出来なくなった。紗耶の面倒ならいつでも見ると幸は言ってくれたし、とも枝はまた幾らでもお金を貸すよ、相談にも乗るよと言ったというのだが、そこまでのご厚意を受けるわけにはいかないと友梨菜は首を縦に振らなかった。

 これ以上幸の一家に迷惑はかけられない。友梨菜は哀しい決断をした。娘を施設に預けることに決めたのである。紗耶は三歳、友梨菜はまだ十九という若さであった。彼女はその時紗耶にこう言ったという。

「紗耶、紗耶は強い子よね」

「うん、紗耶は強い子だよ」

「今日ね、言わなきゃならないことがあるの」

「なあに」

「私たち、お別れしなくちゃならなくなったの」

「……どうして?」

「大人になればわかるの」

 友梨菜がどうやってこんな言葉をしぼりだしたか。とにかく突然のお別れを母親から告げられた紗耶は、きょとんとした眼をしてその時一瞬息を止めた。泣き出す時のサインである。くずおれるように膝をついて娘の泣き崩れるさまは、さながら雨に打たれる仔猫のようであった。思わず抱きしめる外ない友梨菜は、抱きすくめたまま何を言うことも出来なかった。

 そのあと二人はファミレスに行って、向かい合わせに座り、プリンを食べた。声も上げずに泣きながらプリンを食べる紗耶を見て、友梨菜が何も思わなかったわけはない。彼女は叫び出したい気持ちであったことを、のちの日記に書いている。しかし、そのあとも母親から離れようとしない娘を、心を鬼にして叱り、友梨菜は涙を決して見せなかったという。彼女なりに必死だったのだろう。そして彼女はいつまでも施設の門のところに立って、見えなくなるまで娘を見送っていた。

 我に返ると友梨菜はアパートにいた。どこをどう歩いて帰ったのか記憶がない。とにかくはっきりしているのは、明日から娘のいない毎日を一人きりで過ごさねばならないと言うことだった。けれどもそんなことよりも紗耶が施設でちゃんと暮らしてゆけることを一生懸命考えようとした。紗耶、紗耶。お母さん、頑張るからね。いつかあなたを引きとれるように一生懸命働くから。そうは思ったものの、何を見ても紗耶のことが思われ、涙がとめどもなく溢れて止まらなかった。必死に我慢しようとしたけれど、どうにもこらえようがなかった。

 気がつくと眠っていたらしく、窓のカーテンに明るみが射しはじめていた。顔を洗い、朝ごはんを作った。そんなつもりはなかったのに、紗耶の分までご飯を炊いておかずを作っている自分がいた。彼女は娘の茶碗にご飯をよそり、味噌汁とおかずの皿を置いた。「いただきます」と言って、食べた。胸が詰まって、食べるのがつらかった。紗耶はちゃんと眠れただろうか。泣いていたりしないだろうか。朝ごはんは食べているだろうか。

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